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冬の楽園  作者: 森崎緩
後輩視点
12/24

三度目の春の正直(1)

 早坂先輩が文化祭で発表した四枚の写真、『四季の思い出』。

 そこにはある共通点があった。

 全てが食べ物だというだけじゃなくて――その思い出全てに、俺が関わっていたということだ。


 春、写真部の部室で居眠りをした日。

 早坂先輩があんまんを食べたいと言い出して、二人でコンビニに寄り道した。

 夏、先輩が来なかった花火大会の日。

 俺は露店でわたあめを買い、先輩の家まで届けに行った。

 秋、文化祭も差し迫ったある放課後。

 先輩はほんの少し泣いた後、俺を買い出しに付き合わせた。

 そして冬、早坂先輩が初めて俺の部屋に来た日。

 俺は先輩の為にみかんの皮を剥いてあげて、それを食べる先輩はとても幸せそうだった――。


 どうして気づけなかったんだろう。

 早坂先輩は俺と一緒の時間を、四季の思い出だと言ってくれた。

 それを伝えたかったはずなのに馬鹿な俺はちっとも気がつかなかった。だから先輩は苦手な言葉で伝えるしかなくなった。泣くほど怯えた、あれほど不器用な先輩を見たことなんてなかった。

 これまで強がりの裏で、どんなことを思ってたんだろう。

 俺は手の施しようのない馬鹿で、浅はかで、女の子の気持ちが全然わかってなくて、その上ろくに気の遣い方も知らないようなガキだった。

 先輩はそんな俺にきっと呆れたりもしたはずだ。歯がゆくも思っていたはずだ。そして、ずっと怖がってたはずだ。

 俺だってそうだった。

 下手なことを言って、先輩と今まで通りでいられなくなるのが怖かった。

 だから先輩のことを好きでも、その気持ちを伝えたくなっても、あれこれと理由をつけて誤魔化してきた。


 早坂先輩とは、クリスマス以来会っていない。

 向こうから『受験が終わったら連絡します』とメールがあった。部で行く初詣には誘ったけど断られた。合格発表の日が来て、志望の大学に合格した旨の連絡はくれたけど、それだけだった。

 俺からもメールをした。

『写真のことで、どうしてももう一度話したいんです。時間を作ってもらえませんか』

 祈るような気持ちで送ったメールに、先輩は一週間かけて返事をくれた。


 そして今、俺は一人で写真部の部室にいる。

 今日は卒業式だった。二年生は在校生として卒業していく先輩を見送る役目がある。登校して、式を済ませて、その後で早坂先輩と待ち合わせた。

 部室の窓から見る桜並木は、既に蕾が膨らみ始めている。この学校で迎える三度目の春が来ていた。桜がほころんで咲き始めるのももうすぐのことだ。

 そして咲き始めた頃には、早坂先輩は、もういない。

 今日で最後だ。卒業式が終わり、明日からは学校で先輩に会うこともない。通学路で、校舎の隅で、この部室でも会えなくなってしまう。卒業後も遊びに来たいと、先輩は昔言っていたけど――。

 それが叶うかどうかは、これからの努力次第だろう。


 やがて、足音が静かに近づいてきた。

 俺ははっとして、深呼吸を一度する。それから唇を引き結ぶ。

 今日まで何度も考えて、備えてきたつもりの心が、もう既にざわざわと落ち着かない。


 卒業式を終えて人気のなくなった校舎に、一人分の足音はよく響いた。先輩らしい足取りで、ゆっくりとこちらへやって来て、そして部室の前でぴたりと止まる。

 一瞬間を置いてから、引き戸の開く音がした。

 こわごわ振り返った俺は、そこで早坂先輩の姿を見た。

 クリスマスイブのあの日以来、久し振りのことだった。

 早坂先輩の顔は強張っていた。大きな瞳を俺へと向けて、血の気のない顔で戸口に立っている。

 細い手には鞄と卒業証書が握られ、制服の胸元には花が飾られている。ピンクの薄紙で作られた、門出を祝う花だ。そして緩くカールされた長い髪は今日も下ろしてあって、春の日につやつやと光っていた。

「メール、見たから」

 意外とはっきりした声で、先輩は言った。

「君と、話をしに来ました」

 そう言ってから睫毛を伏せた。


 先輩に話すことは決まっていたはずだった。

 なのに先輩の姿を目にした途端、全部ぼやけてわからなくなった。

 いつだってそうだ。先輩が傍にいると、肝心なことが見えなくなった。先輩の為に何かしようとして、でも空回りして、余計なことも言ったりして、先輩をがっかりさせたり機嫌を損ねたりしていた。

 俺は早坂先輩のことがちゃんと見えていない。

 二年近い付き合いなのに、まだ見えない。

 もちろんこの期に及んで、そんなことも言ってられなかった。今こそ真っ直ぐ見なくちゃいけない。


 沈黙を恐れ、俺は無理やり口を開いた。

「先輩、あのっ」

 声が裏返った、格好悪い。

 でも聞こえるように声を出した。背中もしゃきっと伸ばして告げた。

「ご、ご卒業、おめでとうございます!」

 不格好な声は部室の壁にぶつかって、廊下まで跳ね返って響く。

「ありがとう」

 早坂先輩が、戸口から部室の中に一歩踏み込んだ。その後で俺に、ぎこちなく会釈をしてくれた。長い髪が動作の度に揺れる。

「君にお祝いしてもらえるのが何より嬉しいです」

 後ろ手でドアを閉めてから、大きな瞳がまた俺の方を向く。午後の光がちらちら揺れる、ほとんど瞬きをしない先輩の瞳。

 俺は真っ直ぐに見つめ返して続けた。

「それと大学受験合格も、おめでとうございます」

「うん……」

 それには先輩は、曖昧に頷くだけだ。

 そして視線を俺の肩越しに、部室の窓の外へと投げる。

「私、ついに卒業しちゃうんだなあ」

 そう言った時、早坂先輩は思ったよりも穏やかな表情をしていた。

 俺と一度視線を合わせて、ぎくしゃくしながらも微かに笑うと、視線を外す。

 そしてもっと顔を上げて、部室内を見回す。ゆっくりと、懐かしむように。

 呟きに聞こえた。

「私、やっぱりまだ実感ないんだ。また明日、学校に来なきゃいけないみたいな気がしてるの。学校に来て、クラスの友達と会って、勉強して、先生の話を聞いて……明日もまた、そんな風に過ごせるような気がしてならないの」

 午後の陽がちらちら揺れている。

 先輩の瞳の中と、部室のつるっとした床の上で。

「でも、ここは違ったかな」

 そう言って、先輩はもう一度笑う。

「部活は、違うね。引退したら居心地変わっちゃうのはしょうがないね。新しい部長さんは頑張り屋さんで、旧部長の出番は全然ないし、あっさり世代交代できちゃうものなんだなあって、感心しちゃった」

 首を竦める先輩の口調は軽い。

 だけどその言葉に俺はクリスマスイブのことを思い出して、落ち着かない気持ちを募らせる。

「だから私、焦ってたの。予感はしてたけど、こうもあっさり旧部長の影が薄くなってしまうと、そのうち私のことも忘れられちゃうんじゃないかって思って。私の存在が薄くなって、遠くなってしまって、しまいには消えてなくなっちゃうんじゃないかって、不安になったの」

 そう語る早坂先輩は、今は目の前にいる。

 一歩踏み出せば触れられるくらい近くに、いる。


 俺は、そんな先輩がかつて語った言葉を蘇らせていた。

 楽しい瞬間も幸せな時間も、写真に残せばいつでも振り返って、味わい返すことができる――。

 消えてしまうことなんてない。思い出に残っていれば。

 忘れてしまうこともない。写真に残しておけば。

 そうして早坂先輩が捉えた思い出たちがあの写真の中に残り、今は俺の胸にある。


「写真のこと、ようやくわかりましたよ」

 一息ついてから、俺は切り出した。

 途端に早坂先輩の顔がきゅっと歪んで、すぐに無理やり作ったような笑顔になる。

「わか……っちゃいましたか、とうとう」

「はい。気づくの遅くてすみません」

 俺が詫びると、先輩は困ったように視線を泳がせた。

「それ、どう答えていいのかわからないです。遅いのは確かにとても遅かったですけど」

「す、すみません……」

「でも、清田くんに必ずしも気づかなきゃいけない義務はないですし」

 それもそうだろう。


 あらゆる人の言葉、あるいは態度について、その真意を汲み取って理解して動いてあげる義務なんて誰にもない。俺みたいな馬鹿で鈍くてぼんやりした奴は、そうやってこれまでいろんな人の気持ちを見過ごしてきたのかもしれない。

 でも、俺にとって早坂先輩は特別な人だ。

 他の誰を差し置いても、誰をスルーしたとしても、先輩のことだけは気づいて、理解して、先輩の為に動きたい。何より俺がそうしたいと思っている。


「いい写真でした、とても」

 俺は先輩に訴えた。

「どの思い出も、俺、ちゃんと覚えてます。先輩にみかんを剥いてあげたことも、寄り道してあんまんを買い食いしたことも、わたあめを届けに行ったことも、コンビニまで一緒に買い出しに出かけたことも――」

 全部、覚えてた。

 全部、大切な思い出だった。

「先輩もそれをいい思い出だと思ってくれてるなら、俺、すごく嬉しいです」

「……もちろんです」

 早坂先輩が頷く。

 微かに目を潤ませながら言った。

「いい思い出でした。高校生活の中で一番って言ってもいいくらい」

 それから先輩はゆっくりと俯く。

「私、『先輩』じゃだめだって思ってた」

 きれいな髪が一房、肩から落ちた。

「君にとって、先輩っていうだけの私だったらだめだって。そのうちに忘れられちゃうって思った。『先輩』以外の存在になりたかった。そうして、もっと君の傍にいられたら、部活以外でも、この場所じゃなくても、普通に一緒にいられるようになれたらいいなって思ったの」

 あの時の言葉は、そういう意味だったのか。

 理解した途端に俺はいたたまれなくなって、胸が痛んだ。

 どうしてあの時、わからなかったんだろう――先輩でいたくない、そう言ってもらった時、すぐの理解できてたらよかったのに。

「私……」

 早坂先輩の声がかすれて聞こえた。

「高校三年間の思い出、振り返ってみたら、二年分しかないような気がするんです。全部ここでの思い出。写真部で、清田くんと一緒に過ごした思い出ばかり残ってるの。君のことで全部みたいに、いろんなことを覚えてて、目を閉じたらすぐに浮かんできて、忘れられそうになくて」


 同じだ。

 俺も同じで、高校に入ってからの思い出はほとんどが早坂先輩のことだった。

 全部と言ってしまってもいいくらいかもしれない。

 先輩がいたから、写真部に入ろうって決めた。先輩がいるから、毎日のように顔を出した。先輩と一緒だからどんな時でも頑張れたし、新部長になろうとさえ思った。

 そのくらい、どうしようもないくらい、先輩のことが好きだった。


「だけど、私、好きになり過ぎてたのかな……」

 早坂先輩が、そこで肩を震わせた。

 クリスマスイブの時と同じように、言葉が急にたどたどしくなる。

「もしだめだったらって思ったら、たちまち何も言えなくなった。素直に言えばいいだけなのに、そうできなくて、わざと遠回しに言ってみたりして――」

 でも、今日は泣かせない。

 先輩には笑っていてもらいたい。

 それで俺は、先輩の言葉を遮るように告げた。

「俺も!」

 胸を張って告げた。

「俺も文化祭で思い出の写真を撮ったんです! 全部、早坂先輩との思い出です!」

 それはなぜか、長々と説明するまでもない。

 急がなければいけない。はっと顔を上げた先輩の目から、涙が零れ落ちる前に。

「俺も――先輩が好きです!」

 最大限の声でそう告げた。


 春夏秋冬。くしくも先輩と同じテーマになったあの四枚の写真には、思い出が残されていた。

 思い出しかなかった。

 早坂先輩と一緒に過ごした時間、そのものしか。

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