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冬の楽園  作者: 森崎緩
後輩視点
5/24

夏の一驚

 夏休み直前の校内は、どこか浮かれた空気が漂っている。

 テストも終わり、気温も上がり、待ちに待った長期休暇に向けて気持ちが浮つくのもわかる。

 俺だってちょっと浮かれてる。夏休みに入っても部活はあるから早坂先輩にも会えるし、楽しみにもしている。何かいいことがあればいいな、なんてぼんやり考えてる。

 けど、だからって夏休み前の部活動もおろそかにしちゃいけないと思うわけだ。


 終業式まではまだ三日もある本日、部に顔を出したのは俺と早坂先輩だけだった。

 先輩が来ると聞けば一も二もなく顔を出す俺を除くと、真面目にやってるのは早坂先輩だけってことになる。さすがは我が部の部長、写真部員の鑑だ。

 それに引き換え他の連中は最近どうしたっていうんだろう。

 先輩と二人きりになれる時間をくれたことは感謝するけど、ここ数日、まるで示し合わせたみたいに揃ってサボり出している。イベントごととなると顔を出すから活動自体の支障はないものの、せっかく入った部活、それでいいのかと思うこともある。

 俺と先輩を意図的に二人きりにしてくれてる、ってことは、さすがにないだろうけどな。

 さておき本日も二人きりだけど、残念ながらその時間を楽しむってわけにはいかなかった。


「見て、空が真っ暗」

 早坂先輩が物憂げな顔で、部室の窓を指差す。

 ガラス越しに見える空は真っ黒い雲に覆われていて、今にも一雨来そうな雰囲気だった。雨だけならいいけど、それ以外にも何か来そうだ。

「雷雨になるかもって天気予報でも言ってたみたい」

「へえ……稲妻の写真、撮れますかね」

 俺で半ば本気で口にしたことに、早坂先輩はぶんぶんと強くかぶりを振った。

「そんなのだめ! 危ないでしょう!」

「もちろん安全なとこから撮りますよ」

「だめったらだめです! おへそを取られちゃうなんて次元の話じゃないんですよ!」

 先輩の否定ぶりはいつになく強硬だった。

 まあ雷が危ないのは事実だし、俺もここは譲っておく。

「わかりました、やめておきます」

 すると早坂先輩はほっとしたのか、細い肩をゆっくり下ろした。

「よかった……清田くんのことが心配だったんです」

 そんなに俺を心配してくれたのか。

 俺は嬉しさににやつきつつ、でも落雷の危険をこんなにも案じるのも先輩くらいだよな、と思う。

「じゃあ、大降りにならないうちに帰りましょうか」

 早坂先輩がそう続けて、その言葉に俺も頷いた。

「そうすね。先輩、傘は持ってきてます?」

「うん、大丈夫。君は?」

「俺も持ってます。でも急いだ方がいいですよ」

 空模様を見る限り、今日の雨は土砂降りになりそうだ。傘を差していても太刀打ちできないほどかもしれない。

 それで早坂先輩が雨に濡れてしまったり、風邪を引いてしまっては困る。先輩と別れるのは名残惜しいけど、仕方がない。今日の部活は早目に切り上げる方がいいだろう。

「じゃあ、今日は終わりにしよう」

 先輩の言葉を合図に、俺たちはカメラを片づけ始める。

 どうせ二人しかいないから、終えるとなったら行動が早かった。ものの十分で掃除まで終えて、揃って部室を出た。


 部室の電気を消すと空の暗さがよくわかる。

 夏の夕方五時過ぎだっていうのに、廊下の蛍光灯が灯っていた。

 窓の外はのっぺりとした暗い青色だけど、雨はまだかろうじて降り出していないようだ。

「嫌な感じの空だね」

 早坂先輩が肩を竦める。

 窓の外を睨む顔は恨めしげで、まるで拗ねた子供みたいに見えた。

「いかにもたっぷり雨粒抱えてそうっすよね」

 俺も憂鬱な気分で相槌を打つ。

 酷い降りになる前に先輩を帰したかった。この分だと、徒歩通学十五分の俺が家に帰り着くまででも間に合うかどうか、ぎりぎりってところだ。先輩の家も学校からはそう遠くないそうだけど、急いだ方がいいのは間違いない。

「本当。色がちょっと不気味なの」

 眉間に皺を寄せた先輩は、心底気味悪がる表情で窓の外を睨んでいる。

 実は雨の日が嫌いなんだろうか。それはそれで、早坂先輩らしい。


 よその部も早目に切り上げたのか、二人で歩く廊下はしんとしていた。

 上履きの足音が今日に限ってやけに響く。人の気配のない校舎に漂う湿っぽい空気は、空の色よりもよほど不気味に思えた。

「こういう時って、つい嫌なこと考えちゃうの」

 不意に早坂先輩が呟いた。

 その声が暗い廊下に響き、訳もなくどきっとする。

「い、嫌なことって何すか、先輩」

「あるじゃない。怪談とか、学園七不思議とか」

 そしてこのタイミングでそんな話題を出す先輩も先輩だ。

「先輩はそういうのがお好きなんですか」

 俺が恐る恐る尋ねると、先輩ははっと硬い表情になる。

「ううん、大嫌い」

 なら、どうしてわざわざ口に出して言うんだろう。

 当然の疑問を抱く俺に、白く強張った顔の先輩は慌てたように続ける。

「私は別に、怪談などが怖いわけではないです」

「そうなんすか。嫌いだってだけ?」

「そうです」

 もっともらしく、先輩が胸を張った。

「ほら、嫌いだけど考えちゃうことってあるでしょう」

「まあ……ありますね」


 俺は恐い話自体は嫌いじゃないけど、こういう状況下で聞きたいとは思わない。先輩の前で醜態は晒したくないし。

 早坂先輩が嫌いだというなら、そんな話はしないに限る。


「昔読んだ本に載ってたお話とか、友達から聞かされたお話とか、つい思い出しちゃうの」

 よせばいいのに、早坂先輩は尚もそう主張したがる。

 心なしかその声と、さくらんぼみたいな唇が震えていた。

 本当に怖くないんだろうか。微妙なところだ。

「思い出したくないはずなのにね。こんな時に考えたって、余計怖くなるだけなのに」

 身震いまでされれば、さすがに突っ込まずにはいられない。

「先輩、やっぱ恐いんすね」

 俺の指摘に早坂先輩ははっとしたようだ。

「こ……怖くはないです」

「本当っすか? 今、怖いって言いませんでした?」

「言ってません。本当です。嫌いなだけで、怖いわけではないです」

 言い張る先輩は変なところで意地っ張りだ。

「怖くはないけど、つい思い出しちゃうのが嫌だなあって話です」

 なぜか偉そうに宣言した先輩が、つんと顎を反らした。


 はっきり言って、虚勢を張ってるのがばればれだ。

 素直に怖いって言ってくれればいいのに。そんなに後輩の前で怯えるのが嫌なんだろうか。

 別にいいと思うけどな、俺は気にしないのに。


「まあ、あんまり考えない方がいいっすよ」

 だから俺は、あえて明るい声で言ってみた。

「こういう時はとにかく楽しいことを考えるのに限ります」

 あまり深くは突っ込まず、話を逸らしてあげることにする。

「楽しいこと、か。うん、そうかもね」

 早坂先輩はまだ硬い表情で、それでもちょっとだけ笑った。

 そして直後、俺に向かって小首を傾げる。

「じゃあ、何か楽しいお話をしてくれる?」

 素早い切り替えしに、俺は面食らった。

「お、俺がですか?」

「うん。お願いできない?」

 いや、急に言われましても!

 そりゃ例には出しましたけど、だからって俺にとっさに出てくる楽しい話のストックがあるわけでもない。むしろ考えなしに振った話題だったから、何にも出ては来なかった。

「その……」

「うん」

 俺のもごもごした声に、早坂先輩は期待に満ちた目を向けてくる。

 そんな、そんなきらきらした目で見つめられたら、余計に言葉に詰まってしまう。

「あの……ちょっと、考えさせて貰えますか、先輩」

「いいですよ」

 了承を貰い、考える為に俺が黙ると先輩も黙ってしまった。

 廊下はまるで静かになって、二人分の足音が、こつこつ響く。

 人気のない廊下は無機質で気味が悪い。曲がり角を曲がる時、通い慣れた校舎にもかかわらず、妙に緊張してしまう。


 俺は、どうやら本当に怖がりらしい先輩の為に、必死で面白そうなネタを考えた。

 そして思いついたのはこないだの授業での一幕。数学の先生が授業中、教壇の上で足を滑らせ、すてんと引っ繰り返った時のこと。あの時の話をするのはどうだろう。

 面白いかどうかってのはこの際どうでもいいんだ。怖がっているくせに妙な意地を張って、正直に言おうとしない先輩の気が紛れれば、それでいい。

 脚色もふんだんに混ぜ込んで、思いついたネタを口にしようとした時、だった。


 不意に眩しい閃光が走った。

 あ、と思う間もなく、耳をつんざく大きな音が暗い空の下に鳴り響く。地響きのような重低音だった。

 雷だ。

 ついに来たか、と俺は冷静に受け止めた。こりゃ雨も直に降るな。

「きゃっ」

 一瞬遅れて、早坂先輩が小さく悲鳴を上げる。

 だから俺は、先輩大丈夫ですよ、それよりもこないだ数学の先生が、と話し出そうとして――ふと息が詰まった。腹の辺りが圧迫されて、潰されそうほどに締めつけられたのがわかった。

 俺はとっさに対応できず、よろけた拍子に引っ繰り返る。危ないと目をつぶった直後、冷たい床に背中と肩を打ちつけた。

「いてて……」

 急に何だ。呻きながらも、痛みを堪えて目を開けた。


 天井と、白っぽく灯った蛍光灯が真っ先に目に入る。

 転んだんだな、と納得のいかない思いで考える。何で俺、急に転んだんだろう。数学の先生をネタにしようとした罰が当たったのか。だとしたらまさに怪奇現象だけど。

 視線をぼんやり動かし、次に目に入ったのは、早坂先輩の頭だった。

 床に倒れた俺のお腹の辺りにしがみつく、先輩の、見慣れたきれいな髪のてっぺんだ。髪の分け目とつむじの辺り。

 ――でもなんで、先輩の頭がここに?


 遠くでざあっと、雨の降り出す音がした。

 だけど窓の外を見る余裕はない。それどころじゃない。

「せ、先輩っ!」

 俺は慌てて上半身を起こした。

 立ち上がろうとすることはできなかった。先輩ががっちりと抱きついてきているからだ!

「どどど、どうしたんですか、きゅ、きゅう、急にっ!」

 あまりの事態に俺は噛んだ。噛み噛みだった。

 だって想像できるか。あの早坂先輩が俺に抱きついてるんだ。しかもどうやら、先輩にしがみつかれて俺はすっ転んだらしいんだぞ!

 夏の薄い制服越しに、先輩の体温と柔らかい身体を感じた。

「ご……ごめん……」

 早坂先輩はぎくしゃくした動きで顔を上げた。

 普段から色白の先輩は、今は血の気のない顔をしていた。

 歯をがちがち言わせながら、呟くように言葉を発する。

「い、いきなりだったから、びっくりして……」

「へ?」

「あの、か、雷が」

 細い肩もぶるぶる震えている。

 お腹の辺りがぎゅっと締めつけられて、柔らかい体温がより密着してくる。

「いや、まあ、そうっすよね」

 雷は普通はいきなり来るものだ。

 そう思ったけど口には出さず、抱きついてきたままの先輩を見た。

 早坂先輩は俺の身体に腕を回したまま、一向に離れようとしない。


 今気づいたけど、これは役得だよな。

 転んで打ったところは痛かったけど、雷のお蔭で先輩に抱きつかれてるんだ。ラッキーと言わずして何と言おう。

 思った、夏服でよかった。


「先輩、大丈夫ですか」

 俺は口元が緩むのを堪えながら、いかにも心配そうに声をかけた。

「立てますか?」

 ずっとこのままでもいいんですけど、とは心の中でだけ告げて、青ざめた先輩の顔を覗き込む。

 早坂先輩は縋りつくように俺にぴったりくっついている。やけに瞬きの多い目は涙に潤んで、じっと俺の方を見上げている。

 その怯えた顔もちょっと可愛くて、俺はどぎまぎしながら言った。

「先輩、雷も苦手なんすね」

「え?」

「こんなに怖がるなんて思いませんでしたよ」

 俺が言うと、早坂先輩はようやく我に返ったようだ。

 はっとして俺から身を離し、気まずそうな顔をする。よっぽど恥ずかしかったのか、頬に血色が戻っていた。目は泳いでいるし、そのくせなにやら不満そうな顔をしている。

「怖かったというわけでは……ちょっとびっくりしただけです」

 唇を尖らせて、もごもごと言い訳っぽい台詞を口にする。

「ほら、怖い話をしてた最中だもの。びっくりして当然でしょう?」

 先輩はそう主張する。

 けど、さっきは怖い話そのものをしてたわけじゃないからな。

 別に雷が怖くたっていいと思うんだけどな。俺がつい笑っちゃったから認めたくないんだろうか。だとしたら悪いことしたかな。

「雷が恐いわけじゃないの。たまたまびっくりしただけ」

「そうっすか」

「そうです。だから、平気です」

 まだまだ言い張る先輩は、反応に困る俺を見て、いよいよむきになったようだ。

 大慌てでその場に立ち上がろうとしてみせた。

「平気ですって……ひゃっ」

 だけど次の瞬間、ふらっとよろけた。

 立てたのはほんの一秒間だけで、すぐに床にぺたんと座り込む。

 見守る俺へと恨めしげな目を向け、何だか泣きそうな顔をする。

「私、雷が怖いわけじゃないの」

「はい」

 俺は頷く。

 この顔で言われたところで、そうは思えないけど、認めておく。

「でも……あの、びっくりし過ぎて腰が抜けました」

 早坂先輩の細い手が、ゆっくりこちらへと差し出された。

「ですから手を貸してください。……これは先輩命令です」

 おずおずと言ったその後で、いつもよりか細い一言が付け加えられた。


 写真部の後輩として、そう言われたら従わないわけにはいかない。

 いや、早坂先輩の頼みだったらそう言われなくても従うけど、こんな状況でも先輩は、先輩として振る舞いたいみたいだから。

 だったら俺も後輩らしく、先輩の弱点なんて見なかったふりをしてあげるべきだろう。


 俺は差し出された細い手を掴み、早坂先輩を立ち上がらせてあげた。

 それから、いかにも後輩らしく申し出てみる。

「よかったら家までお送りしますよ、先輩」

 早坂先輩は真っ赤な顔で、俺の手をぎゅうっと握った。

 そして雨の音に掻き消されそうな、小さな小さな声で答える。

「せっかくですから……是非、お願いします」

「はい」

「それと」

 ちらっと上目遣いになって、先輩はもう一つ言った。

「できれば、楽しい話をしながら帰ってくれたら助かります」

 了解っす。先輩の為、最大限努力します。


 こうして俺は数学の先生や日常の出来事をネタにしながら、早坂先輩を家まで送り届けた。

 あれきり一度として雷が鳴ることはなかったけど、先輩は俺の手を握ったまま離さなかった。手を繋いだまま下校なんて、大それたことをしてしまったわけだ。雨降りじゃなければできなかっただろう。

 俺に手を引かれた早坂先輩は、傘の下でむくれながら頬を赤く染めていた。よっぽど悔しかったのかもしれない。でもそんな様子もとびきり可愛かったので、俺は顔が緩むのを必死で堪えなくてはならなかった。


 先輩の手は柔らかくて、握ってみると見た目以上に細く、小さく思えて驚いた。

 年上っていっても一つしか違わないんだよなって、その時ふと思った。

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