泡沫の夢3
数日後、校舎裏で岩を殴る璃空の姿は見られなくなった。
その代わりに、拳を交える二人の男の姿があった。
一人は必死な顔で拳を振るい、もう一人は余裕そうな表情で拳を受け流していた。
「はあ……はあ……何で、当たらないんだよ……!!」
「経験値の違いだな」
「くそ!!」
涼しげな表情をしている鏡夜を焦らせたいという一心だけで、がむしゃらに食らいつく。
しかし、鏡夜の発生させた風の壁によって、璃空の拳は悉く受け流されてしまっていた。
何故二人がこんなことをしているのか。それは、握手をした次の日の鏡夜の発言がきっかけだった。
◇
「璃空。ちょっと趣向を変えないか?」
翌日。岩と向き合い、拳を振るおうとする璃空に、鏡夜はそんなことを言い始めた。
「はあ?」
しかし、そんなことを急に言われても理解できるはずもなく、璃空は首を傾げた。
「だから、そんな岩を相手にし続けても飽きるだけだろ。というわけで、息抜きがてら俺と模擬戦的なことしないかって話」
「なるほど……」
確かに、ずっと同じことを繰り返していてもいずれ飽きが来て、集中力が散漫になる可能性がある。
それでは、身につくものも身につかない。
「じゃあ、相手になってもらっていいか?」
「任せろ。終了条件は、俺に一発拳を当てる、でどうだ?」
「分かった。それで行こう」
◇
こうして、二人の戦いが始まったのだが、結果は今日に至るまで璃空の惨敗である。
地面に倒れる璃空は空を見上げて、考え込んでいた。
どうすれば鏡夜に拳を当てられるのか。
そのためにはあの風の壁を突破しなければいけないのに、どうしても届かない。
「速度、か……」
一度だけ、鏡夜は璃空に対してヒントを出していた。
それが「速度」という一言だった。
今でも十分速度は出ているはずなのだが、一体どういう意味なのか。
声にならない声で唸っていると、誰かの足音が聞こえてくる。
鏡夜が戻ってきたのかと思い、体を起こして振り返ると、そこには知らない少女がいた。
少女は璃空の方にゆっくりと近づいてくると、璃空の前で立ち止まって、無表情で口を開く。
「あなたが鳴神璃空?」
「え? ああ、そうだけど……誰?」
「答える必要はないわ。それより、あなたが鳴神璃空なら話は早いわ」
少女の冷たい反応に、少しだけ警戒していると、身体が勝手に後ろに後退しており、いつの間にか、身体中から雷撃が迸っていた。
何故自分がそんな行動を取ったのか分からなかった。
しかし、それは本能が危機を察知し、勝手に身体を動かしていたのだとすぐに理解する。
少女の手には炎の剣が握られており、璃空がいた場所は大きく抉られていた。
「なっ……」
もしあのままあそこにいたら、自分は焼き斬られていたという事実に璃空は言葉を失う。
「次は当てる」
少女は舌打ちをしながら、空中に何本もの炎の刃を出現させ、璃空に向かって射出する。
「くっ!!」
襲い掛かる刃を、大岩の上に上ることで全弾回避する。
「バカね」
だが、少女は璃空を岩の上に逃がすように刃を放っていた。
少女は岩の後ろにも炎刃を放つと、指を鳴らす。
その音に呼応して、地面に突き刺さった刃が赤く輝き、離れた刃同士を結ぶように炎が燃え上がる。
それは、璃空の逃げ場を断ち、攻撃に転じることも許さない炎の檻だった。
「これで退路も進路もなくなった。諦めなさい」
少女はたった数手で自分に有利な戦場を創り上げてしまった。
あの炎の中で自由に動けるのは彼女だけ。
決死の覚悟で飛び込めば璃空も多少は動けるだろう。
そんな璃空を少女は容赦なく殺しに来るだろう。
どのみち、璃空が生き残るには少女が手を引いてくれるか、起死回生の一手を思いつくしかないのだ。
「な、何で……俺を殺そうとするんだ……?」
璃空はとにかく時間を稼ぐために、少女に対する疑問をぶつけることにした。
そもそも、初対面の少女に殺されそうになっているこの状況がおかしいのだ。
璃空の問いに、少女は顔を伏せる。
「──あなたが、大事な人をないがしろにしてるから。彼女が、自分の本心をひた隠しにしてるから」
今まで無感情に見えた彼女の瞳の奥には強い怒りが滲んでいることが分かった。
よく見れば、炎剣を握る拳は震えていた。
「この世界では約束された明日なんてない。伝えたいことがあるのに黙ってるなんて間違ってる」
彼女の言葉はどこまでも正しいものだ。
分かっている。
いつまでもずっと一緒だと思っていた人が、明日も絶対にいるとは限らないなんて璃空はとっくの昔に知っていた。
自分と一緒にいると傷ついてしまうと思って、払いのけた手があることも耳を塞いだ言葉があることも分かっていた。
そんな分かりきったことを、何故見ず知らずの少女に言われなければならないのか。
自分の過去も覚悟も何も知らない少女に。
璃空の怒りに答えるように、身体から雷撃が迸る。
「何も知らないくせに、好き勝手言うな!!!」
少女に怒りをぶつけながら、璃空は大岩から降りて、炎の壁を睨む。
起死回生の一手なんてそんな高尚なものは未だに思いつかない。
その代わり、炎の壁を一瞬で通過すれば、炎の熱を感じる前に彼女に一発当てられるのではないかと思った。
普通なら無茶な作戦だが、璃空にはそれが出来る気がしていた。
少女の奇襲を回避したとき、璃空は雷を纏っていた。
それは璃空の身体は、自分の能力が自身の速度を飛躍的に向上させられると、とっくに理解していたからだ。
それを璃空自身もようやく理解した。
だが、先ほどとは駆け抜ける距離が違う。
一息で届かなければ、璃空を待ち受けるのは死。
恐怖で身体が震えてくる一方で、迷っている時間がないことは分かっていた。
璃空は脚力を限界まで強化して構える。
そして、風が炎を揺らした瞬間、璃空は地面を思い切り蹴り飛ばして、幾重にも重なる炎の中を駆け抜けた。
その速度は少女の想像を上回るもので、攻撃を仕掛けようとする少女の目の前に、炎の壁を突き抜けて璃空が現れる。
「嘘……!!」
璃空はあちこちに焦げ跡が出来ているものの、その速さのおかげで大した傷を負っていなかった。
動揺する少女の一瞬の隙を逃すまいと、璃空は拳に雷をすべて集める。
この時の璃空は怒りからか無意識にいつもと違う力の使い方をしていた。
今までの雷撃はどちらかと言えば「腕を覆っていた」という表現の方が正しかった。
だが、今の璃空はそれ自体が一つの拳であるかのように雷撃を完全に纏っていた。
少女の目には全てが一瞬の光景だった。
大岩から飛び降りた璃空が、一瞬で目の前に現れ、気が付くと自分の身体は大きく後ろに吹き飛ばされていた。
「ふっ……ざけるなああ!!」
ここで倒れることは許されないという強い精神で、少女は倒れずに踏みとどまり、息切れする璃空に炎の弾丸を放つ。
初めて試した高速移動に、足への疲労が一瞬でピークに達し、その場から動けない璃空に少女の攻撃を避けることは不可能だった。
「お、おおおおおお!!」
璃空は、どうにか雷撃を盾のように目の前に作り出し、炎弾を防ごうとする。
しかし、急造の盾では少女の攻撃を防ぎきれず、璃空も後方に吹き飛ばされそうになる。
このままでは璃空の身体は何重もの炎の壁に焼き焦がされることになる。
それだけはまずいと、璃空も必死に踏みとどまり、前方に大きく転がることでどうにか耐えきる。
「足が、動かない……」
立ち上がれない璃空にゆっくりと少女が近づいてくる。
手にはしっかり炎剣が握られている。
こんなところで死んでいられるかと、璃空は必死に立ち上がるが、どうにか立ち上がった璃空に炎剣が振り下ろされる。
「がぁっ!!」
両掌が焼け焦げる痛みに顔を歪めながら必死に抵抗する。
だが、手の感覚がなくなっていき、ついに限界が訪れる。
璃空の手は炎剣を離してしまい、切っ先が心臓を貫こうとする。
「やめて!!」
しかし、それは誰かの声によって寸前で停止する。
少女は炎剣を消滅させて振り返る。
その動作に釣られて璃空も顔を上げると、そこにはずっと距離を置いていた花梨が立っていた。
「ど、どういうことだ……?」
「私が呼んだの。唯月が自分の本心は伝えないままでいいなんて言うから」
璃空は今自分がどういう状況にあるのか分からず困惑する。
その疑問に答えたのは、意外にも目の前の少女だった。
「つまり、俺を殺そうとしたのは……」
「そうすれば、あの子は絶対に来るでしょ。まあ、君にむかついたのも本当だけど、殺す気はなかったよ」
本当に殺す気がなかったのかどうかは疑わしいところだが、少女が自分たちのために動いてくれていたのは本当のことだと分かった。
「じゃあ、私は帰るから。あとはよろしく」
「ちょ、ちょっと待てよ!!」
自分の用は済んだと手を振って立ち去ろうとする少女を璃空は引き留める。
聞きたいことはまだ色々とあるが、一番大事なことを聞いていなかった。
「君、名前は?」
「──篠宮沙織」
沙織は振り返らずに自分の名前を告げて立ち去った。
そんな彼女に花梨は立て続けに色々と言うが、立ち止まらない沙織に諦めて、璃空の方に駆け寄ってくる。
「酷いケガ……待ってて、すぐ治すから」
「……ありがと」
少ない言葉は交わすものの、二人は目を合わせられずに違う方向を見ていた。
璃空の身体を温かな光が包み込み、身体中の傷が治っていく。
その間、お互いにどう話せばいいか悩んでいた。
救いの手を差し伸べてくれた花梨の手を払いのけた璃空と、踏み込むことを恐れて距離を置いてしまった花梨。
「はい、治ったよ。……その、あんまり無理しすぎちゃダメ、だよ」
「花梨……」
「えっと、じゃあね……」
花梨は何を言えばいいか分からず、逃げるように立ち去ろうとする。
「花梨!!」
そんな花梨の手を、璃空はどうにか掴んで彼女の足を止める。
「離してよ……」
「聞いてくれ。……俺は、お前が俺と一緒にいることで傷つくと思ったんだ。大事な人がいなくなるのが嫌で、目の前で誰かを失う瞬間を見るのが怖くて、俺はみんなから距離を置いたんだ」
璃空は自分がどうして一人でいようとしたのか、花梨には黙っていた心境を告白する。
その言葉に花梨の手が震える。
「だったら、何でそんなこと私に話すの……そのまま無視してればよかったじゃん」
「……俺はずっと色んなことから逃げてきた。でも、逃げてばっかりじゃダメだった気が付いたんだ。だから、ごめん」
「……ずるいよ。そんなこと言われたら、ずっと逃げてた私がバカみたいじゃん」
花梨は涙を流してその場にしゃがみこんで、彼女もまた自分の想いを叫んだ。
「ずっと璃空のことが心配だった。でも、どう声をかけたらいいのか分からなかった。お姉さんを失った璃空に接するのが正解か分からなかった。声をかけて、払いのけられるのが怖かった……!!」
ずっと我慢していた想い吐き出した花梨は、そのまま泣きじゃくってしまう。
そんな花梨の手をしっかりと握って、璃空はどうにか笑って自分の想いを伝える。
「俺はもう逃げない。だから、ゆっくりでいいから、またいつものお節介を焼いてくれ」
「お節介って言わなければいい台詞なのになあ……」
「悪かったな。気のきいたセリフが言えなくて」
璃空の一言余計な言葉に、花梨は笑って、握られた手の上に開いた手を重ねる。
「ううん。その方が璃空らしいよ。……だから、いつまでもそのままの璃空でいてね。そうすれば、私もいつものお節介焼きな幼馴染に戻れると思うから」
「……ああ。分かった」
花梨の優しい表情に、璃空は少しだけ目を逸らして返事をした。
こうして、二人の間に生まれていた溝は少しずつ埋められていくのだった。
◇
翌日。再び鏡夜と相対する璃空。
吹き荒れる風の壁を前に、璃空は昨日までとは違い、すぐに動かずにじっくりと様子を見ていた。
風速や風向。それに対して、どういう攻撃をすれば壁を突破できるのかを考える。
人が変わったように戦い方が違う璃空の姿に、鏡夜は何かあったのかと心配する。
しかし、すぐにそんな疑問を抱いている場合ではなくなる。
鏡夜の視界から、璃空の姿が一瞬で消えてしまう。
「っ!? どこ行った!!」
焦って周囲を見渡す鏡夜は、風壁の周りを光が取り囲んでいた。
「まさか、風の周りを走ってるのか……?」
昨日までの璃空の攻撃は、回転する風に阻まれて鏡夜に届くことはなかった。
つまり、どれだけ早くても一方向からの攻撃は届かない可能性がある。
そこで、璃空は鏡夜の風の壁を突破するために、回転しながら吹き荒れる風と同じ方向に走り続けていた。
同じ方向に回転し、なおかつ回転速度を超えることで、璃空の攻撃が届くのではないかと考えた。
その予感は的中し、璃空の回転速度が風の回転速度を超えた瞬間、璃空の目は完全に鏡夜の姿を捕らえた。
「そっ……こだああああ!!!」
璃空は一瞬で雷撃を拳に纏わせ、鏡夜に拳を伸ばす。
すると、拳から放出された雷撃は、風の壁をすり抜け、鏡夜に襲い掛かる。
完璧な一撃。光速で移動していた璃空から放たれた瞬間を捉えられなかった鏡夜は、完全に反応が遅れ、もはや回避は不可能だった。
「──合格だ」
鏡夜の身体は雷撃に撃たれ、その場に崩れ落ちた。
そして光速で回転していた璃空は、勝利したことに動揺し、ブレーキをかけることに失敗し、校舎に激突した。
意識が飛びそうになりながら、何ともしまらない勝負の結末に、自分らしいなと苦笑いをしてその場に倒れた。
◇
しばらくして、目を覚ますと、青筋を浮かべる花梨と呆れた顔をする篠宮の姿があった。
「えーっと、花梨……さん?」
「昨日の今日でこんな怪我してるなんて、璃空は本当に私を怒らせる天才だね?? 誇っていいよ???」
「いたっ……痛いって……」
笑顔で頬をつねってくる花梨に何の抵抗も出来ずに璃空は成すがまま花梨のお仕置きを受けた。
どうしてここに花梨と篠宮がいるのか疑問に思っていると、不機嫌な花梨に変わって篠宮が説明してくれる。
「窓の外見てたら、倒れてる二人が見えたの。一人は校舎の壁にめり込むようにぶっ倒れてたから、まずいなと思って花梨を連れて様子を見に来たの」
「いやー、助かった助かった。篠宮さんと唯月さんだっけ? ありがとな」
璃空の前に治療を受けていた鏡夜は、元気そうに背伸びをして、花梨と篠宮に笑顔を向けた。
「それにしても、まさか一日で戦い方のコツを掴むなんて、何かあったのか?」
鏡夜は頬をつねられて間抜けな顔をしている璃空に、一体何があったのかを聞く。
璃空の戦い方は昨日と今日では雲泥の差だった。
明らかに何かがあったはずだと鏡夜は睨んでいた。
「あー……ちょっと命がけの戦いをば」
「何じゃそりゃ」
間抜けな顔をしたまま、璃空は詳細を省いて説明する
さすがに篠宮に命を狙われたと説明するのは、ややこしいことになりそうなので誤魔化してしまう。
実際にその通りなのだからいいだろう。
何かを隠していることを察した鏡夜は、それ以上は追及する気はないと、渋々理解したような表情をする。
「まあいいや。それより、今のお前なら、あの岩壊せるんじゃないか?」
鏡夜は、しばらく触れてこなかった大岩を指差す。
その言葉に、璃空は息を飲む。
確かに、力の使い方も戦い方も以前よりも全く違うものになってはいる。
それでも、あの岩が壊せるかどうか不安なのだ。
「大丈夫だよ。璃空ならできる」
不安そうな顔をしている璃空の頬に先ほどとは優しく手を触れて、花梨が微笑んだ。
鏡夜はその言葉に黙ってうなずき、篠宮は何も言わず、ただ試すような視線を向けていた。
璃空は三人に背中を押されたように、立ち上がって、岩の正面に立つ。
しかし、璃空の立つ場所は今までのような至近距離ではなく、少し離れた場所だった。
一撃で壊すためにはこれだけの助走距離がいると判断したのだ。
雷撃を纏い、脚力を強化して、目の前の岩を睨む、
狙うは何度も何度も拳をぶつけてきた場所。
璃空は、地面を思い切り蹴り飛ばして、一直線に岩に向かう。
『璃空は足早いなあ~。いつか追い抜かれちゃいそう』
そんな璃空の耳に何故か懐かしい声が聞こえた。
『ふふん! 絶対に追い越すから、その時まで待ってて!!』
『うん。でも、姉ちゃんは止まらないから、頑張って走り続けてね』
駆け抜ける璃空の横目に、懐かしい影が映った気がした。
「……うぉおおおおおおおお!!!!」
璃空は、その影を振り切るように叫び、拳が岩に当たる瞬間に雷を纏って、一気に貫くように拳をぶつける。
まばゆい光が三人の視界を白く塗りつぶし、次いで凄まじい音が鳴り響く。
それはまさしく雷鳴と呼ぶのにふさわしい一撃だった。
その一撃によって、今まで必死に刻み付けていたひび割れが大きく広がり、大岩全体にひびが入る。
目を開けた三人は茫然と、目の前の光景を見ていた。
岩は衝撃に耐えられず、崩壊を始め、ガラガラと崩れ落ちていた。
鏡夜は嬉しそうに笑い、花梨は目に涙を浮かべていた。
そんな彼女を肩に手を置きながら、篠宮は何とも言えない表情で璃空の背中を見つめていた。
璃空の目の前で崩れ去る大岩。
しかし、璃空にはその音は聞こえず、目の前の光景も見えていなかった。
『璃空。頑張ってね。私は、ずっと見守ってるから』
その代わり、璃空の耳にはもう聞こえないはずの姉の声が聞こえてきた。
この岩を壊すころには涙は枯れ果てていると思ったのだが、どうやらそんなことは一生なさそうだ。
璃空は流れそうな涙を必死にこらえて空を見上げる。
「うん……ありがとう、姉ちゃん」
そして、必死に笑顔を作って、遠くなる姉の背中に手を振った。
遅くなってすみませんでした。これにて一先ず、過去編は終わりです。語られていない過去はまたいずれ