ロンメル将軍とドイツ・スペイン軍の悲劇
感想欄で指摘がありましたので、念のために。
これは架空戦記創作大会参加作品の一つです。
1945年5月、ベルリン陥落により、欧州戦線における第二次世界大戦は終結した。
その後、いわゆる戦犯狩りがドイツ本国全土で吹き荒れた。
そうした中において、ヒトラーやナチ党高官並みに非難されたドイツ軍の軍人は1人だけである。
その名はエルヴィン・ロンメル。
いわゆるドイツ・スペイン軍司令官として、1943年までスペイン戦線で戦い抜いた将軍である。
だが、スペインのフランコ総統に言わせれば、スペイン市民を虐殺することにおいて、空前のモノがあり、少なくとも数十万人、恐らく100万人単位のスペイン市民を虐殺した大戦争犯罪者だとされている。
また、ほとんどのドイツ軍の軍人も、ロンメルを庇うどころか、非難している。
「ヒトラーの腰巾着」
「ドイツ軍の軍人として、史上最悪の人間」
「あの男が、ドイツ軍の将軍で同僚であったというだけで、私は罪の感情に苛まれる」
等々の非難が、多くのドイツ軍の軍人から、ロンメルには浴びせられている。
だが、こういった非難は真実に基づくものなのだろうか?
ここに1冊の書籍がある。
「ロンメル将軍とドイツ・スペイン軍の悲劇」
とこの書籍の表題には書かれている。
第二次世界大戦終結後、時が流れるにつれ、ドイツやイギリス、アメリカ等では、第二次世界大戦時の第一次資料が、徐々に公開されるようになった。
「ロンメル将軍とドイツ・スペイン軍の悲劇」
この書籍を書いた筆者は、そういった第一次資料を詳細に調べ上げた末、ロンメル将軍とドイツ・スペイン軍が行ったとされる戦争犯罪の多くが冤罪である、と主張した。
実際、ロンメル将軍とドイツ・スペイン軍が行ったとされる戦争犯罪の殆どは、第二次世界大戦終結後、スペインにおいて主張されるようになったものである。
また、第二次世界大戦中においては、ロンメル将軍は、騎士道精神溢れる将軍、と敵味方から称賛されているという史実がある。
何しろチャーチル英首相でさえ、第二次世界大戦中には、ロンメル将軍により、英軍捕虜が人道的に取り扱われていること、スペインの民間人保護を行っていることに対して、称賛の意を示している程である。
ということは、「ロンメル将軍とドイツ・スペイン軍の悲劇」は、それなりに真実を主張しているようにも思われてくる。
だが、未だに「ロンメル将軍とドイツ・スペイン軍の悲劇」は、基本的に少数説,異端説として、第二次世界大戦史を取り扱う歴史学者の間では、取り扱われている。
これは何故なのだろうか?
それはこの書籍の著者に、主に原因がある。
この書籍を執筆したのは、ロンメル将軍の隠し子、娘だったからである。
ゲルトルート・シュテンマー、彼女は父の冤罪を信じ、真実を追い求めたのだ。
彼女は亡くなる直前のインタビュー等で、こう述べている。
「父と最後に会った時のことを、私は今でも昨日のように想い出せます。
私が父と最後に会ったのは、今は無くなったベルリンのあるレストランでした。
父は、スペイン軍団(後に規模が拡大し、スペイン軍になる)の軍団長として出征することが決まり、悪い予感がするから、私に会ってから、赴くことにした、とその時に言いました。
私達は秘められた関係ですから、お互いの家等で逢う訳には行かず、それなりに公然とした場所で、この時は会ったのです。
レストランの給仕や、レストラン内で私達を見かけた客らは、私を父の愛人と想ったかもしれません。
食事を済ませた後、父は私に言いました。
本当は、自分はスペインには行きたくない。
あそこは、色々な憎しみがはびこっているところだ。
最後には全ての憎しみが、自分に向けられそうな気がする、と。
だが、父を信じて欲しい、お前が心の中で、私は本当はあの人の娘なのです、と誇らしげにいえるように軍人として戦うつもりだ、と。
そんな父が、あんな残虐なことをしたとは、どうにも私は信じられず、真実を私は追い求めたのです。
実際、第二次世界大戦後に、父の身に起こったことはそうでした。
第二次世界大戦中にスペインで起きた悪事ができる限り、父とドイツ・スペイン軍に、全てが押し付けられてしまったのです」
さて、何故にこんな事態が起きたのか。
周知のように、第二次世界大戦の前哨戦とされるスペイン内戦は、ソ連軍事顧問団等の活躍もあり、スペイン共和国派の勝利に終わった。
スペイン国粋派の主な人物の一人であるフランコ将軍は、同じカトリックという誼もあり、最終的にはイタリアに亡命した。
そして、このことは様々な影響を周囲に及ぼした。
スペイン共和国派は、スペイン内戦に勝利を収めた後、国粋派に対する弾圧を開始し、また、スペイン内戦において、事実上の敵国であったポルトガルの反政府活動を積極的に武力支援した。
このために、当時のポルトガルのサラザール政権が崩壊し、イベリスモ運動が事実上は成就し、1940年にスペイン共和国派を主導として、イベリア半島が事実上統一されて連邦国家建国が間近になっている、と世界の市民の多くが考える程だった。
その一方で、スペイン国粋派の敗北は、国粋派を支援した独伊の間に亀裂を生じさせた。
お互いに相手のせいで、国粋派が敗北した、という宣伝を国内外に行ったのだ。
こうした行きがかりから、独が第二次世界大戦当初、破竹の快進撃を行ったにも関わらず、伊は中立を固守することになり、アルバニア併合に伴うギリシャとの紛争さえ、国境紛争以上には至らなかった。
その一方で。
第二次世界大戦が進むにつれ、独ソ間の関係は微妙になっていった。
こうした中で、ソ連の同盟国であるスペインは、スペイン内戦の際の経緯からも、独の脅威を感じるようになっていった。
1940年秋にはスペインはソ連と防衛同盟を締結した。
また、それに対処して、独も対スペイン戦の準備を進めた。
1941年春、独がソ連に侵攻を開始すると、スペインはソ連との同盟に基づき、独に宣戦を布告した。
これに対処するため、独は、ロンメル将軍を司令官とするスペイン軍団を正式に編成し、スペインへと侵攻した。
だが、これは様々な混沌をもたらした。
独は、スペイン国内で少しでも支持を集めようと、伊に亡命していたフランコ将軍を担いで、自由スペイン政府(及び軍)を編成し、スペインと戦うことになった。
更に、(この世界では伊が中立を保ったために、北アフリカ戦線が存在しなかったこともあり)英軍は、積極的に対独のスペイン、イベリア半島を巡る戦争に介入することを決め、大規模な兵力を派遣した。
更に、英国は、自国に亡命していたサラザールを担いで、ポルトガルの再独立、イベリア半島からの独本土への侵攻を策す一方、本来のスペイン政府(元共和国派)には、冷淡な態度を執った。
この流れは、1941年冬の米国参戦により、更に深化することにもなった。
ゲルトルート・シュテンマーの主張に、主によればだが、第二次世界大戦中のイベリア半島は、本当に酷い戦場だった、という。
(なお、第二次世界大戦研究者の多くは、第二次世界大戦後にスペインに成立したフランコ政権が主導した現地調査により、そんなことは無かった、と主張している)
本来のスペイン政府(元共和国派)を支持するパルチザン、フランコ将軍を支持する自由スペイン軍、サラザールを支持するポルトガル独立軍が、それぞれの思惑を抱いて、武力闘争を展開し、反対する住民を虐殺することが多発していた。
英米は、そういった状況を基本的に見て見ぬふりをして、その武力闘争を傍観していた。
(何しろ、自分に対して、その矛先が向いている訳では無いのだ)
一方、ロンメル将軍以下のドイツ・スペイン軍は。
ヒトラー総統から、特にパルチザンやそれを支持する住民に対しては、容赦のない武力弾圧の命令が下され、一般SS等がその命令に基づいた行動をしていたのを、それこそ体を張って止めていたという。
そのような武力弾圧には同調できない、とロンメル将軍自ら命令を拒否する意見具申の記録まである。
その一方で、ドイツ・スペイン軍の味方である筈の自由スペイン軍は、スペイン内戦時等の恨みから、積極的にパルチザン支持の住民を容赦なく虐殺しており、ドイツ・スペイン軍が阻止しようとすると、スペインへの内政干渉だ、と激しく反発する例が多発していた。
そして。
1941年春に、ドイツ・スペイン軍(当初は軍団だったが)が編制され、ピレネー山脈を越えた後は、ロンメル将軍の指揮のよろしきもあり、1941年中に、マドリード以下のスペイン主要部を制圧下において、更にその先鋒はリスボンまでうかがい、間もなくイベリア半島全体を制圧するほどの勢いを、ドイツスペイン軍は示すことができていたのだが。
1942年以降は、米国の参戦もあり、イベリア半島情勢は、ドイツ・スペイン軍にとって、徐々に不利になっていった。
そうした中でも、ロンメル将軍以下、ドイツ・スペイン軍は、非武装の住民、民間人保護等の姿勢を、できる限りは崩そうとはしなかった。
だが、戦況が独に不利になりつつあるのを見たフランコ将軍以下の自由スペイン軍は。
伊等を仲介として、独を見限り、連合軍側に寝返ることを決め、その土産として、ロンメル将軍以下のドイツ・スペイン軍司令部の文字通りクビを持参することにした。
そして、陰謀により、この時にロンメル将軍以下のドイツ・スペイン軍司令部の主なメンバーは、フランコ将軍らの手の者によって、非業の死を遂げた。
更にその後。
フランコ将軍らの自由スペイン軍は、自らの行ったスペイン政府系支持者に対する武力弾圧は、ドイツ・スペイン軍の指示によるものだ、と責任転嫁に努めた。
そして、英米軍のために、自由スペイン軍は、奮闘することになった。
何故にフランコ将軍らが、そのようなことをしたか、というと、第二次世界大戦後、反独を旗印として、スペイン内戦から第二次世界大戦時の恨みを、できる限り外部に転嫁することによって、国内世論をまとめるためだった。
それによって、いわゆる左翼からなるスペイン政府系支持者を、フランコ将軍らは、自らの支持者に取り込もうとしたのだ。
また、これは英米にとっても、実は都合が良かった。
戦後を見据えた場合、イベリア半島が共産主義者の手に落ちるのは、何としても避けたい話であり、フランコ将軍がスペイン政府を、サラザールがポルトガル政府を、第二次世界大戦後に握るのは、英米にとって好ましい話としか言えなかった。
そういったことから、ロンメル将軍以下のドイツ・スペイン軍は、英米からも積極的に生贄として供されたのだ。
そして、1943年末にはイベリア半島全土が、連合軍の手に落ちたといえる状況になり、1944年6月に行われたノルマンディー上陸作戦に呼応して、イベリア半島の連合軍も大挙して北上、仏本国を解放して、1945年5月には独は降伏に至ることになる。
そして、第二次世界大戦後、ロンメル将軍以下、ドイツ・スペイン軍の汚名は、より酷くなった。
まず、ドイツ陸軍の主な将帥は、いわゆるユンカー出身者が多いのに対し、ロンメル将軍は非ユンカー出身の将軍であり、非主流派といえた。
また、ロンメル将軍が、そもそもスペイン軍の司令官に抜擢されたのも、ヒトラー総統の推挙によるものが大きかった。
こうしたことから、ドイツ陸軍の将帥の多くが、ロンメル将軍を庇うよりも、非難する方向に流れた。
ドイツ軍は、第二次世界大戦中は、ずっと白い存在であった。
ナチス政権に反対し、様々な戦争犯罪を犯すようなことは、ドイツ軍には決して無かった。
その神話を創り、守るために、ロンメル将軍は、ドイツ軍の裏切り者として、同僚として味方してくれる筈の、かつてのドイツ陸軍の将帥達の非難の的となったのである。
更に、第二次世界大戦後の米ソ対立、東西冷戦は、スペインを西側へと取り込む方向へと流れ、こうした理由も相まって、ロンメル将軍とドイツ・スペイン軍は、スペインの住民を容赦なく虐殺した、というフランコ総統の宣伝が、大きく広まることにもなった。
フランコ総統にしてみれば、自分達の手をできる限り白く見せて、国際的な立場を良くする必要があったからであり、積極的にドイツ・スペイン軍の戦争犯罪のねつ造にさえ務めた。
更にフランコ総統率いるスペイン政府が、スペインを統治しており、それに基づくスペイン現地での調査によるということから、歴史家の多くが、そういった情報、資料を積極的に信用した。
ゲルトルート・シュテンマーは、次のように主張している。
「ドイツ・スペイン軍の手が完全に真っ白だった、とまでは私は言いません。ですが、自由スペイン軍の方が、スペインの民間人に対する虐殺行為に熱心だったのは、第二次世界大戦時の英米軍の報告書等から、どう見ても明らかなのです。それなのに、第二次世界大戦後のフランコ総統らが行った自由スペイン軍等の主張が鵜呑みにされて、ドイツ・スペイン軍の手が真っ黒だった、と言われるのには、私は我慢なりません。被害者と加害者が結託して、第三者が主な加害者だった、と冤罪を被せているのです」
しかし。
21世紀に至っても、ゲルトルート・シュテンマーの主張は、基本的に受け入れられていない。
「そもそも、二股をかけて、子どもを産ませて、認知もしない。そんなクズ男が犯罪を犯さない訳が無い。第二次世界大戦後のスペインでの現地調査全てが、ドイツ・スペイン軍の戦争犯罪を明らかにしている。ゲルトルート・シュテンマーは、歴史を捏造し、自分の父親に都合のいい主張をしているだけだ」
ある高名な第二次世界大戦研究者に至っては、そのように一刀両断の主張をしている。
だが。
そのスペインでの現地調査全てが、フランコ総統以下、当時のスペイン政府の厳重な検閲を受けた上で公表されたものなのだ。
しかも、その現地調査は、スペイン政府によって行われたものだった。
第三者と言える英米仏等の研究者が加わってはいたが、その全員がスペイン政府の身元調査を経た上で、調査への参加を認められ、更に反ナチ、反共主義者として名を轟かせるメンバーが揃っていた。
こういった事実が判明する程、このような現地調査が、公平で信頼できる、と本当にどれだけの人が言えるだろうか?
ゲルトルート・シュテンマーは、次のように述べている。
「確かに父が二股をかけており、結果的に私の母が捨てられ、父が別の女性と結婚したのは事実です。母は病死しましたが、私の見る限り、私からすれば、異母弟が父の妻にできたことから、もう、あの人が私の下に帰ってくることはないのだ、と生きる張りを失ったのが主な死因に思えます。
ですが、父は、私の養育費を支払う等、父の務めをそれなりに果たしてくれました。また、当時、私の母の立場では、父が母を選んで結婚した場合、父は軍人を退役せねばなりませんでしたし、私を認知しては、父の醜聞を積極的に広めかねませんでした。そうしたことからすれば、私は父をそう責められません。
ともかく、父の私生活がよろしくなかったから、と言って、父が戦争犯罪を当然のように犯したように見られることに、私は我慢できません。父の冤罪のために、異母弟は、一時はロンメルの姓を棄てて、別の姓を名乗る羽目にまでなりました。
娘が父の冤罪を晴らそうと努力したら、娘のすることだから信用できない、と何故にそこまで叩かれねばならないのか。肉親が冤罪を晴らそうとするのは、人情としては当然ではないでしょうか」
1990年代に入り、フランコ政権が遠い思い出になった頃から、スペインにおいても、ドイツ・スペイン軍の戦争犯罪を否定する証言が徐々に出てきたが、未だにその証言はスペインではタブー視されている。
何故なら、それはスペイン内戦から第二次世界大戦によってスペインの国民が負った傷を再度、暴くことにつながりかねないからだ。
本当の真実は、一体、どこにあるのだろうか。
私としては、ゲルトルート・シュテンマーの主張を信じたいが。
ロンメル将軍とドイツ・スペイン軍の姿についての真実は、21世紀になっても闇の中に置かれているようだ。
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