背中を押されたから
雨粒が地面を打つような、風が木々を揺らすような雑音が鼓膜を揺らす。
映らなくなったチャンネルのような砂嵐が視界を覆う。
酷く不快な居心地に、何も見えず聞こえない状態でありながら、手探りでどこか落ち着ける場所を求めて進み続ける。
どれだけの間、そうしていたのか。
気が付くと、雑音も砂嵐も消え、そこは一面凍りついた世界だった。
「ここは……」
「──璃空」
一歩氷を踏みしめると、璃空の耳に何年も聞いていなかった、でも聞き間違いようの無い声が聞こえてきた。
「ね、姉ちゃん……!?」
凍りついた世界の中心に死んだはずの未空が、あの日と変わらぬ微笑みを浮かべて立っていた。
困惑や疑問が渦を巻く一方で、あんな別れ方をした姉にもう一度会えたことが嬉しくてしょうがなかった。
そんな璃空の想いを感じ取ったのか、未空は照れくさそうに頬をかいた。
彼女の姿、仕草、声。どこからどう見ても目の前の未空は間違いなく璃空の知る未空だった。
だからこそ、やはりどうして彼女がここにいるのかという疑問が一番に浮かび上がってしまう。
「これ、さ……どういう状況なの?」
璃空は素直な疑問をぶつける。
現状を受け入れたくはないが、それ故にここが現実じゃないことは分かる。
「……ここは、璃空の心の中。友達を殺して、幼馴染を救うことも出来なかったあなたが救いを求めたのか、あるいは、現実逃避のために創り出した世界。創り出した私」
「俺が創り出した……?」
「そう。まあ簡単に言えば、最後の防衛線ってところかな? で、私がその門番……みたいな?」
璃空は彼女の言葉に苦笑いしていた。
自分の心が壊れるか壊れないかの最後の門番として未空を創り出すのは、なんとも情けなく自分らしいと思った。
同時に、璃空の中で未空がどれだけ大きな存在なのかを改めて思い知った。
そんなことを考える璃空の元に、ゆっくりと未空が歩み寄ってくる。
「さて。本当ならここで璃空の話を聞いて、しっかりと璃空の心に寄り添ってあげるべきなんだろうけど……少し手荒に行かせてもらうね」
「え?」
未空は困ったような表情をしながら、璃空の後ろに回り込んだ。
手荒にと言ったが、一体何をする気なんだろうか。
「それに、もう死んでる私が何か言うより、今生きてる友達のそばにいる方が良いと思うから」
「姉ちゃん? 何を──」
「璃空。私はいつでもここで見守ってるから。……元気でね」
その言葉を最後に、未空は何も話さず、璃空が言葉を発する前に、彼の背中を蹴り飛ばした。
◇
「──ねえ、ちゃん……」
未空に背中を蹴り飛ばされた璃空は現実に無理矢理浮上させられた。
軋む身体と悲鳴を上げ続ける心。
予期せぬ未空との再会で、ほんの少しだけ壊れた心を立て直すことは出来たが、依然立ち上がる気力は消失していた。
虚ろな瞳で、自分の周りを見渡して、璃空は驚愕する。
そこには璃空のそばで大量に血を流して倒れる鏡夜と、そんな二人を守るために汗を流して盾を展開している灯里がいた。
「玖遠さん……鏡夜……」
「──あ。おかえり、鳴神くん」
務めて平気そうな声で返事をしているが、大量に血を消費しているせいか、息は荒く顔色は青ざめていた。
「な、んで……」
「何でって? 仲間を守るのは当然でしょ?」
璃空の漏れ出た呟きに、灯里は笑顔で答える。
そこには一切の嘘はなく、本心からそう思っているのが分かった。
「でも、俺は仲間じゃないだろ……!? 俺なんか置いて、鏡夜を連れて逃げれば──」
「何言ってんの? そんなつらそうな顔してる人、一人で置いて行けるわけないでしょ」
灯里は懸命に微笑んで、璃空の情けない顔に優しく触れた。
その表情に、璃空の心は揺れ動く。
「……それに、こんなに悲しい思いして、ボロボロに傷ついてる鳴神くんが、これ以上戦う必要なんてないんだよ。だから、心配しないで」
「あ……」
そう言って、灯里は再び能力の維持に集中しだした。
そこでようやく、璃空は盾の向こうの状況を確認した。
炎の剣を持った沙織と、揺らめく刀身を振りかざす輝夜の姿があった。
赤い血の壁は徐々に削れ、その度に灯里が自身の血で補強するというのを繰り返していた。
その先に待つのは、どう考えても灯里の体力が先に尽きるという結末だけだった。
ここで璃空が立ち上がらなければ、灯里も鏡夜も、当然璃空も死んでしまう。
頭では分かっているのに、身体が言うことを聞いてくれない。
自分が立ち上がって、拳を振るったところで、二人を守れるのかなんて分からない。
むしろ、その行動のせいでもっとひどいことが起こってしまうかもしれない。
そんな悪い想像ばかりが浮かび上がり、次々に最悪の事態を想定してしまう。
思考と心と体の全てが食い違い、心だけでなく鳴神璃空という存在自体がバラバラに壊れてしまいそうだった。
「くあっ……!」
その時、灯里が展開していた血の盾が粉々に砕け、地面を赤く塗らしていく。
体力・霊力の限界を迎えた灯里はその場に崩れ落ちてしまう。
「玖遠さん……!?」
「……ごめんね、鳴神くん。もっと耐えられると思ったんだけど、無理だったみたい」
崩れ落ちた灯里を受け止めた璃空に、彼女は弱々しく言葉を紡いだ。
「せめて、鳴神くんだけでも、ここから逃げて……私たちは大丈夫だから」
全然大丈夫じゃないくせに、灯里は涙を流す璃空の手を握って、璃空を守るための嘘をついた。
そんな璃空たちの元に二人の足音が近づいてくる。
「ここまでよく耐えたけど、これで終わりだ。──沙織、覚悟はいい?」
「そんなの、とっくに出来てる。……さよなら、鳴神、白蓮」
地面に倒れる璃空たちを見下ろして、沙織と輝夜は武器を構える。
世界の秩序を壊す犯罪者たちを殺すために。自分たちの役割を果たすために。
二人が刃を同時に振るおうとする。
その光景に璃空は涙を流す。
やっぱり自分には何も出来ない。
誰かを救う力もなければ、自分の身を犠牲にする勇気もない。
ただ泣きわめくだけしかできない子供がそこにいるだけだった。
「ごめん……ごめん……!! 俺が、俺が……!!」
だから、そんなどうしようもない子供は自分の死が間近に迫っても、思うのは自分を助けようとしてくれた二人のことで。
「俺は、誰も守れない……!! 何も出来ない……!! 情けなくて、みっともなくて、どうしようもない、ただの泣き虫のクソガキだ!!!」
『だったら、璃空はどうしたいの?』
そんな璃空の背中を押してくれるのは、いつだってかけがえのない存在で。
「俺は……俺は……」
そして、璃空の心が壊れてしまわないように、必死に戦ってくれた親友を。
バラバラに砕け散った璃空を優しく包み、ただそっと手を握ってくれた彼女の笑顔を思い浮かべて、璃空は自分の答えを叫んだ。
「俺は、二人を守りたい……!!」
『じゃあ、こんなところで泣いてないで、立って拳を握りなさい。──大丈夫。私も一緒に、戦うから』
その声に導かれるように、悲鳴のような、怒号のような絶叫をあげて、璃空は立ち上がる。
今度こそ大事なものを守るために。
璃空は、隣に立つ誰かと声を揃えて呟く。
「『氷華陣・針縫』」
それはかつて璃空の姉である未空が使用していた技の名前だった。
氷を針のようにいくつも絡み咲かせることで、相手を貫き、動きを封じるというものだ。
だがそれを璃空が使うことは出来ないし、仮に使えたとしても、璃空が使用すれば、それは雷でなければならない。
にもかかわらず、その場には未空と全く同じ技が再現されていた。
璃空の能力を直接見ていた沙織と、彼の能力を沙織から聞いていた輝夜は、予想外の事態に足を止めてしまい、そのまま、氷の針に身動きを封じられてしまう。
それを見届けた璃空は、憑き物が取れたように膝から崩れ落ちた。
倒れてくる璃空をどうにか灯里が受け止めた瞬間、時が止まったような空白の後、璃空たちはその場から姿を消した。