背負う罪、背負わせる罪
「……はあ」
ある日の授業中の教室。
各々の態度で授業に取り組む中、悠斗の隣の席に座る少年は腹の虫を鳴らしながら、ため息をついていた。
彼の名前は鳴神璃空。校舎裏で大岩を殴り続け、挙句の果てに大岩を粉々に砕いた少年だ。
学校中で璃空に対する様々な噂が飛び交っているのだが、そんな噂の人物は自分の隣で情けない顔をしていた。
悠斗は璃空に対して近寄りがたい印象とほんの少しの興味を抱いていた。
そして、今この瞬間。方々から聞こえてくる噂とは全く違った印象に、悠斗の中では、興味の比率が大きくなっていた。
「……どうしたの?」
「え? あー、うん。ちょっとな」
勇気を出して話しかけると、璃空は腑抜けた声で悠斗の声に答えた。
「もしかしなくても、お腹空いてるのか?」
悠斗は何となくもう一歩踏み込んでみようと思って、鳴り響く璃空のお腹を指差す。
その言葉に、璃空はバツが悪そうに頭をかきながら、苦笑いをしながら短く一言だけ発した。
「……うん」
話を聞くと、どうやら遅刻しそうになったため、朝食は学校で適当にパンでも買ってやり過ごそうと思って家を出たが、あまりに急いでいたせいで財布を忘れて絶望していたとのことらしい。
話を聞き終えた悠斗は、苦笑いを浮かべるしかなかった。
拍子抜けな気分を味わいながら、悠斗はカバンの中に手を入れる。
「だったら、これ食べなよ」
悠斗がカバンから取り出したのは、非常食としてカバンの中に入れてあった軽食だった。
「……いいのか?」
「隣でそんな顔されたら放っておけないって」
申し訳なさそうな顔で自分の顔と軽食を交互に見る璃空に、悠斗は笑顔で軽食を手渡した。
璃空は一瞬躊躇したものの、空腹の限界だったらしく、おずおずと受け取った。
「ありがとな。えっと……名前何だっけ?」
「あはは……玉梓悠斗。悠斗でいいよ」
自分の名前が知られていなかった事実に渇いた笑みをこぼしながら、しっかりと自己紹介をする。
名前を聞いた璃空は「そっか」と呟き、改めてお礼を言った。
それが、璃空と悠斗の最初の出会いだった。
◇
そんな光景が悠斗の脳裏に浮かぶ。
死の直前には走馬灯を見るというのは誰もが知っていることだが、まさか自分がそれを見ることになるとは思わなかった。
しかし、その光景が薄れていく自我を辛うじて繋ぎ止めてくれている。
ぼやける視界は、辛そうに拳を振るう璃空の顔と今までの記憶を交互に映し出す。
本当なら、この場所で一人で死ぬつもりだった。
自分の死に誰も巻き込みたくなかった。
それなのに、一度弱さに負けてしまった心は、簡単に弱音を吐いてしまう。
誰にも知られずに、こんな寂しい場所で一人死ぬなんて嫌だった。
どうしても耐えられなかった。
そんな心の弱さが悠斗を完全な人食い鬼にしてしまい、親友に友殺しの罪を背負わせようとしている。
自分がそれだけ最低な人間かなど言われなくても分かっている。
それでも、最後に知りたかった。
自分のためにこんな顔をしてくれる人がまだいてくれるということを。
そんな考えに反して、自分の身体は璃空の命を本気で喰らおうとしている。
ほんの少しだけ残っていた自我も、ほとんど食い尽くされて、何も考えられなくなってくる。
もはや自分の衝動に突き動かされて、人を襲うだけの獣に成り果てていた。
酷い空腹と狂ったような渇望に溺れていく。
殺さなきゃ。食べなきゃ。殺して、食べなきゃ。ぐちゃぐちゃにして、バキバキにして、早くこのスカスカになった腹を満たしたい。もう止まれない。もう止まらない。早く目の前のこいつを殺して、食べて、世界中の人間を全員食べて、この満たされない空腹を満たさなきゃ。
食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたいたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたいたべたいタベタイtabetai食べたい
「っ!?」
悠斗の自我が完全に狂気に呑まれた直後、身体中を駆け抜ける重たい衝撃が悠斗の自我をすくい上げた。
ぼやけていた視界は徐々に正常なものへと戻っていき、最初に見えたものは俯く璃空の姿だった。
「──ああ。そっか」
そして、悠斗は気が付いた。
璃空の腕が、自分の心臓をしっかりと貫いていることに。
血が零れ落ち、地面には赤い血だまりが広がっていた。
身体の力は抜け、力なく璃空の方に身体を倒した。
璃空はそんな悠斗の身体を黙って受け止め、しっかりと抱きかかえていた。
何か言わなければいけないと思うのだが、出てくるのは血反吐だけだった。
薄れゆく意識の中で、最後の力を振り絞って、悠斗は璃空の手を握った。
不必要な罪を背負わせてしまったせめてものお詫びとして、自分の霊力を璃空に託す。
これが、少しでも璃空の役に立ってくれれば幸いだ。
命の灯火が消える最後の瞬間、親友の存在を感じながら、たった一言だ、けかすれた声でつぶやいた。
「──あり、がとう」
その一言を最後に、悠斗の意識は深い闇の中に沈んでいった。
しかし、不思議と不安はなかった。
だって、最後の最後まで感じていた温かさが悠斗が一人ではないと教えてくれているから。
◇
ありがとう。
その一言を最後に、悠斗は璃空に抱きしめられたまま動かなくなった。
微かに残っていた体温も、璃空の身体に溶けるように消えていく。
二人を捉えていた牢獄が静かに崩れ落ちていき、悠斗の死を璃空に実感させる。
璃空はゆっくりと腕を引き抜き、安らかな表情をして目を閉じている悠斗の顔を見つめた。
最後の最後で、悠斗は璃空に笑いかけてくれた。
自分の命を奪った相手に優しい笑みを向けてくれたのだ。
その笑みは、人を喰うだけの獣には絶対に浮かべられない表情だ。
もう戻れないと叫んだ少年は最後の最後で人に戻れたのだろうか。
そもそも本当に悠斗を殺すしか道はなかったのか。
それ以外の方法もあったのではないか。
現実から逃れるように答えの出ない問いだけが頭の中をぐるぐると回り続ける。
一つだけ確かなのは、悠斗はここで死ぬことを覚悟しており、自分もその覚悟に答えるためにこの手を血に汚したと言うことである。
悠斗の覚悟に答えるために、璃空は泣いてはいけないと思い、頬を思いっきり叩いて涙をこらえた。
「鳴神くん……」
心配そうな顔をして、声をかけようとする灯里の端末が鳴り響く。
相手は別行動中の鏡夜だった。
「もしもし?」
「灯里、そっちはどうなってる?」
何となく端末越しの声は切羽詰まっているような気がしたが、ひとまずは現状を報告することにした。
「……鳴神くんが玉梓悠斗くんを止めたわ」
「……そうか」
灯里の濁した言葉に、鏡夜はそれ以上の言及はしなかった。
鏡夜も灯里もこの結末はある程度予想していた。
予想外だったのは、自分たちではなく璃空の手を汚させてしまったことである。
そんな二人がこれ以上この件について話す資格はないと考えていた。
それよりも、灯里が気になっていたのは鏡夜の荒い息と酷い風の音だった。
「ねえ。もしかして、何かあった?」
「ああ。色々とまずい状況になったかもしれない」
直後、鏡夜が報告したことに灯里は動揺する。
その動揺は、璃空にも伝わり、一体何があったのかと心配そうに灯里を見つめていた。
灯里は連絡を終え、璃空の揺れる瞳を真っすぐ見て、絶望を告げた。
「鳴神くん。……君の幼馴染が殺されるかもしれない」