18
今までの人生観をくつがえる衝撃の事実。でも、思い返せば確かに腑に落ちる事がいくつもある事に私は気づいていた。
普通じゃ有り得ないようなトラブルに巻き込まれ続けたおかげで、その事ばかりに意識がいっていたけど、私はその都度奇跡と言っていいほどの幸運に恵まれてきたんだ。
ぺろり。
呆然とし続ける私の唇に濡れた感触が一瞬かすめる。
「……狼男」
「大丈夫か」
またぺろりと、狼男が今度は自分の口を舐める。
牙だらけの大きな口を今はもう怖いとは思わない。私は何故か涙ぐみ、狼男のおでこを撫で、気持ち良さそうに目を閉じる彼に聞く。
「ねえ」
「なんだ?」
「名前、教えて」
狼男が目を開け、私を見る。
「名前、教えてよ」
私は軽く首をかしげ微笑みながら、再度言う。
「ずっと、狼男じゃ変だよ。お礼もちゃんと言えない」
「……礼など必要ない」
逃げるように視線を反らし、素っ気無く言う様子を私は彼特有の照れだと解釈していっそう大きく笑ってしまったのだけど、それは違った。
「名前、忘れちゃったのよねえ」
能天気な声音とその内容に、私はハッと顔を上げる。
「可哀想ぅ。この子、自分の名前忘れちゃったのよ。きゃはっ!」
魔女がさもおかしそうに笑う。
「……何、それ」
自分でも、声が強張っているのが分かる。何故か、狼男の顔が見られない。
「長生きしすぎってのも損よねぇ。自分の名前でさえ忘れちゃうんだからぁ」
「違う!」
狼男がくわっと牙をむき唸る。
「忘れたのではない。取られたのだ。お前にな」
「あらあら、それが条件だったでしょう? 人を盗人みたいに言わないでくれるぅ?」
「……どういうこと?」
私は無意識に、全身の毛を逆立て唸る狼男を落ち着かせようと背中を撫でる。
「ある娘を喰らえば元の人間に戻れる。私がそう言ったら」
にやりと、魔女の唇が半円を描く。
「すぐさま、このお馬鹿なワンちゃんは飛びついてきたわ」
狼男が小さな唸り声を上げながらも、目を伏せる。
突きつけられる事実に、耐えられないかというように。
「娘の居場所を教えろと言われ、私は教えた。でも、条件付でね」
「……返せ」
その呟きは最初小さかったけど、すぐに大きくなった。
「返せ! お前が言った事は嘘だった。何もかも。返せ! ……俺の名を返せ!!」
咆哮のように発せられるその言葉、燃え盛るような激しい熱情に私は恐れ、怯える。
けれど、大地を震わすような大きな、大きな咆哮を上げ、飛びかかる姿勢を見せた狼男と、その様子を見て楽しそうに目を輝かせた魔女を見た時、自然に体が動いていた。
「駄目! 駄目だよ。狼男!」
狼男の首根っこに無我夢中でしがみ付き、叫ぶ。
「あらっ。止める事はないわよぉ。私なら大丈夫だから」
魔女が嫣然と微笑むが、相変わらずその目はダークなきらめきを隠さない。
「そんな事言って、また何かする気なんでしょ!?」
唸り、全身を怒りで奮わせる狼男を抱きしめながら、私は魔女に怒鳴る。
「もう放っておいてよ。私も、狼男も!」
「やあよ。それじゃ、つまらない」
はあっと溜息をつきながら、魔女が髪をかき上げる。
――こいつ、ぶん殴ってやる。
思わず怒りがこみ上げるけど、不運で幸運だったけど、私は普通の高校生だ。
そもそも狼男を止めるのに精一杯だし、私より適役がいる。
「琴子の言うとおりだ。その駄犬はともかくとして、琴子に手を出すのはもう止めてもらおう」
シオンがじりっと間合いをつめる。
「右に同じ」
竹蔵が笑みを湛えたまま、するりと扇子を取り出す。
その仕草は洗練されていて、まるで何か大切な儀式でも始めるみたいだった。
そんな兄を補佐するかのように隣に立って、梅吉が無言で戦闘態勢に入る。麗しい兄弟愛だけど、二人の見た目のせいか、お姫様とお付の者に見えなくもなかった。
「……悪いが、俺はここで戦闘離脱するぜ」
肩をすくめたのは、高尾先生だ。
懐から煙草を取り出して火をつけ、深々と吸い込み、おいしそうに煙を吐き出して、にやあっと満足そうに笑う。
「……先生」
別に期待していたわけじゃないし、セクハラもされたけど、なんだかガッカリだ。
むうっと恨みがましく睨んだら、先生は笑い、がしがしと頭を撫でてきた。
シオンがぎろりとすごい目つきで睨んだからすぐに止めたけど。
「まっ、良かったじゃねえか。笑っちゃうほど不運だけど、それを上回るほどのラッキー体質なんだからさ。先生、ちょっと安心したぞお」
「……でも」
「ワン公は確かに不幸だけどな。俺の職業柄、助けるわけにはいかん。一銭の得にもならないし、おまんま食えなくなるからな」
「ううぅ」
私はぶすうっと口を尖らせ、ぷいっと横を向いて拗ねる。
「モンスターハンターなんて馬鹿みたい」
「おっ、言うね。これでも、お前が学校に入学してきてから裏で色々頑張ってきたんだけどなあ」
「へっ?」
私がきょとんっとすると、先生は無言で顎をしゃくってみせる。その先には、竹蔵。
「……竹蔵?」
「高尾さん」
竹蔵にしてはきつい目つきで呼びかけるけど、高尾先生はあくまで軽い。
「もう、いいんじゃねえか」
煙草を吸いながら、にやにやする。
私が不思議そうな顔で、竹蔵と先生の顔を見くべていると、先生が言った。
「お前の竹蔵お兄ちゃんは俺の雇い主なんだよ」
「はあっ?」
「竹兄?」
私と梅吉が同時に驚く。
でも、あんぐりと大口開けている私とは違って、梅吉はすぐにしたり顔で頷き、どことなく複雑そうに竹蔵と私の顔を見比べた。
「教師として、裏からお前の学校生活を影で守ってくれるように頼まれてたんだよ。あと、そのワン公からもな」
「……そう、だったんだあ」
隠されていた事がちょっとだけ寂しかったけど、私はすぐにぱあっと笑う。
「ありがとう! 竹蔵」
さすがは私のお兄ちゃんだ。
「……お礼を言われるようなことじゃないよ」
竹蔵は笑顔を見せるけど、どことなく気まずそう。
照れてるって訳じゃなさそうだけど、いつもの竹蔵とは違って余裕が失われて居心地が悪そうだ。
長い睫を伏せるけど、すぐに澄んだ茶色の瞳で私を見つめる。
その眼差しを受けて、今度は私が気まずくなった。
だって、物言わず私を見つめる竹蔵の瞳に宿る熱は今まで見たことがないもので、端正な顔立ちも相まって私の頬を赤くさせるには十分な威力があったから。
こんな竹蔵、見たことがない。どうしたんだろう?
「竹蔵!」
シオンの声が気まずい空気を裂く。
「いやっ、ありがとう! さすがだ。本来なら僕がすべきことなのに」
ワザとらしく大きな声で割ってはいり、竹蔵の手を取って、ぶんぶん振って大げさに握手する。
すごく感謝しているように見えるけど、シオンは必要以上に部外者に入って欲しくないってのが本音だと思うから、私のために誰かを雇うっていう発想はなかったと思うんだけどね。
「……本当にありがとう」
竹蔵の手を握ったまま、シオンが改まった調子でお礼を言う。
笑顔だけど、なんだか怖い。手を握ったまま向かい合い、竹蔵の目をじっと見て、再度繰り返す。
「ありがとう。竹蔵」
竹蔵を見つめる冷たい目に、硬い声の調子に、背筋がゾッとする。
だって、これはシオンがいつも敵対する者に対して接する態度と同じだからだ。
シオンにとっては私に近づく人全てが敵も同然だから、ほとんどの人に対してこうなんだけど、竹蔵に対しては今までこんな態度取ったことなかった。
高尾先生の顔からもあのにやけた笑顔が消え、梅吉も緊張したように目つきを鋭くさせる。
狼男も気がそがれたように緊張を解き、私達の様子を見ているし、魔女も同様だ。らんらんと目を輝かせて、舌なめずりでもしそうな勢いだ。
一気に場の雰囲気が冷たく、緊張にはらんだものになるのが分かった。
「大した事じゃないですよ」
それなのに、竹蔵一人涼しい顔でにこやかに笑った。
「僕と琴の仲じゃないですか」
シオンの手を力強く握り返し、私でさえ感じるピリピリするような殺気などものともせず楽しそうでさえあった。
「……そうか。君と琴子の仲か」
シオンが苛立ったように目を吊り上げるけど、相変わらず口は笑ってる。
ううん。弧に描いた唇の合間に見える歯の形が、歯の形が……。
いやあん! 牙の形になってる!! こわっ!!
おもわず私が抱きしめたままの狼男に身を寄せると、ぺろりと頬を舐められる。
狼男を見ると、口の端を上げられた。ホント笑ってるみたい。青とも緑ともつかない瞳は優しく揺れていて、私はなんだか安心して少しだけ微笑み返す事が出来た。
「お前には、お前を好いてくれて守ってくれる人間がたくさんいるな」
「……うん。本当そうだね」
シオンと竹蔵は未だににらみ合いを続けてる。
二人の間に走る火花の理由は分かんないけど、私のためだって事は理解できた。
「それに比べて俺は……」
くっと自嘲気味に笑うと、狼男は鼻先を上げ、魔女を鋭い眼差しで射止める。
そうそう。狼男の問題がまだ片付いてなかったんでした!
「魔女。狼男の名前返してよ!」
私も狼男と一緒になって、魔女を睨みつける。
「もう私の邪魔してもいい。でも、狼男のことは放っておいてあげて」
「やーよ」
魔女がぷいっとそっぽを向く。
「これからも、あんたの邪魔をするしぃ、狼男の名前も返さなぁいもん」
そ、れ、か、と魔女は意味ありげに微笑む。
「名前を取られたあんたに、この私が新しい名前を付けてあげてもいいわよぉ」
「……どういう意味?」
訳が分からなくて私は眉をひそめるけど、狼男にはその意味が通じたようだ。
腕の中で彼が一瞬身を震わすのが伝わり、同時にシオンが息を飲んだ音が小さく聞こえてきた。
同族だからこそ分かる苦悩と哀れみが、その横顔からは感じられたのはきっと気のせいじゃない。
「ふふっ」
私の問いには答えず、魔女が右手を広げ、順に指を折っていく。
そう、まるで楽器でも奏でるかのように。
その仕草は以前にも見た。あの時は、狼男が私を連れて逃げたから、魔女が何をその先にするか分からなかったけど、今は――。
私は身動き一つせず、じっと魔女の動きから目を離さない狼男へ無言で問いかける。
――狼男。なんで逃げないの?
なんで? 魔女が何をするか分からないけど、これじゃあまるで諦めてるみたいだよ。
その考えにゾッとする。
そうだ。狼男は諦めてる。逃れられない運命から観念するかのように目を伏せ、首を垂れて尻尾を丸める姿を見て私は泣きそうになった。
「可愛い、お馬鹿なワンちゃん」
魔女が優しい声を出して歌うように言う。
「私の配下に入りなさいな。楽しいわよ。いっぱい可愛がってあ・げ・る」
指先まで手入れされた五本の指を丸め、拳を作った魔女は相変わらず楽しそうだ。
そして、私は驚きで目を見開く。
丸められた指の合間から、青みを帯びた眩いほどの閃光が漏れ、私を含めたみんなを照らす。目を開けておくのも難しいほどの眩しさだ
「どんな名前がいいかしらあ?」
強い光から両手で目を覆う私の耳に、魔女の声が聞こえてくる。
「うう、う……」
苦しげな声に、なんとか指の合間から目を開いてみれば、そこには苦悩する狼男の顔が。
「……な、に?」
私の口から無意識にもれる疑問は、大きな体を石のように硬直させ、大きな口を開けた狼男の姿だ。
そして気づく。魔女の手から閃光を放つ光の玉が長い尻尾をとぐろの様に巻きながら、大きく開かれた狼男への口へと入り込まんとしている事に。
「きーめた!」
その言葉と、今にも泣きそうな私に気づき、苦しみに顔を歪ませながらも、微笑みかけてくれた狼男を見て、私の心を何かが強く突き動かしたのだった。
気が付けば、私は叫んでいた。
それは、狼男の体内へと光が入り込むのよりは遅く、魔女の口から次の言葉が発せられるよりは早かった。
「ポチ!!!」
私は両腕を振り上げて叫ぶ。
「ポチ!! 決めた!! ポチだ! ポチ! あんたの名前はポチィィっ!!」
真っ赤になって喚く私を多分みんな呆気に取られて見ていたと思う。
でも私、とってもとっても必死だったんだよ。頑張ったんだよ。他に思いつかなかったんだよ。犬の名前なんてさ……。
「なっ!?」
魔女が唖然とした様子で口を開き、狼男もぱかーんと大口を開けて、私を呆然と見つめている。
狼男の瞳に宿る光は、はたして狂気か、歓喜か。
「……ポチィ?」
魔女が呟いた後、突然大声を上げて笑い始めた。
「やあだ、もうっ!」
大きな胸を反らし、天を向いて、楽しそうに笑い続ける。その目には涙さえ浮かんでいた。
「ポチ……。ポチかあ」
くすくすと笑い続ける魔女はなんだか可愛い。
ちゃんとしてれば、見た目金髪ダイナマイトボディのお姉ちゃんだしね。
その、ただの隣のお姉ちゃんみたいになった魔女はまだくすくすと笑いながら、あんぐりと口を開けたままの狼男を見て、また噴出す。
「私の配下に置いて、暇つぶしもかねて手荒く扱いたかったけど、もう駄目ね。あんたの主人は、この子になっちゃった」
ふふっと、可愛らしく首を傾げる様子にはもう冷たさの欠片もない。
どちらかと言うと、狼男への同情のほうが勝る気がして、私はなんとなく狼男から目を反らす。
私は、もしかしてとんでもないことをしてしまったのかも。
「これも、幸運なうちに入るのかしら?」
魔女が私へと優しく語り掛ける。
「ねえ。あんたはこれで、もう一人強力な護衛を得たのよ。なんて、ラッキーな子。これも才能の内ね」
幸運な体質が才能なのかどうか分からないけど、魔女の肩の抜けた軽い感じを見て、少しだけ安堵したのも事実。
「私の呪いは一生解けない。あんたにはこの先も色々あると思うわ。でも……」
魔女はにっこりする。
「大丈夫、ね」
「……魔女」
「良かったわね、なんて言わないわよ。呪いを解く方法も考えない。けど……、あの人の娘が不幸なままなのはちょっと嫌だったりしたのよ」
だって、と魔女は長い睫を伏せて悲しそうに続ける。
「だって、もしあの人が私の想いを受け止めてくれたら、あなたは私の娘の生まれ変わりってことも有り得たわけだし」
「いや、それはないでしょ!」
速攻で返す私に、魔女が口を尖らす。
「なによ! 意地悪な子ねぇ」
「ないって。絶対ないって」
前世での私のお父さんが、こんなイカレタ女を選ぶわけがないし、こんな女が私のお母さんってことも絶対認められないっつの!
「嫌な子。いいわ! これから先も苛め抜いてやる。あんたの運がどれだけ続くか見てやるから」
「かかって来いっつの。べーだ!」
「ふん。何よ!」
べっと舌を出す私を見て、魔女はいっそうむくれるけど、その顔はなんとなくだけど楽しそうだ。最後にはまた輝くような笑顔を見て、手を振った。
「じゃね! あんたの体質のことも確認できたし、ワンちゃんも取られちゃったし、私もう行くわ!」
その言葉が終わるか、終わらないかの内に、魔女の姿がかき消える。
あの、耳に付く甲高い笑い声が風に乗って聞こえた気がしたけど、それは幻聴だったのかもしれない。
散々騒がせてくれたけど、なんとなく嫌いになれない魔女は、こうして私の前から姿を消した。
……と思ってたら、数日も経たないうちに遊びに来るんだけど、その話はまた今度ね。




