ザルバッハの怪物
しとしと、しとしとと降る雨の夜。冷たい空気に急かされて、女が入ったのは酒屋だった。
表通りに人影は無く、かと言って暖かなその店にも人が集まる様子は無い。くたびれた様子の男主人が皿を拭きながら、女を一瞥する。雨に塗れたコートの雫を払う姿に舌打ちすると、カウンターにタオルを置いた。
女は礼を言ってそれを受け取る。他の客と言えば、疲れたように机のランプを見ながら酒をちびりと飲む鷲鼻の男が居るだけだ。
「食いもんはないよ」
主人の言葉に女は落胆しつつも、構わないとだけ言った。全身が黒ずくめの女は妙に背が高く、がっしりとした体躯の為、男だと思い込んでいた店の主人は驚いたようだ。
女の前に安物の酒瓶を置くあたり、ぶっきらぼうな態度に見せて相当なお人好しなのだと女は分析した。窓を打つ小さな雨音すらも響く室内で、女は空きっ腹を押さえ込むように酒を飲む。
良い飲みっぷりだなあ、と、先程までランプを眺めていた男は笑った。女は口元だけに浮かべた笑みで返して、またグラスに酒を注ぐ。
男はしばらく女の背を眺めていたが、やがて席を立つとその右隣に座った。何も言わずにこちらに来た彼を歓迎するように、女はそのグラスに酒を注ぎ足してやる。
「ああ、すまないね。アンタ、よそもんだろう。よそもんがこの町に何の用だい?」
「なあに、ただ立ち寄っただけさ」
「女が、一人でかい?」
不躾に体を見る男に、女は肩を竦めた。そこらの男よりも良い体格だ。これならば、一人旅でも道さえ違わなければそうそう襲われる事も無いだろう。
男は一人旅の理由は聞くまいとしながらも、主人に目を向けてにたりと笑った。
「アンタ、面白い事は好きかい。好きなはずだろう、わざわざ、旅なんてすんならよ」
「何か、面白い事があるって様子だね」
町の様子から面白みもない場所だと踏んだのだろう、女の言葉に男は顔をしかめた。
――面白いなんてえモンじゃあねえ。恐ろしい事さ。
グラスを煽った男に、その続きを催促するように女がグラスに酒を注いだ。それを受けて、今度は礼を言わずに、窓を見る男。しとしとと降っていた雨は、激しい音へと変わり始めていた。
「こんな夜には、〝奴〟が来るのさ」
「奴? 誰だい?」
拭いた皿を並べながら、呟いた主人に女は驚いたようだった。顎で男を示して並べた皿を手に店の奥へ行ってしまった主人に鼻を鳴らして、女は続きを話すようにと直接催促した。
男は、はっとしたように顔をこちらに向けて頷くと、語り始めたのだった。
〝奴〟が現れたのは、やはり今みたいな夜だったのさ。
しとしとと降る雨、何のこたあねえ、嫌な天気。日が沈む前から、お空の奥に黒々とした塊があったから、そうら、もう大降りになるぞって皆、家に閉じ篭もったんだ。
でもよ、そういう雨だとわくわくしちまうような奴だっているもんさ。ここの向かいにある、ほら、そこだ。窓から見える、あの明かりの無い家。あそこに住むゴドフリーって野郎の倅もそうだったよ。
皆が消えた町に繰り出して、きっとまた、何か悪さをしようと思ったんだろう。爺しかいねえ家畜小屋に向かったんだ。戸を開けて、豚やら牛やら、みぃーんな、逃がそうとしたんだろうな。
けどよ、そうはならなかった。爺は耳が遠くて気づかなかったんだろう。雨も強くて雷まで鳴ってたから。ぴかぴか、ぴかぴかよ。
気づいたのは家畜小屋から何軒も離れたオルリッジって娘さ。身の毛もよだつようなおぞましい声を聞いて、〝悪魔よ、悪魔がやって来たんだわ!〟、なんて騒いでた。
朝にゃあよ、悪魔なんて居るわけがないって意気込んだオルリッジの親父さんが見つけちまったんだよ、爺の家畜小屋の上にばらまかれた、あの可哀想な子供をよ。その、恐怖に引き攣った顔! きっとオルリッジが聞いた声は、あのガキの声だったんだろうな。
当然、疑われたのは爺だった。何度も警察や、町の職員から取調べを受けたんだ。いつもあのガキに悪さをされてたから、恨んでいたんじゃないかって。あいつの潔白を証明するものはなかったが、でも、あの老いぼれがゴドフリーの倅をばらばらに引き裂ける程の力は無いって事も、証明出来ちまった。
だから、町の皆は恐れたのさ。こんな小さな片田舎の町に、とんでもない殺人鬼がやって来ちまった、てな。
それからは皆が家に引きこもるようになっちまった。子供たちは離れた学校から、この町に着いたら走って家に入っちまうんだ、鼠が逃げるようで面白かったぜ。町の外の道より、町の中を怖がってんだから、笑っちまうよ。
でも、特にあれ以降、なにもなかったんだ。だから皆、もうあの殺人鬼はどっかに行っちまったんだって、ほっとしてたのさ。
でも、そうじゃなかった。〝奴〟は、雨を待ってるんだ。ずっと、ずぅーっと。
次の雨の日は、とんでもない嵐でよ。家が四つは潰れちまったんだ。他にも屋根が飛ばされた家だけでも十はあったし、窓が割れた戸が倒れたなんて十じゃきかなかったよ。
町の皆で修理しあったものさ。あの時はまだ人が居たし、皆、元気があったからな。そしたら、家の修理をしている俺らに、パンを持って回っていた子が、血塗れになって吹っ飛んできたんだよ。
どうした、何があった、俺は聞いたね。そしたらよう、〝分からない、わからないけどヘイパーズさんが落ちてた。ヘイパーズさんだけど分からないんだ〟、何て、言うんだよ。
俺らは顔を見合わせて、その子をお家に帰らせてすぐにヘイパーズの所に走って行ったよ。あいつだけは家が壊れていないし、偏屈な奴だったから手伝いにも来ないんだろうって、悪口を言っていたんだがな。
あいつは、家の前で、ああ、神よ! ……何て惨い事を……。
あいつは、多分、家の戸が飛ぶかもしれないって、補強しようとしてたんだろう、打ち付けられている途中の板があった。あの坊やは近道に、あの家の裏を通って見てしまったんだ。生皮を剥がされて自分の腸を食わされているヘイパーズを!
顔だけはそのままだった、なのに、ああ、ケダモノめ! ヘイパーズの生皮を剥いだだけじゃなくまだ生きているヘイパーズに〝奴〟は、あのお腹を捌いて、どろりと零れた内臓を食わせやがったんだ。
人間の所業じゃない。
それからも〝奴〟は雨になると現れた。ただの雨の日じゃない、日が沈む時にやってくる、そんな雨の日だ。隣の家のクロウズ夫妻も、雨の日に猫が逃げちまったもんだから、それを追いかけて……ああ、可哀想に、縛り上げられて、猫を殺すのを見せ付けながら〝奴〟はあの二人を……。
それだけじゃない、そこのモンタナだって、まだ十にもなっていなかった。なのに行方不明になったママを探すんだって外に出ちまうもんだから、〝ママ、ママ、どこなの。助けて!〟そう言いながら、殺されちまったんだ。手を切り取られて。
エイルだって、ミンスだって、コルベロックのガキも、俺の妻なんて頭を持ってかれちまった!
皆、みぃーんな、〝奴〟に殺られちまったのさ。だからもう、いつも葬式の日のように、町は静まり返っている。外に逃げてった奴もいるが、町に残っている奴らは知っていたんだ。
雨の日でも、外にさえ出なきゃあ、何にもされない、何もやられやしないって。
「だから雨の日は、外に出ちゃあ、いけねえ。雨の日は〝奴〟が来るんだ、決して、外に出ちゃあなんねえよ」
語り終えて、グラスの中身を飲み干す男を女は黙って見つめていた。
ランプの炎が揺れて、女の影がカウンターで大きく揺れる。女は、窓を叩く雨がまるで、外に出て来いとこちらを呼ぶように何者かが窓を叩く音にすら聞こえた。
冷えた体に、酒が飲み足りないかと身震いする。女は男のグラスに酒を注ぎ、次いで自分のグラスにも酒瓶を傾けながら、気になる事があると男に目を向ける。
「〝奴〟は、何だって雨の日を選ぶんだろうね」
「そりゃあ、そうだな。激しい雨の日じゃあ、やっぱり見つかり辛いからじゃあ無いのかい?
……ふふふ、アンタみたいなよそもんが流れ着いても、雨がぜぇーんぶ、洗い流しちまうからなのかも知れねえなぁ」
ちびり、と酒を飲む男に、女は笑う。
まだ、気になる事があると女が男の手に、その体躯からすると随分と小さな自分の手を重ねると、男は気を良くしたように顔を和らげた。
「お前さん、どうしてゴドフリーの子供が叫んだって分かったんだい? 例の殺人鬼が叫んだのかも知れないじゃないか」
「どうしてって、そりゃあ……何でかな、俺はそんな事、言ったのかい?」
「言ったよ、それだけじゃないさ。お前さん、ヘイパーズが生きているのに腸を食わされていたって言ってたね。何で知ってるんだい、まるで見ていたようにさ」
「……何で、って、そりゃあ……」
俯く男に、女は言葉を重ねた。
――クロウズ夫妻、まるでそこに居たようだったね。猫を殺してやるのを見せ付けていただなんて……逆かどうかも、わからないのに。
――モンタナだってそうさ。まるでその言葉、すぐ側で聞いていたようじゃないか。人殺ししか聞いていないはずの言葉をさ。
優しく、手を撫でると男はその手を振り払った。女は愉快そうに笑って、指を突きつける。
「極めつけは、お前さんさ。何で、外に出ちゃいけない日に、外に出ているんだい?」
「…………」
風が、吹き始めた。
窓ががたがたと音をたて、激しい雨音は間断なく続いている。二人の間には沈黙が落ちて、女は詰まらなさそうにグラスを持ち上げた。
男は、グラスを煽ると、一呼吸置いた。
「ご馳走様だ、名推理のお嬢さん。俺はこれで失礼するよ」
カウンターにしわくちゃの紙幣を置いて、男が席を立つ。女がそれを見送ろうと席を立った時、不意にその肩に手が置かれた。
ぐい、と力強く引かれた手にカウンターの上に仰向けに倒れると、豚の皮を被った何者かがそこに居た。
「おおおおおおおおおおおおお……――あいたっ」
雄叫びを上げたそれに、しかし女は目を細め、鬱陶しいとばかりに小さな手でそれを無造作に退かす。
豚面が人語を話すと、店の出口で堪えきれずに男が笑う。豚面は女から離れて、しょんぼりとした様子で豚の皮を取った。店の男主人だ。
「よっぽど肝が据わるお嬢さんのようだ。俺はランバート、刑事だ」
「よっぽど風紀を乱したいようね刑事殿。お友達と一緒に、いつもよそものを脅かしてるのか」
女の呆れた様子を豪快に笑い飛ばす。
刑事の弁では、この時期はいつも人がおらず、寂れた雰囲気に驚く人も多い。この季節にやってくる台風は強力で、町の人間は近くの町の修繕に出ているのだ。泊りがけの力仕事に男手のほとんどは消え、女ばかりになる。そしてこの雨では、子供もいる間は外になど出ないだろう。
そこで刑事は男主人とよそものが来るか来ないかで賭けを楽しみながら、来れば今のような小芝居を楽しんでいるのだ。
「本当なら俺はここを出て、正体を現したこいつからお嬢さんを助ける手筈だったんだが……怖がらせようとして失敗しちまったな……」
「それは残念。こんな大女でよろしければいつでも、と言いたい所だけど、そんなコスい手を使うんじゃあね」
「ははははは、こいつは手厳しい!」
刑事に合わせて男主人も笑ったが、時計を見てそろそろ閉店だと言う。
まだまだ良い時間だろうと刑事は粘ろうとしたが、熱があるのか具合が悪いと、二人を帰そうとお代を催促する。女は構わないと紙幣を渡し、代わりとばかりに主人は近くにある宿屋の場所を告げた。女はそれと今夜の小話の礼を言い、店の外へ出た。
もう、雨は収まりつつある。女が町へ来た時と同じように、しとしと、しとしとと降る雨が背筋を震わせる。痛む節々に女は白い息を吐いて宿屋を目指した。
その後を追う刑事ランバートは、自分の家で飲まないか、宿賃も浮くぞと声をかける。
待ってましたとばかりに満面の笑みで振り返った女に、刑事は、自分が誘うであろうと見切りをつけて素っ気ない態度を見せたのだと、その考えに気づいてほぞを噛む。
しかし、誘ってしまえばこちらのもの。
小雨に傘も差さず、刑事は女と並び立つ。それにしても大きい、刑事よりは頭ひとつもふたつも背が高かった。
雨に濡れた自慢の鼻を拭って、思わずくしゃみをする刑事へ女は笑う。
――所でさっきの話、随分と悪趣味だったねえ。
女の言葉に、刑事は鼻を鳴らした。これは作り話などではない、本当の話だと。
事件はこの町で起きた訳ではないのだが、このザルバッハと呼ばれる地のそこかしこで起きたものだ。犯人は未だに捕まっておらず、自分の痕跡を消す為に雨の中を出歩く殺人者を刑事は憎んでいた。
同じ程に雨が憎いと刑事は唸る。人も出歩かないこんな夜では、〝奴〟が目撃される事も無いのだと。
「同じだねえ、こんな雨、大嫌いさ。こんな日は体中が痛くなっちまう」
「神経痛か、何か、かい?」
「傷だよ。古いもんもありゃあ、新しいもんもある。特に今日は、手が痛いねえ」
女は言うと、自分の手首を擦った。刑事はその体躯を活かして、拳闘でもやっていたのだろうかと首を傾げた。
見れば見るほど恵まれた立派な体は、男でも嫉妬してしまう程だった。女は男の視線に微笑むと、こんな殺人鬼の出る夜に出歩いて、大丈夫なのかと刑事に問う。刑事もまたつられるように笑って、出てきてくれれば大金星だと懐から拳銃の握りを見せた。
「雨の日にやって来る怪人か。お前さん、それが私だとは思わないのかい?」
「はっはっは、それならいいさ、すぐにお縄だ。けどなあ、赤い湯を張った風呂場みてえな〝奴〟の遊び場にある手足の、血で真っ赤に染まった手足の跡はな、とても大きいのさ。あんたの小さな手じゃ、合わねえよ」
刑事の言葉に、女は酒屋とは違って鋭い事だと肩を竦めた。そうではないのだ、ただ知っている情報が多いだけさと刑事は笑う。
女も笑って、その刑事の手を見る。歳相応のごつごつとして、ひび割れた岩のような大きな手は、あるいは刑事の体躯に似合わない大きな手にも見えた。
「んん、俺の手かい。そうだ、大きいだろう。
……さっきの話の続きなら、俺が〝奴〟って事になるんだがね……ついて来るのかい?」
不適に哂う刑事の顔は、滴に塗れて汚れて見えた。しかし女はその顔を見る事無く、手だけを見て頷くのだ。
――そうさ、ついて行くさ。だって、その手に見惚れたんだから。
気分を良くして笑う刑事。二人は雨が再び強くなり始めた町に、身を寄り添いあって影の中、溶け消えて行くのだった。
霜月透子様主催【ヒヤゾク企画】参加作品、四作品目となります。
もはや種切れですが、最終日にはもう一作でも投稿してみたいですね。
ご読了、ありがとうございました。






