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 両親のことは覚えてない。


 写真も持ってないからどんな顔だったかも分からないし、両親の昔を知る知り合いもいないから、どんな人たちだったかも分からない。


 薄っすらと施設での生活は覚えているけど、それ以外で私の記憶を彩るのは背が高くて、優しくて、いつだって私を一番に考え、愛し続けてくれた吸血鬼だけだ。


 いくらモンスターで特殊能力があるからといって、何かと不運ごとに巻き込まれる私の面倒をみるのは大変だったはず。

 シオンには本当に感謝。血は繋がってないけど、私にとっては親も同然だから、いつか親孝行して少しでも恩返しできたらいいなってずっと思ってた。

 異常なほど過保護のところも、ウザイと口には言いつつも、実はかまわれて嬉しい部分があったのは内緒。

 思い返してみれば、シオンも私もお互いしかいなくて、二人だけの世界を暗黙の了解のもとに作り上げていたところがあったから、共犯者みたいなものだ。

 そうそう。いつだって、にこにこ笑顔の優しい幼馴染のことも忘れてはならない。

 カッコよくて、頭がよくて、頼りになって、私の自慢のお兄ちゃん。

 竹蔵も、竹蔵のご両親も本当私にはよくしてくれた。竹蔵とおんなじ笑顔をしているおばさんは、私にとっての母親像そのもので、遊びに行くたびに手作りのお菓子や、美味しい食事をだしてくれた。

 もうそれも食べられない。



 崖から落ちる私がまず感じたのは、恐怖。



 その後に去来した想いは、泣きたくなるほど優しく、甘い思い出ばかりだった。

 不運だ、不幸だ、と愚痴り、自分の人生を呪い、泣き言ばかり言っていた私だけど、実はとんでもなく恵まれていたのかもって、ようやく気づいた。

 少なくとも、私は一人じゃなかった。

 頬に迫り来る最後の瞬間を知らせる風圧を感じる。同時に、羽毛のように柔らかな感触も。

 それは、ずっとずっと長い間、一人っきりで生きてきた人のもの。正確には、今は“人”じゃないかもしれないけど、彼のどうしようもないほどの悲しみと孤独を、私はあの廃屋で確かに感じとった。

 外れ者の私と、孤独だった彼。

 この最後の瞬間、お互い一人じゃないのが、もしかしたら幸いなのかもしれない。

 そんな考えが頭に掠めた時、私の意識は闇に沈んだ。圧倒的な闇の中に。




 ◇ ◇ ◇




 思わず目をつぶりたくなるほどの眩しいほどの光。



 まず、最初に感じたのはそれ。次にその光を遮るように、私の視界を塞いだのは、泣きたくなるほど懐かしくて、愛おしい顔。


「……琴子」


 シオンが震える手で、私の頭を撫でる。そうされて初めて、私は自分の頭が濡れている事に気づく。

 いや、頭どころか体中濡れている。同時に、自分の体の冷たさに気づき、思わず身震いした。

 そんな私を見て、シオンが痛ましげに眉をしかめると、上着を脱いで私の体を包み込み、更に自分の腕の中に閉じ込めた。


「……愛おしい人。僕の小鳥。僕の恋人」


 濡れ鼠みたいな私の頬に顔を寄せ、額に、目に、鼻先に、かすめる様なキスをしながら移動してくと最後に深い深い口付けを、濡れた唇にする。

 冷え切った私の体とは反対に、シオンの中はあたたかい。変なの。吸血鬼の癖して。

 ううん。シオンはやっぱり冷たい。でも、私にとっては、どうしようもないほどあたたかい人なんだ。いつも太陽みたいに惜しみなく愛を注ぎ、私を包みこんでくれる。

 キスされながら、つい微笑んでしまう。

 どうしようもなく、シオンが愛しくなってしまって、両腕を伸ばして彼の首に巻きつける。くっと、シオンが小さく笑うのを感じた。

 笑いながら、更なる深みに入ろうとする私達。シオンの手がこころなしか、おかしな位置に移動している気がするけど、今の私の思考回路はそれに追いつかない。

 不運な事に、というか幸運な事に、私の代わりに止める者がいた。


「ごらあっ!!」


 高尾先生だ。


「がっ!?」


 シオンの背中に衝撃が走る。先生に蹴られたのだ。


「俺の生徒に、白昼堂々と何しとんだ! この変態がぁ!!」

「変態とは何だ!? お前こそ、教師の分際で僕の邪魔をするな! ……クソッ。せっかく良いところだったのに」


 そこで初めて、いぜん私を抱きしめたままのシオンの手が、濡れたパジャマの中に入り、かなりきわどい場所に触れていることに気づく。


「きゃああっ!!?」


 私はおもわず両手を突っぱねて、シオンの胸を押す。

 危ない。危ない。あやうく禁断の道に足を踏み入れるところだった。

 シオンは私にとって大事な、大事な人だけど、彼とこの先の人生を共にする覚悟があるかというと、それはまだ違う。色々と心構えが必要だって!

 追いかけるシオンの手から逃れるように、後ずさる私の背中を誰かが優しく受け止める。

 後ずさった体勢のまま、首だけを捻って後ろを見ると、常に穏やかな笑みを湛えた美しい顔。


「あっ……。竹蔵」


 そして、その背後に見えるのは――。


「梅吉」


 笑顔の竹蔵とは対照的に、梅吉は腕組をしてむっつりとした顔で、言い争うシオンと先生を睨んでいる。

 そこで私は、この場にいるべきもう一人の人物に気づく。


「……おっ、狼男は?」


 左右に顔を振る私に、竹蔵が顎をしゃくって教えてくれる。


「そこだよ」

「あっ……」


 竹蔵の腕から抜け出し、私は狼男の元へ駆け寄る。

 私同様に、狼男の体は全身濡れていて、芝の上に雫をたらしながら、その目はキュッと閉じられている。


「……狼男」

「大丈夫。気を失ってるだけだよ」


 濡れた体を労わり、撫でる私を励ますように、竹蔵が言う。

 その言葉は一瞬だけ私を元気付けるものの、やっぱり心配。

 頭を撫で、鋭い爪がひっこんだ前足を両手で包み込み、どさくさに紛れて肉球をぷにぷにする私の目がつい涙で潤む。


「琴子と一緒に流されながら、君を引っ張って川岸まで泳いだらしい」


 震える私の肩に、竹蔵の手が置かれる。


「僕らが君達の行方を捜していると、遠くから遠吠えが……。すぐに彼だと分かった」


 大地に身を投げ出し、ぐったりした様子の狼男を見つめる竹蔵の眼差しは柔らかい。


「僕らに知らせてくれたんだよ」

「狼男が……」

「うん。僕らが駆けつけた時には、彼も気を失ってて、琴に寄り添うように倒れていたよ。それが、つい先ほどのこと」

「そ、そうだったの……」


 助けてくれた。狼男が助けてくれたんだ。

 なんだよ。ちくしょう。最初は私の命、狙ってたくせに。このお人よしで、魔女の嘘に簡単に騙されちゃう馬鹿犬は!


「俺達が探している隙に、魔女はどっかに消えた」


 梅吉が私達の隣に立つ。狼男を見る目はやっぱり、どことなく穏やかだ。


「……こいつ、気にいらないけど漢だな」


 うん。漢! かんじ、と書いて、男と読む漢だよ、あんたは。狼男!!

 未だに罵りあいを続けるシオンと先生の声をBGMに、私達三人はなんとなくしんみりする。

 いや、これじゃお通夜みたいじゃないの! 狼男はまだ死んでないし、見る限り怪我もしてないから、死期間近って訳でもないはず!


「た、竹蔵! 本当に狼男、気を失ってるだけだよね! 怪我とかしてない? 私達が川に落ちてからどれぐらい経ってるの?」


 立て続けに質問する私を、竹蔵がどうどうと手で押さえて落ち着かせる。


「大丈夫。大丈夫。本当に、……奇跡的なほどに彼も、君も怪我をしてないんだ。かすり傷一つね」


 色素の薄い茶色の目を細めて私を見つめる竹蔵の表情は穏やかだけど、どことなく未知なるものに対峙した聖職者のような敬虔な静謐さがある。


「本当に驚きだよ。あんなところから落ちたっていうのに」

「えっ?」


 竹蔵の言葉に首をかしげながら、視線を追いかけて後ろを向いた私は息を飲む。


「……ええっ!? 落ちたの? あそこから? 本当に?」


 私は呆然としてしまう。

 だって、だって、岸辺にいる私達の前に流れる川の流れは、狼男と一緒に落ちた地点よりずっと穏やかなものになっているけど、その前が大問題だった。

 ごおごおと、大音量の音たてながら大量の水を吐き出すその滝はかるくビル十階分ぐらいありそうだ。

 離れた場所にいる私の顔にまで水しぶきが飛んでくる。どことなく前にテレビで見た中南米にある世界最大の滝を思い出させた。


「あそこから!? あそこから本当に落ちたの?」


 すごいな。いくら狼男がいたからって、よく命があったもんだって話だよ。

 あの高さ。目がくらむ。よく見れば、ごつごつとした岩肌が川の合間から覗いているし、これでかすり傷一つないなんて嘘みたい。あっ、でも前に八階のビルから落ちたことがあったけど、無傷だったなあ。詳しい話はまた今度。


「……運が良かったのかなあ」


 ぽつりと呟く私に、意味ありげな視線を竹蔵が投げかけてくる。


「運、ね」

「え?」

「それも、有り得ないほどの幸運だ」

「竹兄?」


 含みある物言いに、梅吉も少し戸惑ったような表情を浮かべた。

 いつになく真剣な様子の竹蔵を見て、私は梅吉と視線を交わしあうと、不安げにまた顔を竹蔵へと戻す。

 私達の無言の問いかけを見て取り、竹蔵が小さく頷いた。美しい唇を開きかける。


「……どうした? お前ら」

「琴子?」


 私達の様子に、いつの間にか取っ組み合いの喧嘩にまで発展していた先生とシオンも動きを止める。


「おっ。お前も気づいたか?」


 乱れた服を整えながら、先生がにやりと笑う。

 見れば、狼男が痛みをこらえるかのように瞬きを繰り返していた。小さな呻き声をもらしながら、身体を動かそうとする。


「狼男!」


 私は泣き笑いの顔を作って、狼男の頭を膝の上に乗せ、優しく鼻筋を撫でる。


「聞いたよ。あなたが助けてくれたんだってね」


 濡れそぼった身体を抱きしめ、鼻先に感謝のキスをすると、一瞬だけ私を見つめたあと、狼男は目を閉じる。


「……別に助けたわけではない」


 ふんっと、そっぽを向くその様子がなんだか可愛くて、私はぎゅっと狼男の頭を抱き、額に頬擦りをする。

 とてつもない形相でシオンが歯軋りしてるけど、そんなの無視だ。

 だって、シオン同様に狼男だって私の危機を救ってくれた命の恩人だもの。これは、シオンだって認めないわけにはいかないはず。



「あらん。そういう訳でもないわよん」



 この和やかな空気に水を差すような耳障りな声は――。





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