何者?
最近心を病んだ僕が唯ひたすら思った事について書いただけのお話。
自分が何者だろうかとは人間誰しも一度は考えたことは、 あるだろうと思う。 現に今の僕がそうだ。
僕は最近自分が何者かわからなくなった。
自分は何のために生きているのか? 何を目的に生きていけばいいのか?
それが今の僕には全くと言い程わからない。 そもそも人間は何のために生きているのだろうか?
愛する者を守ったり、 養ったりするため? 違うだろう。 確かに愛するものができると人間は強くなる。
でもそれが生きる目的と言われるかと言えば否と言わざるを得ない。
僕がこう思うのには無論理由がある。 人間誰しも幼少期と呼べるものがある。
その時代に果たして人間は愛する者の為に生きていると言えるだろうか?
多分言えないであろうと思う。 だってもしそれが本当ならば人間はただ生まれた時から愛の為に生きる奴隷とほぼ変わらない者になってしまうから。
そんなのとてもじゃないが認められないし、 認めたくない。 では愛の為でないなら何のために生きるのだろうか?
それはきっと生きることに快楽を見出しているからだと思う。 しかもその快楽は主に自分の為だけだ。 だってそうだろう?
世の中には恋人がいても平気で浮気をするような人間もいるし、 自身が生きるお金の為に平気で他人を騙そうとする者もいる。
世間一般からすればこの二つは完全に悪と呼べる行為だと思うし、 実際このような行いをした人物は社会的な制裁を受ける。
でもその様な人間は一度失敗しても懲りないというケースが多々見られる。 それはなぜか?
僕が思うにそれはその行いに快楽が存在するから。
だからこそその様な行いをした人間は、 決して止めない。 例え口では懲りた、 もうしないと言ってもその頃には時すでに遅く、 抜け出せないほど深い深い快楽の沼に陥てしまっているのだ。
これは、 分かりやすい言い方をしてしまえばパチンコなどのギャンブルと同じようなものだ。
つまるところ僕がここで言いたいのは、 人間なんてものは、 自分の快楽の為ならば平気で他人を貶める醜く、 あさましい存在ということだ。
例えそれは世間一般では聖人と呼べるような人物だとしても変わらないと思う。
だってそうだろう? 人間は誰しも自分の快楽の為に動いているのだからその行いにだって何かしらの快楽が存在している。
でももしこの理に当てはまらず、 人の為に生きようとする人物がいるとしたら今の僕はきっとその人物の事を哀れに思うだろう。
何せその様な人間にはまず未来がなく、 誰にもその行いを理解されないからだ。
本人はただひたすら人の為、 世の為動いているのにその行いを誰にも理解されない。
挙句の果てに邪険にされ、 社会からはじき出されてしまう。その様なリスクがそのような人物には付きまとってくる。 何故そんなことがわかるのかだって?
それはこのような人間に僕がなりたかったからだ。 現に僕はその為に必死に努力したし、 血反吐を吐くような思いもして来た。 でもなることは結局のところできなかった。
簡単に言ってしまうと僕は耐えきることができなかったのだ。
僕は必死でやったさ。 でも周りをそれが理解してくれることはなかった。 理解しようともしてくれなかった。
その事が僕には堪らなくつらかった。 そのせいで僕は途中から人を助けるどころかむしろ人に助けを求めるようになっていた。
まさしく本末転倒である。 でも実際そうなってしまったのだ。 それほどにまで苦しかったのだ。
でもそんな僕を助けてくれるものは誰もいなかった。 いくら泣こうが嘆こうが叫ぼうが誰も助けてくれなかった。
きっとその時だろう。 僕が人間という存在に嘆き、 絶望し、 憎悪したのは……
何故自分は今までこんな愚かな生物を助けようとしたのだろう? 何故自分はここまで苦しまなくてはいけないのだろう? 何故誰も助けてくれないのだろう? 何故誰も理解してくれないのだろう?
その様な疑問が何度も脳内中を駆けた。 それと同時にだんだん自分がわからなくなってきた。
その結果僕は、 人間が己の快楽の為に生きるあさましい生き物だと定義した。
でもその事について今改めて考えると頭をひねることとなった。
何せ僕にはその快楽と呼べるものがなかったのだ。 だからこそ僕は、 自分がわからない。
そしてそれは今もわからないままだ。 果たしてこのまま生きていても意味があるのかとさえ思っている。
人間死ぬことは悪だという人間がいるが僕に言わせてもらえばその発言こそ悪であり、 死んだ人の苦しみも理解しようともしていない人間にその様な事を言う資格はないと言わざるを得ない。
だからこそ僕は別に自殺が悪いことだとは言わない。
だってそれだけ本人は苦しんで苦しんでその結果選んだ選択だ。 その選択を誰が責められるだろう。
もしそれを責める物がいるとすればその様な人物は、 本当に苦しんだ状況に陥ったことがなく、 他者を理解しようとする気持ちもない真に優しさのない人間だと言えるのではないかと思う。
そもそも優しさというものについても非常に抽象的なものだと思う。 というか優しさって何とすら思っている。
日本には敬語と呼べるものがあるがこれをうまく使えないだけで優しさがないと言われる。 というか僕は言われた。
でもそれはおかしなことではないかと思う。 だって優しさなんて物が言葉だけでわかるはずがないからだ。
むしろ敬語が使えるだけで優しいとか言われるなら敬語を使って人殺しをしたってその人は優しい事になってしまう。
そんな物優しさでもなんでもないだろう。 むしろその様な事だけで優しさがないとか言う人間の方がよっぽど人に対して優しさがないのだろうと思う。
僕が考える優しさとは、 むしろ行動に現れるのではないかと思う。
だってそうだろう? 言葉がいくら丁寧でも行動しなければそれは唯の詐欺師と同じ。
それとは逆に口がいくら悪かろうとも人の為に行動できるのならばそれは、 本物の優しさだと言えると思うし、 それを否定する輩には一発パンチでも決めてやりたい気分にさせられるというか多分する。
ただこれも結局のところ僕の考える優しさなだけで人によっては違うのかもしれないわけなのだがそんなことはどうでもいい。
まあ何者かすらわからなくなってしまった僕が言いたい事としては、 こんなものだが最後にもう一つだけ言わせてもらう。
人間は確かに欲深く、 浅ましい、 醜い生き物だがそれはきっと他者を思いやる気持ちがないせいなだけで、 人間皆が皆を理解しようとする気持ちを持てばいずれ変わっていくのではないかということだ。
この事を僕なりに簡単に言い換えてしまうならば人間は皆ニュー〇イプにならなければならないということだ。
ニュータ〇プは、 実際に会話をしなくとも相手の思いを理解し、 通じ合っている。 それはつまるところ相手の心を気持ちを真に理解できるということだ。
無論あれはアニメの中でこそ成立しているだけで現実世界では、 絶対に成立しない事ではある。
でもそれはあくまで相手の気持ちをほぼ100%理解することが不可能なだけであり、 その人の態度や行動から最低でも50%程度は誰でも察してあげられると思う。 だからこそ僕はこう言いたい。
人間は互いに互いの事を理解し合うことが大事だと。 そうすればきっと僕の様に自分で自分の事がわからない何者と言われる存在であってもいずれその答えを導きだすことができると思うから……