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03


 大きな口、鋭利な歯、生温かい吐息、飢餓感に溢れる瞳。


 そう。この獣は飢えに満ちている。


 たらりと涎が零れ落ち、私の顔を濡らす。

 生温かい唾液の気持ち悪い感覚に、思わず目をつぶってしまうけど、すぐに無理やり大きく見開いた。


 だって、自分の“最後”から逃げ出したくなかったから。


 また新しい涎が頬に落ちてきたけど、もう目は閉じなかった。

 それを見て、美しい銀狼と化した男が何を思ったかは分からない。

 ただ、目元を緩ませた。

 次に、赤い舌を出してペロリと私の顔を舐めてくるので、ぞわっと全身が粟立つ。

 怖い。今までも、死の間際に立った事はあるけど、この絶対的な恐怖はなんだろう?

 でも、青とも緑とも判断付かない神秘的な瞳と目が合った時、なんとなく分かったような気がした。

 この狼男自体が、絶対的な存在なのだ。

 恐怖そのもの。そんな存在が私を捉え、食そうとしている。


 ――いや、止めて。


 声を出そうとして、私は歯がかみ合わない事に気づいた。

 震えているのだ。小刻みに体全体が。

 そんな私の様子を見て、狼男は笑うような顔を作ると、頬をもう一舐めしてきた。

 更に反対側からもう一舐め。離した後も、味わうかのように舌なめずりする。

 その様子が、獣のくせにまた妙に色っぽく見えて私はこんな状況にも関わらず、魅入ってしまったけど、すぐにそんなの吹き飛んでいく。


 何故なら、私の両手を地に縫い付ける力が一際強くなり、両足の上に下半身をどしりと乗せられ、背を反るように顔を空に上げたかと思うと、奴が満月に向かって高く遠吠えをしたから。

 本当に、月に向かって遠吠えするんだって、感心する余裕はやっぱりない。

 だって、次の瞬間に大きく開いた口を私に向けたから。その先は、私の細い首筋。

 さっきの勇気はどこへやらで、私は目をつぶって来るであろう痛みに備え、ぎゅっと体を強張らせる。この間、僅か数秒なんだろうけど、永遠のように長く思えた。


 その、永遠でいながら僅かな瞬間、空を切るような刹那的な音が聞こえてきた。


 突如、体が軽くなる。


 体の上に圧し掛かっていた獣が横に飛んだかと思うと、すぐ側の塀の上に飛び乗ったのだ。

 一方、私はと言うと、疾風かのような速さで体が何かにすっぽりと収まり、倒された場所から軽く十メートルは離れた場所に移動していた。

 先程まで私が押し倒されていた場所に、何か白いものが見える。

 目を凝らして見れば、それは人型に切られた薄い白紙だったんだけど、まるで鋭利な刃物のようにコンクリートの道路に何枚も刺さっていた。と思うと、次の瞬間にはくしゃりと折れ曲がってしまう。

 その先には、同様の紙を幾枚も手に持った竹蔵の姿があった。

 私と目が合うと、安心させるように笑顔を作る。


 竹蔵の笑顔は好き。

 とっても安心するの。ほっとして、私の口もついほころんだ。

 でも、すぐに強張ってしまった。

 何故なら、塀に飛び乗った狼男が再び遠吠えすると、首をうねって私を鋭く睨んできたからだ。

 相変わらず、嫌悪と怒りに満ちた瞳で。

 本能的に感じる恐怖ゆえか、身を守ろうと私は体を縮こませる。


 同時に、竹蔵の手から紙が意志を持った生き物かのように飛び出し、空を裂き、狼男に襲い掛かるものの僅かな毛先を切っただけだった。

 狼男がひらりと身を躍らせ、塀の向こうに消えてしまう。

 彼がいた塀に突き刺さった紙がまたくしゃりと形を変え、地面には銀色の毛がぱらりと落ちた。

 一瞬、竹蔵は追いかけるような動作をしたけど、すぐに思いなおしたようで、こちらにゆっくり近づいてきた。

 つい先程まで、狼男に向けていて鋭さは一切消え、優しさしかない瞳で柔らかく微笑む。


「琴。もう大丈夫だよ」


 竹蔵の笑顔は好き。だけど、もう笑い返すことが出来なかった。

 怖くて、怖くて、今にも涙が出そうで仕方なかった。

 まだ、心臓がバクバクしている。もう、これ聞こえてんじゃないの? それぐらい、激しく鳴っている。


「――琴子。僕の大切な人」


 すぐ耳元で、子供の頃から慣れ親しんだ声が聞こえてきた。


「もう大丈夫。僕が来たからには、誰にも君を傷つけさせたりしないよ」

「……シオン」


 私は手を伸ばして、シオンの頬に触れる。

 とっても冷たいはずなのに、いわゆるお姫様抱っこで私を横抱きにして抱っこする男は、いつだって私を太陽みたいに温かく包み込んでくれる人だった。

 こうして抱かれていると、嵐の中でだって決して揺れる事がない小船に乗っているみたい。


「泣かないで。君が悲しいと、僕も悲しい」


 シオンの顔が痛ましそうに歪んだ。

 そう言われて、初めて自分が泣いている事に気づいた。


「……あれ?」


 涙に濡れた頬に触って、私は不思議に思う。

 今までだって、沢山危険な目にはあってきたのに、今日に限ってこんな風に泣くなんて。

 すっかり、不運体質に慣れてしまった私は結構な場数を踏んでいる。そんじょそこらの事態じゃ泣いたりしないのだ。

 だけど、涙は留めもなく流れ落ち、どうすることも出来ない。

 だって、怖かったのとっても、とっても怖かった。本当に死ぬかと思った。

 大抵の事じゃ滅多に動じない私でも、あいつはマジでやばかったんだ。


 竹蔵とシオンが来てくれて良かった。本当に良かった。


「ありがと……」


 私とシオンの側までやって来た竹蔵に震える声でお礼を言うと、無言で頭をぐりぐりと撫でられた。


「シオンもありがとう」


 広い肩幅に頭をつけると、冷たいけど私にとっては温かいキスが額に落とされた。


 途端に、私はシオンの首にしがみつき子供みたいに泣きじゃくる。

 この涙は、さっき竹蔵の部屋で泣いたのとは違う。

 もっと本気泣き。自分でもどうする事ができない。こんな風に泣くなんて、本当子供の頃以来。

 シオンが私を抱えなおして静かに歩き出す。

 その隣を、竹蔵が注意深く周囲に目を走らせながら付いて来る。シオンもそうだ。分かってるんだね。また、あいつが来るって。


 ――うん。あいつはまた来る。絶対にまた来る。


 私は泣きながら、決して揺らぐ事がない予感が感じていた。

 そして、この恐怖の源も理解する。

 泣かない訳にはいられないのだ。

 だって、あんな風に憎まれたのは初めてだもの。あいつは私を嫌いだ。憎んでいる。生きている事さえ耐えられないに違いない。

 怖いよ。お母さん、お父さん、怖いよ。でも、二人はもういない。だから、私は言う。


「……シオン、怖いよ」


 私が涙で濡れる顔を上げて言うと、シオンが足を止めた。


「琴子。君は僕の花嫁」


 シオンが絶対的な確信を込めて言う。


「誰にも君を傷つけさせたりしない。指一本触れる事だって許さない。特に、あの犬っころにはね」


 顔を近づけ、私の額にコツンと自分の額を当てるので、鼻と鼻が当たりそうになる。

 抱きしめる力も一層強くなったので、私もついシオンの首に回した腕の力を強くした。


「君が感じるのは喜びだけでいい。……恐怖に怯える姿も小兎のようで可愛いけどね」


 すぐ至近距離で甘い笑みが作られる。


「でも、君に涙は似合わない。琴子。君の笑顔はね、砂糖菓子みたいで本当に甘くて可愛いんだ。今すぐにでも食べたくなるぐらい」


 実際、食むように私の頬にキスをしていくので、くすぐったくてつい笑みがこぼれてしまった。


「……そう。その笑顔」


 シオンがこれ以上ないほど幸せそうな顔をする。

 私の笑顔の一つや二つで、シオンがそんなに喜んでくれるなら、幾らでも笑ってあげたくなってしまう。


「そうやって、いつも笑ってて。僕の凍った心を溶かしてくれるんだ。君の愛らしい笑顔を見ていると、もう何百年も前に止まった心臓が動き出しそうな錯覚さえする」


 ほうっと甘い息を漏らし、今度は頬擦りをしてきた。


「もし、泣くとしてもどうか僕の胸の中にして。喜びも悲しみも僕だけのものに。泣かしてあげるよ。僕の腕の中で歓喜の涙を。涙も声も枯れるぐらい、鳴かしてあげよう。何度も、何度も。君が望むなら永遠に。……君が相手なら、本当に永久にし続けられそうだ」


 私の背中をつーっと冷たい汗が伝う。一気に冷静になる。


 シオンの目がマジなのだ。本気と書いて、マジ。

 え~っと、止めて。

 だんだん発言が、ヤバイ感じになってきてるよ。

 

 恐怖。先程とは違う恐怖が今度は出てきた。

 逃げようにも私の体はあるべき場所に収まっているかのように、シオンの腕の中だ。まるで、私専用に作られたドレスみたいにピッタリ。そして、再び恐怖。

 もうキスしかないだろ? っていうぐらい、シオンが私に顔を近づけてきたのだ。

 しかし、一瞬何かに気づいたかのようにシオンが固まったかと思うと、瞳に溢れていた甘さが一気に怒りへと変わる。

 おおいっ、お次は何だ? まったく読めない奴だぜ。


「……あの犬畜生」


 愕然としたように、シオンが口を半開きにする。


「ど、どうした――、ふあっ。あ、あん!?」


 何事かと聞こうとする私の口を、シオンの口が覆う。

 逃げようにも未だに抱きかかえられたままだし、シオンは器用にも片腕で私の体を抱え、もう片方の手で私の頭をがっちり押さえ込んできた。

 キスもより深くなる。身長差も体格差もあるのだ。

 こうなったら、私は好きにされるしかない。

 散々、口内を蹂躙された後、ようやくシオンが顔を離した。

 二人の間を透明な糸が繋ぎ、切れる。私の顎に張り付いたそれを、シオンがゆっくりと舐め取り、次いで自分の唇を舐めた。

 近所の奥様方の気持ちも分かる。私を見つめるシオンの表情はとんでもなく色っぽくて、その陰に静かな怒りが燃えていた。


「琴子、あの犬にされたんだね?」

「えっ? ……えっと」


 分かる。今度は分かる。シオンが何に対して怒っているか。

 あの狼男が私にキスしたことがバレたのだ。

 ご愁傷様。狼男、あんた間違いなく殺されるよ。


「……僕が綺麗に消毒してあげよう」


 シオンの口がキュッと結ばれたかと思うと、再び私の口に重なった。

 いや、十分。もう十分、さっきされましたから!! 

 でも、私の主張は声にならず、なんだか甘い音になって変換されて出てきた。

 シオンも触発されたのか、より激しく、濃厚なものになってきた。

 ん、んん? 狼男にされたものより、最初にされたものより、ずっと甘くて良い。

 こちらの反応を伺うような気遣いも感じられ、私に合わせてシオンの口と舌も動く。


 ……この大人のキスは好き。キスってこんなに良いものなんだ。


 私はうっとり夢心地になってしまう。

 自らもっと欲しくなって、シオンの頭に手を入れて求めてしまう。

 私がおずおずと舌を動かすと、シオンが一瞬驚いたように動きを止めた後、すぐに優しく導いてきてくれた。

 嬉しくって、私は夢中になって動かした。初めての経験にのめり込んで没頭していると、シオンが呻き声を上げながら顔を離そうとする。


「……琴子。駄目だ! これ以上……は、我慢できそうにない」 


 息も切れ切れに言う顔がまた色っぽい。

 でも、せっかく与えられた快楽が中断され事に腹が立ち、私はシオンの言葉を無視して自分からキスしようとするが止められてしまう。


「駄目! 琴子、駄目だよ。生身の君を傷つけたくないんだ!」


 シオンのもしかしたら初めて見たかもしれない、困った顔は少年みたいで可愛かった。


「それに、ここは外だ。誰に見られるか……。せめて、家に入ろう」

 

 その言葉に、私は一気に絶対零度まで下がる。


「竹蔵も呆れたみたいで、帰ってしまったよ」


 この言葉に、私のボルテージが最高潮点に達する。


 私はシオンに抱っこされたまま、真っ赤になって周囲を見回す。


 幸いな事に誰もいない。

 いつの間にか家の前まで来ていたみたいで、私とシオンのスイートホーム、瀟洒な一軒家に続く小道が窓からもれる光りに照らされていた。

 うん。私とシオンの近所には他の家は建っていないので、誰にも見られていないだろうし、通行人もいなかっただろう。でも、竹蔵には見られた。


「……いっ、いつ竹蔵は……帰った、の?」


 震える声で尋ねるも、シオンの答えはハッキリしない。


「いつだろうね? でも、二度目のキスをした時はまだいた気配があったよ」


 そして、私から積極的にキスする姿も見られていたんだろうか? 


 申し訳ない。

 せっかく、警戒して家まで送ってくれたというのに、私はなんという醜態を晒したというのだ!? 

 恥ずかしいってもんじゃない。

 もう、合わせる顔がない。穴があったら入りたい。死にたい。いっそ殺してくれ。


 ゆでだこのように真っ赤になってシオンの肩に顔を埋める私に何か勘違いしたのか、シオンが甘い声で耳元に囁いてきた。


「でも嬉しいよ、琴子。ようやく君から求めてくれた。……積極的な君も刺激的で素敵だ。もっと……、もっと色んなことを教えてあげるよ」


 そして、耳たぶをカプリと噛む。


「ひゃんっ!?」


 おもわず背中を反らして叫ぶ私の耳たぶを口に含んだまま、尚も言う。


「もっと気持ちよくさせてあげるからね」


 シオンの長い指が、私の背中をピアノの鍵盤でも弾くかのように滑らかに動き、上へと這っていく。

 ゾクゾクするような快感が波のように押し寄せてきて、私はシオンとの間に隙間が出来ないようにピタリと抱きついてしまった。


「でも、誕生日までお預けだ」


 首筋を撫でながら意地悪そうに言った後、焦らすように耳たぶをゆっくり引っ張られてから、ようやく顔が離された。

 それでいいはずなのに、私はミルクをねだる子猫のように頭をこすり付けてしまう。

 そんな私の反応に、シオンは満足したかのように笑み、出来の良い生徒を褒めるように頭を撫でながら、ようやく家に向かって歩き始めた。


「……ああ、十六歳の誕生日が待ちきれないよ。君もそうだろう? 琴子。僕の可愛い花嫁」


 分かんない。分かんないよ。


 でも、シオンといると安心するのは確かなの。子供の頃からずっと一緒だったんだもん。

 もう、本当の両親よりもずっと近い場所にいる人だ。

 この人と離れるなんて想像出来ない。

 それ以外の未来なんてあるのかな? シオンといれば、私みたいな体質の人間でも幸せになれる?



 いっくら、ぐるぐる考えても答えは出ない。



 その夜。ぐるぐる悩み続ける私と幸せ一杯なシオンが家の中に入っていく姿を暗闇からじっと見つめていた青緑色の瞳があった事を誰も知らない。

 そいつは、私とシオンのキスを最初から最後までもずっと見ていた訳なんだけど、それを私が知るのはまだずっと先の事。



 長くなるから、詳しい話はまた今度ね。




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