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冬の楽園  作者: 森崎緩
後輩視点
7/24

秋の感傷

 放課後、混み合う廊下の向こうに、見慣れた後ろ姿を見つけた。

 毛先がくるりとカールした、つやのある長い髪。意外と小柄なセーラー服姿――早坂先輩のことはたとえ後ろ姿だけでも見間違えるはずがない。帰り始める生徒でごった返す廊下の、人混みの隙間にちらりと見えただけでわかった。

 すかさず俺は廊下の向こうに、威勢よく声をかける。

「せんぱーいっ!」

 瞬間、廊下に居合わせたほぼ全員が、俺の方へと振り向いた。

 向けられた大勢のびっくり顔に、むしろ俺がぎょっとした。


 よくよく考えてみれば、誰かから『先輩』って呼ばれるのは一人だけじゃない。

 上級生なら皆、そうだ。俺だって写真部の一年からは清田先輩って呼ばれることもある。

 だからあの場に居合わせた二年生、三年生の皆さんが、俺の声に揃って振り向くのも当然だった。

 当の先輩――我が写真部の早坂先輩が俺のことを笑うのも、ちょっと恥ずかしいけどしょうがない。


「あんなに大勢いるところじゃ、名前で呼ばないとわからないでしょう」

 早坂先輩はくすくす笑いながら、たしなめるように言った。

 俺は猛省した。

「すみません。いつもの癖で、つい」

「皆が一斉に振り向いた時の清田くんの顔、おかしかった」

 先輩はよっぽどツボに入ったのか、しばらく笑い続けていた。

 笑って貰えたなら本望なんだけど、やっぱり、恥ずかしい。

「まさに鳩が豆鉄砲食らった顔って感じでしたよ」

「あの、あんま言わないで貰えます? 俺が恥ずかしいんで」

「やだ」

 俺が頼んでも聞く耳持たずだ。

「忘れてくださいよ、先輩」

「やだ。だって、可愛かったんだもの」

 世界で一番可愛い人にそんなこと言われても、喜んでいいのかどうか。


 その後も早坂先輩は、廊下の片隅で笑い続けた。

 ひとしきり笑って笑って、ようやく少し落ち着いてから、俺に向かってこう言った。

「そう言えば君、私のことを名前で呼んでくれたこと、ないよね?」

「そりゃ、ないっすよ」

 当たり前だ、と俺は思う。

 先輩は先輩だ。同じ部活に属するものとして当然敬うべき存在だし、名前で呼ぶなんて大それたことはできない。そんな必要もないはずだし、今までは考えたこともなかった。


 早坂ふゆ先輩。下の名前は当然知っている。

 初めて話をした時にも言われた。

『清田柊くん? 私、ふゆっていうんだ。冬繋がりだね!』

 くすくす楽しそうに笑う先輩に、見惚れた記憶が鮮明に残っている。

 冬生まれだからふゆ、らしい。先輩自身と同じように、きれいな名前だと思う。こたつが好きな先輩にはまさにぴったりだ。

 でも、その名前を呼ぼうなんて――呼んでみたい、呼べるような立場になってみたいと思ったことなら、何度もあるけど。


「もしかして、清田くん」

 早坂先輩は俺の気も知らず、眉を顰めてみせる。

「実は私の名前を知らなかったりしない?」

「な、何言ってんすか。ちゃんと知ってますよ」

 当たり前だ、と俺はもう一度思う。

 想いを寄せる相手の名前だ。知っているどころか、すごく大切に思っている。

「本当?」

 だけど先輩は、随分と疑わしげに俺を見てくる。

「なーんか、知らないんじゃないかって思えてならないんだけど」

「何でそんなこと……」

「だって呼んでくれないじゃない、名前で」

 ぷうっと頬を膨らませた早坂先輩は、時々年上に見えない。

 一歳しか違わないから年上も何もないと言えばない。ただ学校では、その一歳の差が本当に大きいというだけだ。

「先輩のことを名前で呼んだら、失礼になりません?」

 俺は恐る恐る聞き返した。

 フレンドリーな早坂先輩のことだ。もしかしたら名前で呼んで、なんて今更言ってくるのかもしれない。

 けど、それでも俺は呼べないと思う。

 すると先輩は、ふいっと目を逸らして言った。

「そんなことないです……というより、そろそろかなと思っているんです」

「そろそろ?」

 何が?

 俺が首を傾げたそのタイミングで、早坂先輩の声が低く沈んだ。

「私だって、いつまでも先輩でいるわけじゃありません」

 枯葉の音みたいにかさかさした声で言われた。

「そのうち、先輩じゃなくなる……つもりです、ので」

 深く俯く先輩の、今はつむじくらいしか見えない。セーラー服の裾を縋るように握り締めて、細い肩を震わせている。

「も、もしよかったら清田くん、先輩って呼ぶの、止めてもいいですよ」

 そうしてやけに言いにくそうに、俺に向かって宣言してきた。


 どうしたんだ、先輩。急に妙なこと言い出して。

 先輩がいつまでも先輩でいるわけじゃないって――どういうことだ?


 首を傾げかけた時、ふと、早坂先輩の頭越しに廊下の窓が見えた。

 窓の外の景色はもう秋だ。木の葉はすっかり色づいて、ひらひら落ち始めたところもある。最近は夜になると急に冷え込むようになってきた。

 来月には文化祭もあるし、写真部もその発表に向けて準備に追われているところだ。俺もとっておきの写真を用意していたし、早坂先輩もそうらしい。楽しみにしていてくださいね、なんて言われたばかりだった。

 でも、早坂先輩にとって次の文化祭は、高校生活最後の文化祭となる。

 春が来たら先輩は、うちの高校からいなくなる。うちの部からも、いなくなる。今みたいに毎日のようには会えなくなってしまう。

 だから、いつまでも先輩でいるわけじゃない、なんて言い出したんだろうか。


 俺は無性に寂しくなって、とっさに笑い飛ばしていた。

「寂しいこと言わないでくださいよ、先輩」

 せめて会えなくなる前に、って思いは確かにある。

 先輩が卒業することを意識した時、もし何かするなら急がなきゃなって思った。後悔はしたくない。このままお別れするなんてのは絶対に嫌だ。

 だけど先輩が寂しそうにする必要はない。心配なんて何もない。

 先輩が、俺たちの先輩じゃなくなることは、絶対にないんだから。

「清田くん……」

 早坂先輩がおずおずと面を上げる。

 上目遣いの表情は、いつもと少し雰囲気が違うような気がする。不安げで、心細そうな顔に見えた。

 その顔に、俺は精一杯笑いかけた。

「もし卒業したとしても、先輩はいつまでも先輩ですよ」

 励ますように両手の拳を握ると、先輩はなぜかきょとんとした。

「え?」

「先輩は何年経っても、俺たちの先輩です。そうじゃなくなることなんてないっすよ」


 卒業しても部に顔を出したい、なんて先輩なら言い出しそうだ。

 もちろん俺としては大歓迎。『先輩命令』はこの先何年後でも、ずっと有効だ。逆らうつもりなんてない。


「……そう?」

 こわごわ聞き返してくる早坂先輩に、俺は思い切り頷く。

「はい! ですから先輩、不安がることは何もないですって! 先輩は永遠に先輩っすよ!」

 力一杯そう言った――にもかかわらず。

 先輩は、まだ不安そうな表情をしていた。

「永遠……に? 私、ずっと先輩のままなの?」

「もちろんです!」

「この先もずっと? いつまで経っても?」

「ええ!」

「先輩以外のものに、なることなんてない?」

「え……? それは、そうじゃないすか?」

 何を言ってんだ、先輩。

 先輩がいきなり俺の後輩になっちゃったりしたら大事じゃないか。事実として俺より年上で、先に卒業しちゃうんだから、当然いつまでも先輩だ。それ以外にはならない。

 でもこう、何か噛み合わない気がするのはなぜだ。


 早坂先輩はしばらくの間、呆然と瞬きを繰り返していた。

 だけど、

「……そっか」

 不意にぽつりと声を零した。

 ゆっくり俯く動きに伴い、毛先のカールした髪が、音もなく肩から流れ落ちる。

「そっかあ」

 溜息混じりにもう一度言って、その後で先輩は潤んだ目を向けてきた。

「私……勘違いしてたのかもしれません」

 勘違い?

 苦しそうな声が聞こえて、俺は思わず眉を顰めた。

「勘違いって、何がですか?」

「いろいろとです」

 いろいろと? 何の話だ?

 考え込む俺を放っておいて、早坂先輩がそっと窓辺から離れた。

 肩を落としたまま歩き出す小さな背中を、俺は慌てて呼び止めた。

「せ、先輩、どこ行くんです!」

「部活です」

 かすれた言葉が返ってくる。

 急に元気なくなっちゃったみたいだ。

 さっきまであんなに笑い続けていた先輩は、どこへ行ったんだろう。


 俺は急いで、先に立って歩き出した早坂先輩の横に並んだ。

 廊下をずんずん進んでいく先輩は、もう俺の方を全く見ない。

「どうしたんすか、先輩」

「どうもしません」

 横顔が拗ねたように膨れる。

 目元に涙が滲んでいるのを見つけると、さすがにぎょっとした。

「先輩、泣いてるんですか」

「泣いてません」

「けど……」

「放っといてください」

 くすん、と鼻を啜って言われたところで、はいそうですかなんて従えない。

「放っとけないっすよ! 急にどうしたんですか!」

 俺は廊下を回り込み、両手を広げて早坂先輩の進路を塞いだ。

 はっと肩を震わせ、先輩が立ち止まる。その拍子にまた、くすんと鼻を鳴らす。

 俯き加減の顔は見えないけど、泣きそうな様子なのはよくわかった。

「どうもしないったら」

 先輩は言って、ぎこちない動作で肩を竦める。

「ちょっと、感傷的になっちゃっただけです。秋だから」

 そうか。

 やっぱり、と俺は思った。


 秋だから。

 ここで過ごせる季節が残り少ないってことに気づいたから。

 普段はそんなそぶりをこれっぽっちも見せないけど、早坂先輩は卒業するのが辛いんだろう。部の皆と別れるのも、嫌なのかもしれない。そこにちょっとでも俺が含まれているなら嬉しいんだけど。

 いや、俺の話は今はいい。

 残り少ないったって、これから先、全く何もないわけじゃないんだ。文化祭だってある。部の連中とやるクリスマスパーティだってある。先輩にはずっと笑っていて欲しいし、センチメンタルなこと言ってないで、とにかくまだまだ楽しんでもらいたいんだ。

 だから俺は、先輩を元気づけたいと思った。

 卒業式の日に、いい部活だった、いい後輩がいてくれたって思って貰えるように。

 俺と一緒にいる時は、そう言えば笑ってばかりいたななんて、ちょっとでもいいから思い返して貰えるように。


「早坂先輩」

 俺は声を掛けた。

 震える肩を叩こうか迷ったし、本当はぎゅっと抱き締めたいくらいだったけど、放課後とは言え人目のある廊下ではそんな思い切ったことはできない。

 ただ、元気づけたかった。

「部に顔出す前に、コンビニでも行ってきませんか」

 俺は言って、すぐに付け加えた。

「何か甘い物でも買ってきて、食べましょう。気分も変わると思いますよ」

 先輩は、すぐには答えなかった。


 しばらく待って、待たされて、ぎくしゃく顔を上げた時、先輩はまだ泣き出しそうな目をして、でも唇を尖らせながら小声で言った。

「清田くん」

 そう言えば先輩も、俺の名前を呼ぶことはない。

 初めて話した時、一度だけ呼んでもらったきりだ。『清田柊くん』って――それだって、当たり前なんだけど。

 ともあれ早坂先輩は恨めしそうに抗議してきた。

「君は私が、何か美味しいものを食べてればそれだけで幸せな人間だと思ってるでしょう」

「そ――そんなことはないっす!」

 そこまでのつもりはないんだけど、早坂先輩を笑顔にできる一番いい方法だと思っていたのは事実だ。

 焦って否定した俺を、先輩は拗ねた表情で見ている。

「ね、清田くん」

 やっぱり名前は呼んでくれない。

「はい」

「さっき言ったことって、本当?」

「さっきって言うのは……」

 問い返すと、早坂先輩は一度、深呼吸をした。

 それから、落ち着き払った口調で続ける。

「私が、君にとって、先輩以外のものにはなりようがないってこと」

「そ、そりゃあ、そうっすよ。本当です」

 すぐに俺は答える。

「いつまで経っても、何年先でも、私は君にとって先輩のままなのかな」

「もちろんっす。卒業したってそう簡単には変わりませんから」

 更に強く、頷いた。

 それは間違いなかった。先輩はずっと先輩のままだ。変わることなんてあり得ない。心配しなくたって大丈夫なのに。

「そっか。うん、わかった」

 ようやく、先輩が笑った。

 涙の気配を無理やり追い払って、作ったような笑みを浮かべた。

「それなら私、この状況を引っ繰り返してやることにします!」

「こ、今度は何ですか。引っ繰り返すって……?」

「今はまだ内緒です。ちょうどその為の準備、してたところですから」

 早坂先輩は指で目元を拭う。

 そして今度こそ、明るい笑顔になって言った。

「そうと決まったら文化祭の準備です。今のうちに英気も養います!」

 さっきよりもぐっと明るい表情になった先輩が、俺に言った。

「では清田くん。コンビニに行って、どっさり甘い物を仕入れてきます。ついてきてください」

「わかりました! 先輩命令、っすね?」

 俺が尋ね返すと、先輩は一瞬息を呑むような間を置く。

 それから、頷いた。

「……そうです」

 それだったらもう、何なりと。

 先輩は俺にとって永遠に先輩です。命令だって絶対です。聞けないはずがありません。


 秋風の吹く中、俺と先輩は連れ立って、学校そばのコンビニに買い物に出かけた。

 先輩は張り切ってプリンやケーキやチョコレートやらをやたら大量に買い込んだ。全部食べられるのか心配だったけど、大丈夫だと本人は胸を張っていた。

 真剣な表情でお菓子を吟味する横顔をこっそり観察しながら、俺はぼんやり考えていた。


 告白、しようかな。

 卒業まで、時間はあるようでない。いつまでも先輩後輩ってのは当然だけど、更にそこに、恋人同士って言う事実が加わったら最高だと俺は思う。今の俺に、手が届くのか届かないのかなんてよくわからないけど、早坂先輩にははっきり言わなきゃ伝わらないってことだけはわかっている。

 季節はもう秋だ。

 先輩の卒業までなんて、きっとあっと言う間だ。

 自覚したら俺まで感傷的な気分になって、はしゃぐ早坂先輩の様子が、まるで空元気に見えてきた。


 今の俺じゃ力不足だったかな。

 もう少し頑張らないといけないよな、先輩にずっと笑ってて貰うなら。

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