3話 聖女の怒り
そこは、修道院の中。ベッドが2台ほど並べられているだけの、簡易な治療室である。外からの陽射を取り込むために窓は大きく作られており、室内は明るい。
部屋の中には3人の影がある。意識を集中している様子のクリムとその隣に従者のように寄り添うニーナ、それからその正面に半身が焼けただれたような状態になっている女がうずくまっていた。
「心優しき大地の精霊よ。迷える子羊に祝福を与えん。ヒール」
クリムが厳かに呪文を呟くと、両手が淡い光に包まれる。淡い光は、一瞬の後、女の全身を包み込んだ。微かな暖かさを持ったその魔法が消えるまで、女は全身に走る多幸感に包まれていた。
「……はい、以上です」
クリムは額の汗を拭くと、優しく女に笑いかけた。
「だいぶひどい火傷のようですから、一度で完治は難しいかもしれませんが。
何度も繰り返していればよくなりますよ」
ニーナが黙って鏡を差し出す。
女は鏡で自分の顔を看て、わっと泣き声を上げた。
焼き爛れたような皮膚はまるで何事もなかったかのように、きめこまやな白い肌に戻っている。
「さ、服を来てください。来週のこの時間、また治療をしましょう」
「神官さま! ありがとうございます!」
女は感極まった様子で、着衣の乱れもものともせず、クリムにもたれかかった。
すこしだけ、クリムの額に汗が見える。
「はいはい、次回お待ちしておりますよ」
そんなクリムをジト目で見ながら、ニーナが女を引き離した。そして明らかに取り繕った笑顔を見せると、衣服を投げつけるように女に渡した。
休憩の時間である。
クリムは、ニーナから渡されたミルクを飲みながら人心地ついていた。
けれど、その表情はどこか暗い。やはり、クビにされたことをまだ気に病んでいるのだろうか。こんな私でよければ、クリムさまを慰めるのに一役買うのにーー。
などと思っていたところで、クリムが口を開いた。
「おかしいですね」
「ふええっ!? お、おかしいって、私初めてなもので……、その、クリムさまは経験が豊富かもしれませんけど……」
「……? 何がです」
クリムの真摯な目でじっと見つめられ、ニーナは顔を赤くしてそっぽを向いた。
「クリムさまは卑怯です」
「僕がおかしいと言ったのは、最近ここに来る患者の数が増えている、ということです」
「増えている……?」
それはニーナもうすうす感じていたことだった。
クリムたち勇者一行は魔王を倒したという。魔物の姿も見かけなくなった。一時期では、一夜にして村が滅ぶことさえ、珍しくなかった。
元々この修道院は知る人のみぞ知る、「奇跡」を起こす修道院として知られていた。敬虔な信者、もしくはワケありの患者がひっそりと訪れ、治療を受けて帰っていく。
そんな修道院に来る人間が増えた、とは――。
「……何か起きているのかもしれません」
「王都で? もしや戦争が?」
ニーナの言葉に、クリムは苦痛そうに首を振った。
「ありえない。馬鹿げている。魔王との対決が終わり、やっと平和が訪れたというのに、人間同士で争いなど。でも、しかし」
戦争が起きて一番得をするのは誰だ。
それは魔王との対決時にも、腰を動かさなかった、国に居る古豪の貴族達だ。
彼らは戦闘能力には欠けているが、政治能力に長けている。もし王都が疲弊したこのタイミングを見計らって、反旗を翻したのだとしたら。アランは大丈夫だろうか。
いや、そんなことはありえない。
クリフは悪い予感を振り払うようにして、頭を振った。
自分は悪い方向に考えがちな悪癖があるのだ、と自分に言い聞かせる。治療術士としてのサガか、つねに最悪のことを想定して動くクセがついてしまっていた。だから今回も、この予測はきっと外れる。
そんなクリムの思いを見透かしたかのように、ニーナはにっこりと微笑み、クリムの顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですよ。クリムさまに何が起こっても、私はお隣に居ます」
そんなまっすぐなニーナの言葉がまぶしくて、クリムは「ありがとう」と口ごもりながら感謝の言葉を口にした。
○
そこは簡素な部屋だった。何十年と、人が使った形跡が見られない。ホコリがうず高く積り、外から入る光も少なくて薄暗い。また、大変かびくさい。平常の人間であれば三日と持たず根を上げるだろう。
けれどその少女、ステラ・ウィルと名乗った悪魔――は、ボロボロになった毛布に半裸に近い身体をくるみ、気持ちよさそうにいびきを、もとい寝息をたてていた。
悪魔という言葉に象徴されるように、髪と瞳は黒い。体躯は華奢で、小柄なニーナとあまり変わらない。しかし女性らしさという点では、過剰とも言えるほどで、胸部や腰には十分な肉がついていた。サキュバスと呼ばれる悪魔は、人間の男を魅了するというが、ステラもそれに類するのだろうか――。
だが、こうやって寝ている分には無害な少女にしか見えない。寝息とともに長いまつ毛が揺れている。起こすのも忍びなくて、クリムは手近にあったイスに腰掛けた。
しかし、部屋の中のカビ臭さに辟易として、手で軽く印を切り、「解呪」の魔法を使う。
本来は、呪いを払う目的の魔法だった。けれど部屋の中をきれいにしたり、カビを払うのにも応用できる。
そのかすかな魔力の動きを察したのか、ステラは「ん……」と身悶えし、目をこすりながらアクビを一つ。ぼんやりとした顔で部屋を見回したところで、クリムに目をとめる。
「お、おまえ――!」
何を勘違いしたのか、ステラはボロボロの毛布を胸にかきいだき、形のよいまゆを釣り上げた。
「そーゆうの、卑怯って言うんだぞ! 人が寝てる間に何するつもりだったんだ!」
「何ってその……、見てだだけですよ」
「ウソだ! スケベだ! 男はみんな狼で魔王で変態だってパパが言ってたぞ!」
人でなしとか外道とかスライムの糞にも劣る畜生だとか散々な罵倒をひとしきり並べた後、ステラは肩で荒く息をした。
クリムは罵詈雑言を一通り聞き流して、
「しかし意外ですね。貴女がそんなに恥じらうなんて」
「なっ、ばっ、人のことを痴女か何かだと思ってるだろ!
こう見えても恥じらいくらいあるぞ。乙女だから」
乙女はそんな露出度の高い服を着ないと思うが――クリムは一瞥したあと、けれどそんなことを言うとまた変態と言われそうなのでため息をついた。
「……分かりました、次から気をつけます」
「本当だな! 次もっかい同じことしたら、ひどいからな。お前の末世まで呪ってやるぞ」
「はいはい、ステラがだらしなくヨダレを垂らしながら寝てる時はお邪魔しないようにしますよ」
「誰がヨダレなんか!」
ステラは口の回りをぐしぐしと拭いながら、反論する。
「分かりましたよ。……ここに来たのは、話があったからなんです」
「くそっ、急に真面目になるなよ。調子が狂うなぁ」
と言いつつも、ステラは背伸びを一回、身体を鳴らし、ベッドの上に腰掛けた。
「で、話って?」
「あなたたちの存在です」
クリフの眼差しが、じっとステラをとらえている。
「あたしたちのことを知りたいってのか」
「そうです。魔王に封印されたと言ってましたね? 悪魔とは、魔王とは異なる存在なのですか。人間に危害を与えないのですか」
「そうだな、ざっくり言えば」
ステラはあご先に指をあて、思案げな顔をみせた。
「あたしたちは、魔王の敵だ。かといってお前ら人間の味方でもないぞ。
魔界ってところにあたしたち一派と、魔王が居て、互いにしのぎを削っていた。
あと一歩のところであたしたちは力を奪われ封印され、こちらも負けじと魔王の力を削いでやった。お前らが倒したと喜んでる魔王は言わば成れの果ての残骸で、魔力の搾りかすもいいところだ」
でなければ人間ごときに魔王なんて、とステラが意地悪そうな笑みを浮かべる。
「ま、それでも感謝の気持ちもある。搾りかすの魔王を倒してくれたことで、あたしたちは封印がとけてこうして現界に復活できた。魔力は全盛期の10分の1にも満たないけど」
「それで、目的は?」
ごくりと唾を飲み込んで、クリムは質問を重ねた。
全盛期の魔王と対峙するほどの力の持ち主。
もし人間を根絶やしにするするつもりなら、この場で。
力を取り戻す前に滅してしまうのがよいのではないか。
思わずクリムの拳に力がこもる。
「そんなに身構えるなよ」
ステラは、そんなクリムの意図などお見通しだ、とばかりに、緊張感のないあくびを見せて、敵意のないことを示した。
「お前らとやりあうつもりはないよ。
あたしたち悪魔の根源は人間の恐怖と混乱。おいしいエサが居なくなったら困るだろ?
それに目下の目標はパパとマミーと、それからねーちゃんたち、家族と再会することだから」
「信じていいんだな?」
「くだらない」
ステラは挑むような視線を、クリムに投げかける。
「悪魔はウソはつくけど、契約は破らない。お前らに危害はくわえない」
「……わかった」
ふう、とクリムはため息をつくと、背中越しに握っていた十字架から手を離した。
「それじゃ、今日もご飯の時間かなっ」
これで話は終わり、とばかりに笑みを浮かべたステラはクリムに身を寄せた。
「な、何を――」
「何をって……決まってるだろ。今日の分の魔力をだな」
「聞いてな」
「うるさいっ」
クリムとステラは、がっぷり四つに取っ組み合い、視線で火花を散らす。「飯をくれるって約束だったろ」とステラ。「こんな急にとは聞いてない」とクリム。人生を勉強と魔法の習得についやしたクリムの劣勢である。ステラはどこにこんな力が、と思うほどの力で持ってクリムをベッドの上に押し倒した。
「それじゃいただきま――」
その時、バタンと扉があいた。
ニーナだった。
彼女はベッドの上でくんずほぐれつ状態にあったクリムとステラを見てから、顔を赤くして、青くして、また赤くして――。
「どうもお邪魔だったみたいですね。失礼しました」
と、部屋をあとにした。
「待って! 誤解だから!」
その後ろ姿にクリムの悲鳴が届くことはなかった。