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wonderland/暴力衝動2



右手を持ち上げる。杖を握り直す。

杖の先端を左太腿に向ける。そこには股関節から左膝裏に抜ける様に、黒い矢が斜めに突き刺さっている。私は主から賜った“御技”を使用する。(…―“分解”―)杖の先端で矢に触れる。音がして、矢がその形を崩壊させる。

―カン。

“御技”を使用する度に、この音が聞こえる。聖鈴、聖なる音、神の福音。心地の良い音だ。力を振るう度にこの音が聞こえる。この音が聞こえる度に、あの御方が力を授けて下さった瞬間を思い出す。私に息吹を吹きこんで下さった瞬間を思い出す。力の繋がりを、確かな絆を感じる。仰せつかった使命を思い出す。

体の状態をチェックする。太腿と左翼に矢傷、後は無数の弾痕が体中に開いている。“修復”を行うかどうか迷う。“修復”はそれなりに複雑な技術を必要とする工程だ。エネルギーもかなり消費する。功徳を積み、主様から褒賞を授かった同胞達は、その体に大幅な“修復”作業を施していると聞くが、私の体は未だ主様が命を与えて下さった当初の姿のままだ。杖も白いまま。その事を少し恥じ入る。

(…しかし、此度の聖狩で、私もそれなりの成果を得た)

(異界の悪鬼をこの手で狩れなかったのは残念だが)

(―悪鬼の種を、17個も天に還した。上階に逃げた彼らを含めれば、19だ)

(帰還すれば、必ずや主様との謁見の機会を与えられるだろう…)

暫く思案する。杖を持ち上げ、左翼と太腿の矢傷を“修復”する。(…今、機動力を失う訳にはいかない)(奴らが屋外へ逃げるなら―)(翼で追う必要も出て来る。それに、奴らは上階へ逃げた)(愚かな奴らだ。愚かな選択)(…だが、屋内は翼が使い辛い。奴らが怯えた鼠の様にこの狭い箱の中を逃げ回るつもりなら、今暫くはこの足を使わぬ訳にはいくまい)…もう少し考え、それから咽の銃傷にも“修復”を掛ける。(…喋る度に、木枯らしの様な音が咽から聞こえる。これでは、少々威厳に欠ける)(…品格や体面は大事だ。我々がそれを損なうという事は、主様のを我々が損なっているのと同じだからだ。天使は常に高潔で、勇壮で、畏怖の対象で在らねばならない)

口を開ける。

「あ」

“修復”の成果を試してみる。「あ、あ、あー」違和感は無い、様に思える。「ああ、主様、あるじ様」上々の結果に満足する。翼の具合と、太腿の状態もチェックする。人一人通るのが精一杯の階段で、翼を窮屈に羽ばたかせる。膝を緩やかに曲げ伸ばしする。翼の先端は確りと空気を掴み、足も力強く大地を捉えている。(…この、足の裏を小石が刺す感覚、やはり慣れないが)身体的には問題ない。後は奴らを追い殺すだけだ。

「ああ、主様、我が主様」

―私は微笑む。

翼を畳み、階段を昇る。確かめる様に、一歩一歩。(私は狩人。追跡者、剪定者。私が急ぐ理由は何処にも無い)杖を握った手で“御技”の準備を行い、左手で口元を撫でる。口元を撫でた時の感覚で、私は自分が我知らず笑っていた事に気付く。(…この、“表情”という機能、果たして何の為にあるのだろうか)周囲の視界を取る為の目、主様と言葉を交わす為の口が体の前方に付いている必要はあるとは思うが、それ以外を胴体の上に乗せて居る必然性は何処にも感じない。(…自分で的を大きくしているだけではないか)所詮頭部とは人類黎明期、コミュニケーションツールとしての言語が無かった頃、代替のコミュニケーション手段として、“表情”が使われていた時の遺物ではなかろうか、と思う。(…帰還の折、主様にこの件、具申してみよう)(目と口を胴体の前方に移植し、頭部の残り部位を背筋の内側に収納する―)(―それが出来れば、異界の悪鬼達との戦闘も更に容易になるだろう。その様な“修復”を試みている同胞を見た事は無いが、これは天使達の新しいトレンドになるかもしれない―)

―足を止める。

4階の廊下と接する踊り場で立ち止まり、暫し悩む。(―奴らは、この階へ進んだだろうか?)(普通ならそうするだろう。更に上階へ昇るメリットは何処にも無い。しかし―)(…奴らは、普通ではない。どの部分がなのかは、明確には上手く言えないが。だが―)(―血痕が。血痕がある)(血痕は階段を昇っている)(―今まで、3階に好んで留まる人間達は居なかった。私がこの建物の3階を、死体で飾り付ける事を覚えてからは)(彼らは、視界が通っている事を異様に恐れる。眼球から周囲の情報を多く得ているからなのだろうか。だから私は西岸の建物を多く潰し、東岸の建物を残す事にした)(人間達は面白い様に、私の思い通りに行動した。川底で私に襲われれば、視界が開けた西岸を嫌い、挙って東岸へと移動した)(奴らは大きな建物を好んだ。建物が大きければ大きい程、身の安全が高まるとでも思っているのだろうか?)(だから私は、東岸で一番大きいこの建物の2階部分を崩し、1階の廊下を瓦礫で埋めた。そうすれば奴らの移動は制限されるからだ。羽の生えていない人間には、廊下の崩落した2階の廊下は渡れないし、瓦礫で埋まった1階も通れない)

(次に私は3階に死体を集める事にした。元々はちょっとした思い付きだ。使い道の無い死体を、他の獲物が来るまでの間に、奴らの行動を更に制限する為の道具に出来ないかと思ったからだ)

(奴らは同胞の死体を異様に恐れる。死体の影に、己の死の影を感じるからだろう)

(だから私は、3階を死体で飾った。そうなってからは、狩りは本当に簡単な作業に変わった。人間達を建物に追い込み、4階か5階に上がって来るのを待ってから、燻り出して狩る。それだけだった)

(それだけだったのに―)

(…こいつらは。こいつは何かが違う。上手く言えないが、何か―…)

音が。

―バン。

音がする。

(?)

―バン。バン、バン、バン―。

上階から、次々に音がする。(何だ?)上階から次々に、重々しい、錆付いた、鉄の扉を跳ね開ける音が。(…何をしている?)音がする。5階から音がする。この建物は5階までしか無い。5階から音がしているのは間違いない。(…狂ったか?自分の居場所を、私に知らせる様な真似を―)

―バン、バン、バン…。

鉄の扉を開ける音だ。蝶番の錆付いた、鉄の扉を開ける音。その音が廊下の手前側から、奥側へと向かって行く。音は突然途絶える。が、この上に入るのは間違いないだろう。

(…どういう意図がある?もしかして、二手に分かれたか?)

―その可能性は大いにあり得る。人間は死の恐怖に耐えられるように創られてはいない。死に掛けの男を見捨てて、女が逃げ出したというのは容易に考えられる話だ、が…。

(…だとしたら、自分の居場所を知らせる理由は何だ?あの雄羊には、こんな真似は出来まい。私の“分解”を腹に受けてはな。出血もしていた。あんな風に、勢い良く扉を開けていく事は出来ない筈だ―)

(―としたら、あの音は、誰が?)

(…あの女か?)

(あの雌羊が音を起てたとして、それは何の為だ?)

(雄羊を逃がす為?)

(それは無い。それは無いだろう。奴は致命傷を負った。動いているのも奇跡に近いだろう。生きているのでさえも。女がどれだけ私を引き付けた所で、自力ではこの建物から出るのも叶わない)

(…誰かが近くに居るのか?伏兵?)(それも無い。この乾川の周囲1km以内に、他に誰も居ない事は確認済みだ)(なら、救援の可能性は?奴らが、何らかの連絡手段を持っていたとしたら?)

「―だとしても、関係無いな」

私は上階を見上げる。私は笑う。心から愉快な気分になる。

「居場所の分かっている奴から殺すだけだ。十分な数の収獲は得た。今更一人二人、種の数が減ろうとも、どうという事は無い」


耳を澄ませる。

階段を昇る。出来るだけ静かに。素足に小石が喰い込む。段上の血痕を追う。血痕は上へ上へ続いている。ぺたり、ぺたりと水っぽい足音だけが辺りに響く。それ以外に音は聞こえない。音が聞こえない事を不審に思う。

(…奴らは、何をしている?)

念の為、杖を前方へ構える。“御技”の偉大なる力を杖先に感じる。至上の君との確固たる絆を手の平に覚える。胸の中に蟠る疑心や、奴らの不可解な行動に対する必要以上の警戒心が、主の力によって柔らかく解されていく。階段の先に、5階の廊下が見える。私は“御技”の力の流れを操り、階段上から廊下の状態を調べる。

(…伏兵は居ないようだ。廊下の角にも誰も居ない)

耳を澄ませる。何も聞こえない。

(意図は何だ?あれから音はしない。奴らの意図は―…?)

段上の血痕を追う。血痕は5階の廊下を左に曲がっている。(…当然だ、右は行き止まりだ。が―)念の為、“御技”の力を使って、廊下の右手側を調べる。(男を置いていくとしたら、ここしかないだろう。左手側には、階下と同じL字型の廊下。道中に負傷した男を置いたとしても、大した足止めが出来るとは思えない)

―“御技”の力場を廊下の右手に向ける。“分解”の先端に触れる者は何も無い。

(…警戒し過ぎか?もしかしたら、奴らの行動には何の意味も無いのかもしれない。不可解な行動も、パニックによる衝動的なものだったか。確かに奴らは普通では無かったが、自分の命が天秤の片方に乗せられた時、人間というのはいとも容易く平静を見失う―)

階段を上がり切る。踊り場に立って、窮屈に羽を縮めたまま、暫し考える。

(………もしかしたら)

(もしかしたら、最初からこの建物内に、奴らの仲間がいたのかもしれない)

(か弱く矮小なる人間といえど、奴らは全くの愚かでは無い。知恵を使い、工夫をする事で、奴らはこの荒野を生き延びてきた)

(奴らだって、噂は聞いていただろう。私はここで長い間狩りをしていた。伏兵を仕込むくらいは考えたかもしれぬ)

(私はここに長く留まり過ぎていたのかもしれない。この狩場に)

(…聖狩は今日で終わりだ。奴らが最後の獲物)

(伏兵に注意を惹き付けさせて、負傷した雄羊を囮に、伏兵と女は逃げる―)

(―が、奴らの最善手か?それなら、犠牲は一人で済む―)

私は考える。私は杖を構える。私は廊下に出る。

右を見る。左を見る。誰も居ない。

(…?)

―その代わり、廊下の扉が開いている。

(何だ?)

錆付いた鉄の扉が、廊下の片端から開いている。501号室、502号室から―L字廊下の角を曲がった先の扉も、ほぼ全て開け放してあるのが、窓の向こうに垣間見える。(………?)念の為、窓の外を覗く。人影は何処にも無い。

(逃げた訳ではない―と見て、良いのか?)

(音はしなかった)

(奴らが靴を脱いで、足音を殺していたら?我々の耳では聞き取れない)

(もしそうだったとしたら、奴らの進行速度はかなり鈍っている筈だ。奴らには“痛み”という感覚がある。我々天使には無い感覚が。どれだけ屈強な偉丈夫だろうと、四肢をひとつでも失えば、奴らは無様に泣き喚いて直ぐにでも命乞いを始める。そういうものだ。奴らは“痛み”に弱い)

(瓦礫が奴らを足止めしてくれる)

(そして、この廊下の窓からは、両方の階段を見て取れる。この建物の、唯一にして二つの出入口を)

(私のやるべきは―)

(―待て。奴を忘れてないか?あの鉄塊の御者を。最初の逃亡者を。そして最後の逃亡者を)

(最初の聖狩。私の教訓)

(8人を殺した。8人の命を、主の命の元、天へ還した。聞いていたよりも簡単だった。怯えるもの、蛮勇を奮うもの、慈悲を求めるもの。その全てを、平等に刈り取った。それから振り返ると―)

(―凄まじい早さだった。恐るべき速さ。気付いた時には、奴はもう砂粒と変わらぬ程の大きさに見える距離に居た。全てをかなぐり捨てて、奴は走っていた。命だけを抱えて―)

私は歩を進める。L字型の廊下を進む。

(―命の危険が迫れば、人は変化する。それが、私の最初の聖狩で得た教訓だ)

ぺたぺたと足音がする。窮屈に縮めていた羽を、廊下一杯に伸ばす。右翼の切っ先が、廊下右手の窓ガラスを突き破る。派手な音がする。(…どうだ?)人間は音に弱い。取り分け大きな音や、衝撃音に。これも、私が狩りで学んだ事の一つだ。音を立てて追い立てる。羊飼いの遣り口だ、と思う。

私は耳を澄ませる。何も音は聞こえない。

(…駄目か?なら―)

杖を前に構えて、前進する。“501”と表に刻印された、開け放たれた鉄の扉に差しかかる。腹部に力を込め、廊下全域に響き渡る様、声を張り上げる。

「―聞け、矮小なる人の子よ、罪深き迷い羊よ―」

前進する。杖を前方に構えたまま、“501”の内側を覗き込む。そこには誰の姿も見当たらない。

「―我々が杖を持ち、主様から賜った“御技”を振るうのは、決して己の欲望を満たす為では無い。これは救済である。我が至上の君はこの箱庭の未来を真に憂いておられる―」

足元を見る。血痕は点々と、L字のカーブを曲がって先に進んでいる。私は杖を構えたまま前進する。

「―貴様たちは毒に侵された腐敗種だ。世界に仇を成す死の種だ。貴様達はいずれ悪鬼に変貌する。何人たりとも、あの光からは逃れる事は出来ぬ。更なる力を求める余り、貴様達は禁忌の扉を開けたのだ。あの光が貴様達に齎したのは、人を滅ぼす種絶の病だ―」

耳を澄ませる。何も聞こえない。思わず溜息を吐きそうになる。

(…全く、人というのは、どうしてこんなに物分かりが悪い?)

「―世界の為にその身を絶やせ。それが我が主の望みだ。そして慈悲でもある。がお前達の身に訪れた時、お前達が愛しき隣人を手に掛けぬようにと―」

前進する。血痕に沿ってカーブを曲がる。廊下には点々と続く血痕と、6枚の開け放たれた鉄の扉が私を待っている。

「―だが、お前達の並々ならぬ生への執着も、私は知っている。それを簡単に捨てられぬという事も。そこでひとつ、お前たちに選択権を与えよう。至上の君は我々に天命を遣わされた。毒種を滅ぼせと。しかし、中には死ぬまで発症せず、生涯を終える人間も居る。お前がそうだと期待する。小娘―」

“503”、“504”の扉を通り過ぎる。血痕は真直ぐに地面を這っている。杖を前方に構えたまま、私は床の血痕を追う。

「―少年を差し出せ。そいつは我が“御技”の力を受けた。恐らく助かるまい。そいつの命を差し出せば、お前には手を出さないと神の御名に於いて約束しよう。どちらが得か、良く考えるんだな。簡単な引き算だ。少年を捧げればお前は助かるが―」

“505”、“506”の扉を過ぎた所で、私は立ち止まる。血痕はそこで左へ折れている。が、良く見ると廊下に続いていた血痕とは違って、506へ続く血痕は形も小さく、玄関付近に集中して落ちていて、そこから奥へはプッツリと途絶えている。私はその場に屈み込み、指先で血痕に触れる。廊下の血痕は乾いているが、506へ続く血痕は未だ固まっていない。

「―邪魔をするなら、両方助からない」

念の為、部屋の内側へ杖を向ける。“御技”の力場を整え、506の内側の壁に触れぬよう、細心の注意を払いながら部屋の中を調べる。(…どうやら、誰も居ない様だな)再び床に目を凝らす。そこには―。

(―は)

―間違いない、血痕を拭った後だろう、赤黒いが見て取れる。

(愚かめ。愚かな人め)

私は笑う。我知らず笑う。立ち上がり、血痕を拭った後を追う。

「―小娘。決断は早目にな。お前が選択する前に、私がお前を見つけたら―」

507の扉を通り過ぎる。私はそこで立ち止まる。血痕はそこで終わっている。

私は声を殺して、思わず噴き出してしまう。

(…愚か。愚か。愚かな羊)

(最初の教訓。私の教訓)

(危険が迫れば、人は変化する。良い方向にも、ああ、悪い方向にも)

―最後の扉、“508”の鉄扉の下の隙間から、二足の靴がそこに並んでいるのが見える。靴の片一方は激しく震えている。恐らくはそちらが娘の足だろう、と私は思う。或いは少年か。(…血を失い過ぎたのかもしれないな)私は杖を肩口の高さに持ち上げ、“御技”の力場を剣の様に結集させる。(―力を集中させるのに、十分に時間を掛けた。この密度なら、必ずや扉の向こうの悪種まで、纏めて“分解”出来るだろう―)

「―お前も少年も殺す」

私は言う。私は杖を構える。鉄の扉を後ろの二人ごと、右手側から袈裟懸けに薙ぐように。暫く待つ。一呼吸ほど。扉の後ろの靴は、カタカタと震えているだけだ。

「―残念だな。選ばないというのもまた罪だ、雌羊よ」

私は杖を振るう。“分解”の力場が鉄の扉を斜めに横断する。扉がバターの様に千切れる。音がする。

あの音が。

―カン。

私は笑う。

二つに別れた鉄扉が、上下バラバラにグラグラと揺れる。やがて、蝶番一つだけでは重みに耐えきれなくなった下の扉が、バキン、と何かが砕ける様な音と共に、地面に落下する。

(…?)

私は笑みを引っ込める。眉を顰める。扉の向こうの光景に違和感を覚える。扉の向こうには靴がある。

靴だけがある。

(…“分解”で、全部消し去ってしまったか?)

(いや、それは無い、それは無い、筈だ。“分解”を、それも全力の“分解”を、直接、肌に当てた訳でも無いのに)

(人間を丸ごと消すのは、かなりの負荷が掛かる。炭素じゃあるまいし、単一物質で出来ている訳じゃないんだ。その場合だって、服なり装飾品なり、何かしらは残る)

(靴が―)

(違う。靴は違う)

(しかも、鉄扉の裏からだ。奴らの死体は切断され、鉄扉と同じ形の傷を以って、あそこに倒れて居なければならない)

(あそこに倒れて―)

(靴―)

“508”の鉄扉の下部が千切れて、その向こうが見える。そこには二足の靴がある。

その上に猫が居る。

黒猫が。

私は暫しその生物を見つめる。黒猫も呆気に取られた様に私の事を見上げている。黒猫は血に濡れた後ろ脚を片方の靴に乗せ、前足でもう片方の靴をカタカタと揺らしている。やがて黒猫はニタニタと満面の笑みを浮かべると、私に向かって、こう言い放つ。

「…よぅ、糞長ぇ退屈な説教はそれで終わりかい?間抜けな鳩野郎さんよ」

「な―」

カシッ、と音がする。張りつめていた何かが、ビィン、と解き放たれる音がする。力強く風を裂く音がする。衝撃が右腕を射抜く。

(―に、を…)

見る。

腕を見る。杖を握った右腕を見る。右腕が矢に居抜かれている。あの黒い、忌々しい矢が、私の右手首を射抜き、右翼を貫通して止まっている。「―の―」矢の飛んできた方向を見る。左手を、左手側を、“507”の部屋の奥を見る。部屋の中は仄暗いが、そこには時折閃く二つの目が、金色の双眼が確かに浮いている。

「―死に損ない、がああアァァ―…!!」

直ぐ様“分解”を使う。

―カンッ。

手首の矢を消し去る。暗闇に向き直る。金色の目玉と向かい合う。杖を構え、一歩踏み出す。もう一度弦を弾く音がして、今度は掌の付け根から右翼、更に窓硝子までを貫通される。

「―ふざけるな、貴様、腐敗種の分際で―!!」

杖に力を溜める。もう一歩踏み出そうとする。

―ぺた。

音がする。

―ぺた、ぺたぺた。

見る。

…音のした方を。

そこには小娘が居る。

娘が私の後ろに立っている。(?)505号室の付近だ。(何…?何だ?)娘は裸足で、小さなナイフを口に咥え、右手には拳銃、左手には大振りのナイフを握り締めている。

娘の左手の指先からは、新しい血が滴っている。

―ぺた、ぺた、ぺたぺたぺた。

娘が走り出す。私は見る。娘が焼け付くような栗色の目で、私の事を睨みつけ―…。

―ナイフを咥えた口元に、笑みが零れているのを。



(仮説その1)

靴下を脱ぐ。それをポケットの中に詰め込む。手の中のナイフを持て余す。一本はさっき拾ったナイフ、もう一本は梔子に借りたナイフだ。奴を殺すには、どうしても刃物が必要だ。銃弾でなんとか出来なくもないだろうが、マガジンはもう残り1つだ。出来るだけ保険は多い方が良い。

(―奴は連続して“御技”を使えない)

裸足になった指先を撫でる。コンクリートの冷たさに慣れない。踵に砂のザラザラした感触を覚える。風の音が強い。出来る限り、耳からその音を排除しようと試みる。

(最初に出会った時も、さっき階段の下で鉢合わせした時も。奴は基本的に、防御に“力”を使っていた。痛みを感じない癖に、何の為に防御を優先しているかは分からないけど。こちらの攻撃を消す。あの音がする。その後、奴は直ぐには攻撃をして来ない。そうしていれば、私達を殺せた場面は幾つもあった筈なのに)

窓に手を触れる。砂埃を拭ってしまいたい衝動を抑える。(これは保険だ)私は今、窓の外に居る。505号室のベランダの外だ。

(―仮説その2)

(奴の能力は“力場”だ。見えない力場。奴はそれに触れたものを、消滅させる事が出来る)

ここに隠れていれば、万が一、奴が全ての部屋をその能力で逐一チェックしていったとしても(ジェンガ)(仮説のジェンガ)(仮説が正しければ)一度は窓が奴の能力を受けてくれる筈だ。その場合、もし仮説1が正しければ、次に奴が能力を使えるようになる瞬間までは、私達が有利に立ち回れる様になる。

―逃げるにしろ、戦うにしろ。

(…多分、余り多くのものは消す事が出来ないんだろう。それか、同質の物しか大量には消せないのか。何かしらの条件があるんだ。だから建物は消せないし、煙の向こうや窓の向こうの物を消そうとしたら、斬ったり刺したりするみたいに、能力を伸ばさなくちゃいけない)

(他の物体に触れる面積を小さくする為に)

(防御の時は、体の前方に、盾状に能力を広げていたんだろう、と思う。矢や銃弾が能力に触れた瞬間、能力がそれらを掻き消す)

(…殴りかかったりしなくて、良かったな…)

耳を澄ます。音が聞こえる。風の音が。風の音だけが。他には何の音も聞こえない。

私は裸足の指先に触れる。意味も無く曲げ伸ばしする。

(…仮説、その3)

(奴は、羽が生えている以外、体の機能は人並みだ。変異体とは違って、強力な知覚能力は無い)

(…少なくとも、聴覚は)

私は足の裏に触れる。親指の付け根に付いた小石を払う。

(―今、仮説は何個目?)

ふと、自嘲的な笑みが零れる。雲の上に橋を掛ける様な行為だ、と思う。何本の杭が機能している?何枚の橋板が実在している?存在しない勝機の為に―。

(………私は、ありもしないものの為に、梔子とクロの命を賭けてるんじゃないだろうか)

音がする。

―硝子の砕ける音が。

私は、足の裏に付いた砂利を払うのを止める。拳銃を右手に、梔子のナイフを左手に握り込む。拾ったナイフは、散々迷った挙句、柄を口に咥えておく事にする。

(―ポケットに入れてて、咄嗟に取り出せるか、怪しいもんだしな)

目を閉じる。天使の喚き声が聞こえる。私は天使の声も、風の音と同じ様に耳の奥から意識的に締め出す事にする。

「―決して己の欲望を満たす為では無い。これは救済である。我が至上の君はこの箱庭の未来を―」

呼吸を整える。咄嗟に動きだせるように、体の芯をゆっくりと解しながら、足の裏をそっと地面に付ける。コンクリートの冷たさに、一瞬、背筋が跳ねる。

(…位置について、ってか?)

「―たちは毒に侵された腐敗種だ。世界に仇を成す死の種だ。貴様達はいずれ悪鬼に変貌する。何人たりとも、あの光からは逃れる事は出来ぬ―」

(仮説その4)

(奴は殆ど出血もせず、痛みも感じないが、身体機能を失わない訳では無い)

(…羽を傷つければ上手く飛べなくなり、足を削れば、上手く歩けなくなる)

「―少年を差し出せ。そいつは我が“御技”の力を受けた。恐らく助かるまい。そいつの命を差し出せば、お前には手を出さないと神の御名に於いて約束しよう―」

「ら」

ナイフを咥えたままもごもごと、私は呟く。誰にも聞こえない様に。

「簡単な引き算だ―」

(仮説その5)

(杖の先端の宝石が、恐らくは奴の力の源)

(陽の光によって、色が変わる)

息を止める。拾ったナイフの柄を、力強く噛み締める。耳鳴りが聞こえるくらいに。目を開ける。涎が床を汚す。窓に手を掛ける。少しだけ隙間を開ける。耳に全神経を集中する。クロ達は上手くやってるだろうか、と思う。

―待つ。

長い間待つ。時間感覚が狂ってしまった様な気がする。永遠にも思えたし、一瞬だったようにも思える。時間が止まっていた様にも思える。その音が聞こえるまでの間、寝ていた様な気さえする。もしかして音を聞き逃したんじゃとか、クロと梔子はもう死んで、残りは私だけなんじゃとか、悪い想像を、その間に沢山する。

やがて音が聞こえる。

それと、あの声が。

―カン。

「…よぅ、糞長ぇ退屈な説教はそれで終わりかい?間抜けな鳩野郎さんよ―」

私は笑う。

窓を開ける。足音を忍ばせて走り出す。




走る。

体が前に流れる。間抜けな足音がする。右手の拳銃がやけに重たい。足の裏を小石が突き刺す感触がする。けれど、痛みに構っている暇は無い。

―私は走る。

廊下に出る。左手側を見る。真っ二つに切断された508号室の扉と、二足の靴の上で立ち竦むクロと、右の掌を矢で翼ごと窓硝子に縫い止められ、怒りに顔を歪めた天使の姿が目に映る。

私は思わず笑みを浮かべる。

(良い位置だ)

色んなパターンを考えた。色んなパターンを考えた、気がする。なにしろ考えたのはついさっきの事だ。どんなボロや見落としがあるか、自分でも分からない。(天使が階段を上がって来なかったら?)(天使は何を食べる?私達より、空腹に強いか?)(天使が私達を追うのを止めて、建物の周囲を再び巡回する事にしたら?)(時間を掛ける事にしたら?)(各部屋に小さな穴を開け、そこに時間を掛けて、能力の“力場”を少しずつ、流し込んできたら?)(毒ガスみたいに)(…“御技”で消せる量がどんなに少量だったとしても、建物の中を“力場”で埋め尽くせるなら、話は別だ。何しろ、奴の能力は目には見えない。私達の誰かが死ぬまで、延々と能力を建物の中に流し込めばいいだけだ。まるで、毒ガスみたいに…)(目には見えない)(臭いも無い)

(誰かが死ぬ時、音がするだけだ)

出来る限りの事はした、と思う。私の手持ちのもので、出来る限りを。必要なのは接近だ。奴を殺す為には、どうしても奴に近寄らなきゃならない。奴の方が間合いは上だ。おまけに、目には見えない。

―ぺた、ぺた、ぺた。

スナイパーライフルやロケットランチャーでもあれば話は違ったんだろうけれど、生憎そんな物騒なもんは持ち合わせちゃいない。(…手持ちのもので、なんとかするしかないんだ)だから奴に接近する際の盾にする為に、手近の鉄扉を全て開き、血液で偽の動線を描き、クロを囮にして、梔子の矢の射線を通した。(こんなに上手くいくとは、思ってなかったけど…)私は笑う。必死に足を動かす。泥の沼を泳いでいるかのように、体は鈍々としか前に進まない。天使が私を見る。私の方を見ている。手品を初めて見る子供みたいに、純粋な驚きだけを顔に貼り付けて。

(気付かれた)

天使が杖を持ち上げようとする。掌を窓硝子に矢で射留められ、中々上手く行かない。天使が何か良く分からない悪態の言葉を吐く。私はその間に奴との間合いを詰める。506号室の前を擦り抜け、507の扉の傍に身を寄せる。拳銃が掌の中で少しずつ重さを増していくように感じる。体重が前に流れる。足の動きを止められない。頭の中で血液がどくどくと音を立てて流れる。天使が杖の先端を、僅かに私の方に傾ける。507の鉄扉の1/4が消滅する。扉から手を離して、私は走る。梔子のナイフを握った左手を添えて、不格好に拳銃を構える。

天使を見る。

(………糞)

気付く。天使の喉と、それから、梔子が足に負わせた筈の矢傷が見当たらない事に。(…仮説その3´。天使の体は人間にだけ。全く同じでは―)(ジェンガ)(仮説のジェンガ)(―。腕を切っても、足を切っても、無駄)

(………私は、ありもしないものの為に、梔子とクロの―…)

引き金を引く。

音は聞こえない。耳鳴りがする。銃が硝煙を吐く。薬莢を排出する。天使が少しだけ、驚いた様に眉を上げる。銃弾は何処かに消える。私はもう一度引き金を引く。天使の白い杖先の、赤い宝石を狙って。後一歩踏み出せば、天使に手を触れられる距離だ。流石にこの距離なら、私だって外さない。

引き金を引く。銃声がする。そして、音がする。

あの音が。

―カン。

音が聞こえる。今度は私にも、ハッキリとその音が聞こえる。希釈された絶望が私の胸の内側に小さく湧き出す。(仮説その1´。奴は“御技”を連続して使う事は出来ない。問題なのは距離だ。宝石の近くでは、素早く小範囲になら連続して…)(―仮説その2)(奴の能力は“力場”だ。見えない力場)(奴はそれを伸ばして使っている訳だ。だから…)(杖先に近ければ近い程、奴は能力を繰り返し…)

引き金を引く。杖先を狙う。

―カン。

「無駄だ、小娘」

私は拳銃から左手を放す。天使に歩み寄る。もう、天使と抱き合うことだって出来る距離だ。この距離なら、私にだって片腕でも的に当てられるだろう。天使の、私を小馬鹿にする顔も良く見える。

―私は笑う。

「おい、カナエ―」

引き金を引く。

―カン。

(…あと、銃弾は何発?)(マガジンの中には8発)

(これが最後のマガジン)

私は拳銃を握り締める。左手でナイフを持ち直す。音がする。心臓の音が。

(仮説のジェンガ。在りもしないもの)

(杖。“御技”。人型。赤。血)

引き金を引く。手が痺れる。白い杖の先端の赤い宝石に銃弾が触れた瞬間、宝石の表面が波打ってあの音がする。何事も無かったように宝石はそこにある。皮膚を火薬の熱が焼く。チリチリと痒みを伴う痛みを感じる。

―カン。

私は拳銃を構える。深く息を吸い込む。左手でナイフを振り上げる。

「だから小娘、無駄だと―」

(今ので、4発?5発?)(後何発あるの?)(血)(血液)

(仮説その6)

(天使の出血は、どうしてあんなに少ない?)

ナイフを振り下ろす。

天使が右手に握る、白い杖のに。

音がする。ザクッ、と音が。掌に手応えを感じる。刃の先端が杖の幹に食い込む。木よりも柔らかく、肉よりも硬い感触。表面は布の様で、内側はもう少し密度が高い。ナイフを手前に引く。ナイフは然したる抵抗も無く、幹の中枢に食い込んでいく。

(…なんか、牛蒡みたいな感じだな)

杖から血が噴き出す。体から流れ出たどろりとしたものと違う、赤く、温かく、勢いのある血が。大量の血が、梔子のナイフと私の掌を汚す。私はナイフの刃を押し込み、もう一度手前に引く。丁度、鋸で木を切るみたいに。右手で拳銃を持ち上げて、宝石目掛けて引き金を引く。音がする。

―カンッ。

(弾は後、3発か4発)(それか、2発かも)

(仮説その1´。奴は“御技”を宝石から離れた位置では、連続して…)(―…仮説その2。奴の能力は“力場”だ。見えない力場…)(見えないジェンガ。仮説のジェンガ)(奴には銃弾が尽きるまで、能力を防御に使って貰う)(仮説その5)(杖の先端の宝石が、恐らくは奴の力の…)

私は右手で拳銃を構える。天使がそれを阻止しようと、左腕を振り上げる。私の背後から飛んできた矢が、その腕を壁面に縫いつける。

(…梔子)

引き金を引く。音がする。

―カン。

(仮説その6)

(天使の出血は、どうしてあんなに少ない?)

(天使の余裕の理由)(聖狩)(変異体が天使と相打つ理由)(痛みを感じない理由)(理由、理由)(咽を撃たれても死なない理由)

(人の形をしている理由)

ナイフを杖に喰い込ませる。壊れた蛇口の様に、私が杖に刻んだ刃傷から、血液が後から後から噴出する。私は天使の顔を見る。天使は引き攣った笑みを浮かべている。目は眼球が飛び出さんばかりに丸く見開かれ、緩んでいた唇は、やがて、震える顎と共に、大きく口を開いて―…。

「やめろ、娘。わたしは、」

―私は笑う。

(理由)

(理由は、きっと簡単)

(天使は、元は人間だったから。。天使は、人間の死体を使って生まれる)

(死体だから、出血も極端に少ないし、咽を撃たれても死んだりしない。死んでも、別の死体に移れば良いだけだから、余裕もあるし、変異体にも相討ちする様な攻撃を仕掛けられる)

(仮説その5)(杖の先端の宝石が、恐らくは奴の力の―)

(天使が人間と違うのは、羽と、杖。中でも杖はより異質だ。先端に付いた宝石は、超常の力、“御技”を生み出す)

(杖の先端の宝石が―)

(体の方が飾りなら、多分、こっちが本体なんだろう)

(、)

「―はは、死にたくなけりゃ、一生お空の上を飛んでるべきだったな、天使。誰にだって爪と牙はある。誰にだってな。知らなかったのか?」

―口を開く。咥えていたナイフを取り落とす。地面に落ちたナイフが火花を点てる。私は口笛を吹いて、拳銃を構える。引き金を引く。音がする。

―カンッ。

丁寧に、力を込めて、その白い杖を鋸引いていく。

「ああああああああああああああああああああ貴様、こんな事をして、神、神がお許しになると―!」

「残念だったなぁ、お前はここで終わりなんだ。ま、精々、お前のかみさまに祈ってみるといいさ」

私は嗤う。杖を刻みながら、鼻歌を歌う。血が私を濡らす。

温かく濡らす。


―どこか遠くで、笑い声が聞こえる。


「はは、あははは、はははははは、はははははははははハハハハハハハハ、ハハハハハハハハ―」


「…大丈夫か?」

私は掌を見る。

左手の掌を見る。左手の指先から肩の下辺りまで、私の腕はさっきまで血の池で泳いで来たみたいにひたひたに濡れている。髪の毛と左頬にも、血が付いている感覚がある。私は掌を流れる水滴を見る。3粒の水滴が手相の皺に沿って手首側に流れていく。私はそれをぼんやりと眺める。眺めながら、このコートはもう着れないなぁ、とか、シャワーを浴びたいだとか、帰り、どうやって、何を着て帰ろう、とか、そんな風な事を、漠然と考える。

(…今度から、着替えも持ってくるべきかな…)

「おい、なぁ、カナエ?」

声がする。

声のする方を見る。二足の靴、私の靴と梔子の靴の上から下りて、クロが私の足元に歩み寄って来ている。床の血溜まりを爪先立ちで避けて、血の臭いに顔を顰めて。私は笑みを浮かべる。クロの頭に左手を伸ばしかけて、自分の掌が血塗れだった事を思い出す。手を引っ込めて、窓の外を見る。太陽が西に傾いて来ている。(今何時だろう。10時前に“タウン”を出て―)(お腹減ったな…)(随分時間が経った気がする。ほら、太陽もあんなとこに―)西の果てに見える“神の柱”も、茜色の陽光に遮られて少し霞んで見える。緑色の光が目の奥で閃く。何かを少し、思い出しそうになる。

「カナエ―」

「今何時くらいだと思う?」

「は?」

「…時計、置いて来ちゃってさ。多分鞄の中。何時くらいかな?」

「さぁ、そうだな…まぁ、多分、2時くらいだと思うぜ」

「2時?4時は過ぎてるように見えるけど。ほら、もう太陽があんな所に」

「そりゃ…今は冬だかんな。冬は太陽の位置が低い」

「冬?砂漠なのに?」

「煩ぇなぁ、砂漠にだって冬は来んだよ」

煩わしそうに、そうクロは言う。私はクロを見下ろす。クロは私の踵に前足を触れ、私を見上げて、またするりと距離をとる。そのまま梔子の居る507号室に入っていく。私が後を追おうと足を踏み出した瞬間、クロはピタリと立ち止まって、私の方を振り返らずに、言う。

「そのよ。お前………大丈夫なのか?」

躊躇う様に、何度も言い淀んで。

(?)

私は自分を見る。血塗れの左手の先端、人差し指から、血が滴っているのが見える。天使の血とは別の、新しい血。自分の血だ。天使をあの場所に誘い込む為に、偽の血痕を作る必要に駆られて、自分で付けた傷だ。それに、足の裏からも、じわじわと血が滲み出している。(…瓦礫だらけの廃墟を、裸足で走った結果だ)少しだけ、自虐的な笑みが漏れる。今更ながら、ずくずくと痛んで来る。だがまぁ、泣きごとは言ってられない。

(梔子が先だ。傷を負ってから散々連れ回した。天使の野郎も致命傷だと言ってたっけ。けれど、傷の具合を見てみない事には分からない)

「大丈夫よ。体は丈夫な方なの」

クロが首を振る。何か言い返そうとするみたいに、深く息を吸い込む音が聞こえる。だけど結局、穴の開いた風船の様に長々と息を吐き出して、クロは一言、こういっただけだった。

「―ならいいんだ。靴を履いて、こっちに来い。小僧の様子を見てみよう」

「分かったわ」

「小僧の靴も持ってきてくれ」

「分かってる」

クロの姿が室内に消える。私は靴を履く。素足のまま靴を履く。私の血で汚れない様に、右手の指先に梔子の靴を引っ掛けて、507の方へ向かう。途中、天使の死体の方に目を向ける。彼はピクリとも動かない。最初から生きてなどいなかったかの様に。口を開けて、目を開いて、壁に磔になって彼は動きを止めている。白い杖の上部、握り手から上は、切り落とされて床に転がっている。杖の切り口からは、未だ壊れたスプリンクラーみたいに少しだけ血が噴き出している。死亡直後で、全身の筋肉が弛緩している所為か、天使の掌が少しずつ開いていく。天使の右の掌の内が窺い見える。白い杖は天使の右の掌に、まるで枝に付く蟷螂の卵の様に、何重にも白い膜を杖から出して、掌の皮膚と癒着している。私は天使の死体の前を通り過ぎようとする。ふと、切り落とした天使の杖の先端が目に映る。

私は梔子の靴を床に置く。

ポケットから靴下を取り出す。片方の靴下を。それを裏返し、右手に嵌めて、床に落ちている杖の先端を拾い上げる。それを日に翳す。陽の光を受けて、宝石は緑色へと姿を変える。

私はそれをそのまま靴下に包み、自分のポケットに入れる。

「おい、カナエ―?」

「今行く」

私は梔子の靴を拾い上げる。507の室内へと向かう。


「小僧」

クロの声が聞こえる。

「無事か、小僧?傷の具合はどうなんだ、え?」

部屋に足を踏み入れる。薄暗い部屋の廊下で、梔子は足を力無く前方に投げ出し、壁に背中を預けて座っている。顔色は青白いが、呼吸の方は規則正しい。一先ず、直ぐには天使の言う通りにはなりそうも無い、と分かって、ホッとする。

(そいつは我が“御技”の力を受けた。恐らく助かるまい―)

―ビリビリ、と布を引き裂く音がする。梔子が、自分の外套を破る音だ。梔子は布を素手で、慎重に少しずつ切り取っていく。恐らく止血帯を作る積りだろう、と私は思う。私は借りていたナイフを梔子に返そうとする。(流石に素手でやるのは、キツいだろうし―)…持ち上げたナイフが、元の色が見えないくらいに血に塗れている事に、今更ながら気付く。(…こりゃひどい)どうせこれを着たままは帰れないと、開き直ってコートの裾で血を拭う。あっという間に、コートの色が赤く変わっていく。時折、コートの値段が、私の脳裏にフラッシュバックする。

(―ああ、8552円…)

ナイフの柄の部分の汚れを、漸く綺麗に拭い去る。(次は、刃―)

衣擦れの音がする。

(?)

私は顔を上げる。

梔子がマフラーを解いている。

(―)

梔子は緑とオレンジのマフラーを、半分に千切ろうとしているらしい。(…確かに、長さ的には問題ないだろうけど…)半分を口元へ、半分を血止めの布を留めておく、帯へ。だが、道具が何も無い所為で、作業は難航している様だ。私は素早くナイフの刃を肘の内側に挟んで拭い、梔子にそれを渡そうと、口を開ける。

そして、見る。

梔子の口元を。

見通しの悪い薄暗い室内でも、その突き離す様な硬質な輝きは、嫌でも目に映る。(?)(鉄―?)梔子の口元が、陽光を白く反射する。(…針金?)梔子の唇が、太い針金の様なもので歪に縫い合わされているのが見える。

私は言葉を失う。

(?)

(なんだ、)

(なんだこれ)

(い、ったい、何…?)

立ち尽くす私に気付かないまま、梔子は外套の前を開け、内側のシャツの裾を捲り上げる。シャツの内側から一筋の血が流れる。私は血の流れを目で追う。下から上へ。何かが梔子の肌に張り付いている。(何だ?)影になっていて良く見えない。白い棒線状のものが上下に組み合わさっている様に見える。その下から少しずつ血が漏れ出している様に見える。

(…骨?)

(骨の―鎧?)

(お守り?)

梔子はその白い、骨の様な物の上から、外套とマフラーを千切って作った止血帯を押し当てる。

「どうだ?血は止まったか?まだ痛ぇか?倒れそうだとかよ、その、ヤバい感じはあるか?ヤバいっつうのはよ、ああ、例えば―あ、テメエ、何しやがる、カナエ!」

足元でちょろちょろと小煩いクロを、私は腕の中に抱き上げる。梔子から借りていたナイフを彼の方に無言で差し出す。梔子の目元が、少し動揺に揺らいだ様に思える。私はそれに気付かないふりをして、部屋の外の方を向く。

「天使は倒したわ」

私は小さな声でそう言う。少し間を置いて、梔子はこくりと頷く。

「ああそうだ、外には野郎の死体が磔になってる。後で見るといい。鞄を取りに行くついでにな」

まるで博物館の展示品の話をするように、私の腕の中で、クロはのんびりとそう言う。その様子が可笑しくて、私は少し笑う。梔子は困った様に苦笑いを浮かべる。止血帯代わりのマフラーを強く結んで、彼は素早くシャツの裾を下ろし、外套を体に巻き直す。口元のマフラーを、鼻先に掛かるぐらい高く、引き上げる。

梔子と目が合う。

猛禽類の様な金色の目が、困った様に、自信無さ気に、不安がる様に、しょぼしょぼと繰り返し、瞬きをする。私は微笑みを浮かべて、彼に手を差し出す。

(…今まで)

彼はぎこちなく、ぶかぶかの革手袋を嵌めた手で、私の手を握る。私はその手を引っ張り、彼の体を引き起こす。擦り落ちるマフラーを慌てて鼻先に引き上げて、困った様に彼は目を細める。

(今まで一体、どんな人生を歩んで来たのだろう、このひとは)

考える。彼の目を見て漠然と考える。形にもならない何かを考える。

腕の中で黒猫がぼやく。

「―兎に角、こんなとこからさっさとオサラバしようぜ。俺ぁもうこんなとこ、1秒だって長くいるのは御免だ」

「…まぁ、それもそうね。それについては、同感だわ。荷物を回収して、それから、あのトラックを―」

―音が。

音がする。

(?)

私は部屋の入口の方を振り返る。窓の外から音がする。最初に気付いたのは梔子だった。次にクロ、最後に私だ。それに気付いた人から、窓の外へ目を向ける。その音に気付いた人から。

―ブロロロロロ…。

(…エンジン音)

(?)

クロを見る。それから、梔子を。どちらも、不安と混乱を混ぜ合わせた様な表情を浮かべている。多分、私もそうなんだろう、と思う。(エンジンだ)分かっていても、口にする事が出来ない。分かり切っていても。車だ。車の音だ。それも、一台や二台じゃない。

―十数台もの、車の群れの音がする。

私達は会話もそこそこに、手近な荷物を拾い集めて、外に出る。天使の死体を尻目に、廊下を走る。窓の外を見る。

窓の外には車が見える。濛々と土煙を上げて、何台もの車たちが、あの石油トラックが横たわる、乾川の底に現れる。


川底を歩く。

横転した石油トラックの周りを取り囲むように、15両程の車が好き勝手に停められている。車種の方も、一様に大きいという点を覗けば、種類は様々だ。モンスタートラック、、4WD、大型トラック、等々。どの車両にも誰も人が乗っていない。私は車両の内側を覗きながら、乾いた川底を進んでいく。

―石油トラックの周りに、人だかりが出来ている。

大勢の人がいる。20人強、といった所だろうか。皆屈強な男達だ。誰も私の方に目もくれない。彼らは鉤縄の様なものを何本も石油トラックの出っ張りに引っ掛けていっている。ふと、彼らの中に、見た顔を見掛ける。ぼさぼさの髪、首に掛けている煤けたゴーグル、薄汚れて、所々油でテカッている、節くれ立った指、馬の様に、左右に飛び出した目。

(…スパーク。“車屋”のスパーク)

スパークが横転した石油トラックの運転席に入っていくのが見える。多分、エンジン回りがちゃんと稼働するか、チェックの為に呼ばれたのだろう、と私は思う。動かなかったら、別の方法で車を“タウン”まで引っ張っていかなきゃならない。

(…その為の、沢山のこの車両、って訳だ)

(気に入らない)

ジープの傍らに立つ。クロと梔子の。あの時は慌てていて気が付かなかったが、どうやら消されたのはタイヤじゃなくて、タイヤと車軸を繋ぐボルトを消されていたらしい。(…糞、分かり辛いとこ消しやがって)(間違い探しは苦手な方なんだよな)(まぁ、タイヤを丸ごと交換するより、修理費は安く済む…のか?)ジープの後部座席に、私のナップサックがある。私はそれを拾い上げ、鞄のジッパーを開ける。中から二つの9mmマガジンを取り出す。ひとつをポケットに入れ、一つを銃に装填する。スライドを引き、安全装置を掛ける。拳銃をポケットに落とし込む。ナップサックのジッパーを閉じ、それをジープの座席に置き直して、私は乾川の西岸を目指す。

西側の岸、石油トラックの上辺りに、男が一人立っている。川底に集まる男達よりも、輪を掛けて体躯の大きい男だ。私の胴くらいありそうな腕、良く陽に焼けた褐色の肌、禿頭、サングラス、葉巻。偉そうな野郎だ、と思う。まぁ、実際に偉いんだろうが。少なくとも、川底の奴らの陣頭指揮をとっているのは、その男だ。

先に登った彼らの足跡を追って、私も川の西岸へと上がる。偉そうな男の傍に、クロと梔子が居る。何やら立ち話をしている様だ。楽しく会話をしているという雰囲気ではない。クロが男に詰め寄る。偉そうな男の後ろには、二人の護衛が控えている。アサルトライフルを持ったクルーカットの男と、バカでかいリボルバーをぶら提げた、野良犬の様な男だ。クロが何か言う度に、二人の銃口がピクピクと上向く。良い兆候ではない、と私は思う。

「―ふざけんな、ええ!?約束が違うぞ、“車屋”の旦那―…!」

“旦那”、と呼ばれた偉そうなサングラスの男は、煙をゆっくりと燻らせながら屈み込み、クロの鼻先で笑顔を浮かべる。

「約束?何の事だ?」

「テメエ―…!」

「忘れているのはお前の方じゃないのか?え?化け猫。契約を思い出せ。あんなに話し合ったじゃないか。俺とお前で、あんなにな。契約内容は、どんな風だった?」

「それは―、」

「こうだ。教えてやろう、変異体の尖兵。契約内容はこうだ。簡単な内容さ。立ち往生した石油トラックを“タウン”まで持って帰ってきたら30000。成功時、危険の度合いに応じて別途報酬を付加。また、必要経費を別途支給―」

「…旦那、でも、それじゃ…」

「―思い出したか?まぁそうじゃなきゃ困る、お前のその小さい脳味噌にも収まる様に、分かり易い内容にしたんだからな」

「…でも、俺達が天使をなんとかしなきゃ、あんた達だって、ここに来られなかったじゃないか…」

「そうだな。でも、それは契約に含まれていない」

“車屋”はわざとらしく肩を竦め、立ち上がる。

「お前らが勝手にやった事だ。そうだろ?」

私はふたりの護衛の間を通り抜け、“車屋”の傍を擦り抜け、黒と梔子の隣に歩み寄る。梔子は半分になったマフラーを擦り上げ、悲しそうな、諦めた様な表情で、私を見る。クロは私を見ない。自分の前足をずっと見下ろしている。地面に爪を立て、歯を剥き出して、耳の内側を真っ赤に充血させている。その背中が酷く小さく見える。今までだって、十分小さかったけれど。

私は“車屋”を振り返る。

「最初からその積りだったの?」

“車屋”はサングラスを外して、私を見る。意外に目元に皺が多いんだな、と思う。若々しい肉体や言動とは裏腹に、結構年齢を重ねているのかもしれない。“車屋”はニッ、と人懐っこい笑みを見せ、言う。

「あんた、誰だ?」

「彼らの仲間よ」

「…そうか、あんたが、あの。いや、部下が噂してたもんでね。ああ、大した噂じゃないよ、心配しないでくれ。ただ、あんたは“タウン”じゃ、今や―」

「―質問に答えて。最初からその積りだったの?私達を囮にして、その内に商品を回収する」

クロが顔を上げる。“車屋”を見る。私はポケットに手を入れる。拳銃に手を触れる。鉄の冷たさに安心する。

「…人聞きの悪い事言わないでくれるかな、お譲ちゃん。いや、中々の器量良しじゃないか。金が入り用なら、こんな危険な仕事じゃなくて、もっと楽に稼げるのを紹介してやれるぞ?知り合いの店でな、“ハニートラップ”ってんだが。お譲ちゃんならきっとナンバー1になれる。肉付きの悪いのが難点だが―」

「答えて」

私は拳銃を抜く。“車屋”に向け、安全装置を外す。“車屋”の表情が静かに変わる。護衛の二人が銃口を跳ね上げる。背後で梔子がクロスボウを構える音がする。“車屋”はサングラスを掛け直し、口元に余裕の笑みを浮かべる。クロが顎を諤々と震わせ、驚きに目を見開いて、恐る恐る、私を見上げる。

「な、な、な、な、な―」

―私は笑う。

「…中々過激な譲ちゃんだね」

「良く言われるわ」

「それで、どうする積りかな?俺を殺すかい?そりゃ無理だと思うけどね。譲ちゃんがどんな凄腕かは知らないが、なんせ天使と遣り合った後だ、疲れもあるだろう。それに、君の後ろのガキは、怪我してるみたいだし」

「そうね」

私は銃口を“車屋”から外す。“車屋”の護衛が、拍子抜けした表情を浮かべて、銃口を地面に向ける。

私は引き金を引く。

―ガン。

石油トラックへ向かって。

「―な、な、な、な、な、な―」

護衛が慌てて銃口を私に向けようとする。私はもう一度引き金を引く。石油トラックのタンクの表面を、銃弾が跳ねる音がする。川底に居る男達が、戸惑った様に私達を見上げる。私は唇の前で人差し指を立てて見せる。

「動かないで」

護衛は尚も銃を持ち上げようとする。「―な、な、な―」私は拳銃の引き金に力を込める。“車屋”が右腕を上げて、大仰に部下達を制する。

「待て」

「おやっさん、しかし―」

「待てと言ったんだ。聞こえなかったか?」

その一言で、護衛達は押し黙る。「お前らもだ!さっさと作業に戻れ!」川底に居る男達に向かっても、“車屋”は檄を飛ばす。少々不安そうな表情を浮かべながらも、男達は各々さっきまで取り掛かっていた仕事に戻っていく。“車屋”の声を聞いてか、トラックの運転席からスパークがひょっこりと顔を出す。状況を知ってか知らずか、スパークは私達を認めると、鷹揚に手を振って見せる。思わず苦笑する。

「―な、な、な、な、な―」

「黙って、クロ」

「黙ってって、お、お前ぇへぇ…」

“車屋”へ目を向ける。“車屋”は相変わらず笑っている。サングラスの所為で、目元の表情は読み取れない。けど、内心穏やかじゃない筈だ、と私は思う。

(―願望かもしれないけど、これも)

「あのトラックを渡すのには条件があるわ」

「いらないと言ったら?」

「爆破する」

私は手の中の拳銃を振って見せる。“車屋”の口元は相変わらず笑みを浮かべている。

(…喰えない野郎だ)

「何発でガソリンが引火するか、試してみる?そうなったら、失うのはガソリンだけじゃない。あのトラックの周りの奴らは、“車屋”の従業員じゃないの?あんたの馴染みのディガーは大抵死んだって聞いた。天使に殺されてね。あんたの店がどれ程か知らないけど、一度にあれだけ失って、果たして無傷でいられる?」

“車屋”は葉巻を口から離し、少しずつ煙を、空中へ吐き出す。

「…あれだけのガソリンが爆発したら、あんただって無事じゃ済まない。そう思わないか?」

「構わないわ。死なば諸共よ。私達は命を掛けた。なのにあんたは、報酬を払わないと言う。多少捨て鉢になっても仕方ない状況だ、そう思わない?」

(…思わないな、私なら)

(頼むから思ってくれ)

(我ながら微妙なハッタリだな、畜生…)

―手の中にじんわり滲む汗を、精々悟られないように、願う。

(…クソ、3発目は撃たせるなよ)(せっかく生き残ったのに、こんなとこで死にたくない―)(さっさと交渉のテーブルに着きやがれ)(ガソリンのタンクって、どのくらい頑丈なんだろう?)(もし、中で既に、引火してたりしたら―)

下唇を噛む。想像しない様に。その先を考えてしまったら、もう撃てなくなる予感がする。(引き金を引くのに躊躇したら、)私は“車屋”の後ろに控える護衛二人を見る。(もう撃てなくなるだろう。その隙を、奴らが見逃してくれるとは思えない)

―“車屋”は葉巻を指先でくるくると弄びながら、無言で私達の方を眺めている。口元に笑みを浮かべながら。(…この野郎)衝動的にその男の顔面をブチ抜きたくなる。タンクが発火するまで、銃弾を撃ち込んでやりたくなる。(やめろカナエ、そんな事をしたら―)(今日やった全部が無駄になる。今日生き残った事が無駄になる)(…彼らの努力が無駄になる)

(彼らは“タウン”で生きていく事を決めた。クロと梔子は。良い事より、悪い事の方が多かったろうに。だったら、私がそれを―)

(…私がそれを、邪魔するべきじゃない)

「成程ね。条件は?」

(来た)

―返答や口調が、早くなり過ぎないように注意する。

「…条件は3つ」

「3つ?随分多いな」

無視する。

「1つめは、正当な報酬よ」

「正当な報酬、ね?悪いが30000は払えないな。契約内容をちゃんと確認しなかった、そっちが―」

「払えない、ね。分かってるわ」

“車屋”の笑みが、そこで初めて途絶える。サングラスを下げ、内側から掬いあげる様な視線を私に向ける。背筋が少し震える。これが彼の本当の顔なのだろうか、と私は思う。

「どういう意味だ?」

「そのままの意味よ。払う余裕が無いんでしょう?」

私は微笑む。クロが展開に付いていけない、といった様に、眠たげな視線を私に向ける。二人の護衛も、戸惑った様にお互いを見やる。

“車屋”は笑う。煙草の脂が染み付いた、黄色い歯を剥き出して。

「…あなたは気前がいいって聞いたわ。支払いで揉めた話は聞いた事が無い、って。そんなあなたが、報酬でトラブルを起こすのはどんな状況?私達に金を払いたくないのは、私達が“タウン”の鼻抓み者だから?違うわよね。それだけじゃない。今回の件で、あんたの馴染みのディガーは何人死んだ?10人?11人?その内の何人に、気前の良いあんたは前金を支払った?」

「…」

「今回の件、あんたから持ち掛けて来たって聞いた。最初から、報酬を払わない積りだったのかは知らないけど。でも、こうして店のトップのあんたがここまで来てるんだ、もしかしたら他の場所でも同じ事が起きているんじゃない?ガソリントラックが“タウン”に到着せず、主力商品の入荷が途切れて、焦ったあなたは所在が分かっていて一番近いここに、囮として私達を送り出した―」

「…は」

“車屋”は笑う。

少し疲れた様に。

「妄想も、そこまで行くと上等だな、譲ちゃん。御託は良い、一体幾ら欲しいんだ?」

「8000。経費別でね」

「2000だ」

「冗談はやめて。7200」

「譲ちゃんこそ吹っ掛け過ぎだよ。依頼の相場を知らねえのか?3100」

クロが幽霊でも見る様な目で私の事を見る。護衛の二人は話の行方に困惑した様に、足を踏み変え、自分達のボスと私を見比べ、手持無沙汰に銃を揺らしていたが、どうやら私達が合意の着地点を探そうとしているのを察すると、各々銃を背中やベルトの隙間に片付けてしまった。野良犬に似た男は大きな欠伸をすると、ボリボリと尻を掻きながら川底を眺め、クルーカットの方は胸の前で腕組みをすると、梔子にドスの利いた声でこう声を掛ける。

「―おい、そのボウガンをとっととむこうに向けろ、化け猫の子分のガキ」

「6900」

「遠慮ってのを知らないのかい?3900」

「生憎教えてくれる人が居なかったの。6500」

「おい、一体―」

「手ごわい譲ちゃんだな。4300」

「一体こりゃ、何の―」

「クロは黙ってて。6200」

「まいったな。経費込みで5800。これでどうだい?」

(急に寄せて来たな)(どうする?)(もしかしたら、妥協点はもっと上だったのかも。買い叩かれた?)

(ここら辺が落とし所…か?)

「経費は別よ」

「…手厳しいな。まぁ、良しとするか。経費は別途計上して報告してくれ。但し、上限を設けさせてもらう。買ってもないものをずらりと上げ連ねられたらキリが無いからな。上限は300、経費として認めるのは、“”で確認できる足代と、にゃ必須の弾代のみだ。それで文句はないな?」

「…ええ」

パン、と胸元で、両手を打ち合わせて、“車屋”は笑顔を浮かべる。「良かった。取り敢えず商談成立だな」私はその笑顔を、疑る様に見る。(…経費の上限は300)(弾薬代は、確か100ちょいだ。ガソリン代だって、この距離じゃたかが知れてる)(上限は300)(…購入先を調べる積りか?“タウン”に銃砲店がどれだけあるかは知らないが、購入した店を見つけ出すのは難しい事じゃないだろう―)(自分で言うのも何だけど、目立つ2人と1匹だ)(足取りを追うのは難しい事じゃない。“Safety”の主人だって、私達の事を良く憶えてるだろう)(…素敵な思い出、ってヤツだ)(でも、一ディガー相手に、果たしてそこまでするだろうか?)(300)(ただの、気前の良さの表れか?裏は無い?だとしたら、私がさっき言った事は、本当に妄想なのか?)(けど、大店の店主が命の危険を冒してまで、現場で陣頭指揮を執る、支払いで揉めた事の無いという評判の男が、その信用を踏み倒してまでも、報酬の支払いを拒否する。それは一体、どんな状況?)(クロ達に、金を払いたくないだけ…?)

「―で、他の条件は?」

「…2つめは、“車屋”での、私達の車両の整備を優先する事」

「驚いたな。まだウチを利用してくれんのか?」

「―その積りよ。他に目ぼしい店も無い事だし。大手なだけあって、サービスは悪くないしね。でも、私、待たされるのは好きじゃないの」

「分かったよ。下の奴らにも言っとく。何か手形みたいなもんも必要かい?」

「別に要らないわ。あなたが部下達に徹底してくれるならね。それで、3つ目は―…」

私は梔子を見る。梔子は立っている事がしんどくなったのか、西岸の地面に座り込んでいる。ボウガンの先端が、未だ迷う様に、“車屋”達の方を漠然と彷徨っている。顔色は悪くない、と思う。少なくとも、死に掛けの人間には見えない。

(…もう一度、取りに来るのは手間だよな…)(梔子も、随分顔色が良くなったように思う)(でも、お腹の傷…)(お腹の傷は危険だって、何かで聞いた事がある)(重要な臓器が集まってるからだとか…)(どうする?)(無事に見える)(出血はあったけど)(防具を着けている様に見えた。お腹の辺りに、骨を横に並べて作った様な、白い何かが)

クロを見る。クロはぼんやりとした顔で宙を見上げている。半開きに口を開けて、殆ど夢遊病者みたいな面だ。よっぽど報酬の件がショックだったのだろう。(…無理もない。30000が、気付けば5800だ)この状態のクロにまともな判断を期待するのは、ちょっと酷と言うものだろう、と私は内心苦笑する。

(…やれやれ。あの建物の中じゃ、ちょっとは恰好良かったんだけどな…)

私は指をさす。拳銃を石油トラックに向けたまま。

私達の乗ってきたジープの方を。

「…車の修理をしてくれる?天使に足をやられてね。“タウン”へ歩いて帰るには、ここは少し遠いわ」


「怒ってるか?」

私は工具箱から顔を上げる。工具箱の中身を意味も無く触る。私の傍にはクロが居る。クロは俯いて地面に座っている。時折巻き起こる砂埃を、鬱陶しそうに尻尾で追い払う。

「…怒ってんだろ」

クロが言う。

遠くから威勢の良い掛け声が聞こえる。「―おら、後ひと踏ん張りだ野郎共!これが終わったら宴会だぞ、井戸水でキンッキンに冷したビールを奢ってやる―!」“車屋”達の声だ。どうやら縄を車体に掛け終わり、今からトラックを引き起こす所らしい。

「…何を?」

私達は彼らから離れた所に集まっている。私達のジープの傍らに。既に石油トラックの方ではお役御免になったのだろうか、ジープの修理にはスパークが来てくれていた。(…こりゃ、何の嫌がらせだ?)私とスパークの、この間の一件を知ってのことだろうか、と邪推する。(いや、一従業員のイザコザなんて、一々店主の耳には入らないだろ…)(そうでなくても、トラブルの種が多そうな奴なんだし)(被害妄想だ。考え過ぎだぞ、カナエ…)修理を始める前に、スパークに耳元でこう囁かれる。

「実は、あのハイヒールを持って来てるんだ。あの、赤いハイヒールをね」

―全身の毛が総毛立つ。

けれども、スパークがそこから私に何をするという事も無く(それはそれで気味悪いが)マイペースに彼は車の修理を続けている。「ライト」時折、スパークは短い単語を口走る。その度に梔子がちょろちょろと走って行って、彼の手元にその単語の示すものを届ける。「照らして」微笑ましい光景、に見えなくもない。(…相手が、あの変態じゃ無ければ、だけど)(職人気質の男と、その小さな部下、って感じで…)修理は二人の手で特に滞りも無く進んでいる様だ。必然的にやる事の無い私は、工具箱の側にしゃがんで、ぼんやりと時間を流れるに任せる。

「何を―…って、分かってんだろ?その、俺が―俺の…、」

(俺)

「…今回の件だよ。俺の所為だって…」

「―別に、思ってないわ」

「嘘だ。思ってんだろ」

「思ってないって」

「声が不機嫌じゃねぇか」

「これは生まれつきよ」

クロが押し黙る。私はチラリとクロの様子を見る。クロは無言で地面を眺めている。時々前足で、力無く地面を掘る。

「ああ、こりゃ、無茶苦茶だな。一体こんな風になるまで、どれくらい乱暴な運転をしてきたんだか。一度、ちゃんと整備をした方が良いぞ、小僧。化け猫にもそう言っとけ。取り敢えず、街まで走れる様にはしてやるがな―…」

梔子は頷く。マフラーを引き上げる。

私は欠伸をする。

「…俺が」

(?)

「依頼を取って来るのぁ俺の役目だ。梔子は喋れねェからな。交渉も俺の役目だった。あいつの代わりに、俺ぁ喋って来た」

「…」

「30000だ。大金だった。しかも“車屋”の依頼だ」

「…そうね」

「船長は」

「?」

「―船長だよ。覚えてねェのか?“海”の傍に住む、片足の船長だ」

「覚えてるわ。船長が、何?」

「船長は、ディガーだった」

「…ええ、聞いたわ」

「ディガーで一山当てて、で、海を作ったんだ。あの“海”を。あそこは昔、腐りかけの沼みたいな場所だったんだとよ。塩っ辛いだけの、死に掛けの水溜りだ。でも、船長は、稼ぎであそこを改造した。最初は皆、馬鹿だって笑ったぜ。でも、水草を植えて、死体を水揚げして、乾燥させて肥料や餌に、それから、“海”の中に、流れを作ったりしてよぉ。1年過ぎる頃にゃあ、魚が市場に並ぶようになってた。新鮮な魚だ。安全な稼ぎ場。銃弾もナイフも無い。船長は海を作ったんだ」

「…」

「船長の最後の仕事ぁ、ガソリンだった。大量のガソリンを見つけて、それを“車屋”に売り付けた…」

クロを見る。クロは未だ俯いている。その肩が、時折我慢出来なくなった様に、ピクピクと震える。私は手を伸ばして、彼の背中を撫でる。手の甲で撫でる。

「―俺ァ、」

クロの声が震える。私は黙っている。

「俺ァ、小僧にも海を買ってやりたかったのに…」

―何も言う事を、思い付かなくて。

ぼんやりと、梔子達を見る。スパークと梔子の方を。梔子達はどうやら、ジャッキで車体を持ち上げる所らしい。車輪が唯一無事だった、左後輪に車留めを噛ませて、梔子がジャッキでジープを起こしていく。「良いぞー、小僧」暢気なスパークの応援が乾いた川底に響く。梔子は困った様に笑い、額の汗を拭って、再びジャッキアップに取り掛かる。

「次が、」

と、私は言う。そんな積りは無かったのに。

―勝手に口が動くって言うのは、こういう事を言うのだろうか、と思う。

「また次があるわ」

「―次ィ?そんなもんがあるのかよ?そんなものが、本当に?」

クロは言う。馬鹿にしたように、そして何処か、ヒステリックな調子で。

私は笑う。

「あるわ。私達は死んでないんだから。確かに今日死に掛けたけれども、死んでないって事は次があるって事でしょ。それに」

「………それに?それに、なんだってんだ、あぁ?」

「私達は結構良いチームだって、クロも言ったじゃない」

私はそう言って、クロを見る。クロも漸く顔を上げる。顔を上げて、私を見る。彼の金色の目の中は驚きに満ちている。綺麗な目だ、と私は思う。今日の所はその目と、半額以下になった報酬で満足する事にする。

クロが下を向く。何事かを呟く。私は笑みを浮かべる。

意地悪な笑みを。

「―え、今何て言ったの、クロ?」

「…煩ぇよ、根が能天気な野郎は気楽でいいな、っつったんだ」

「そんな風には聞こえなかったけど。ね、もう一回言って?」

「もう二度と言わねぇ」

「そんな事言わずにさ。ね、もう一回―」







いまいちフォーラムのつかいかたが分かりません。ひょっとしたら変になっているかも…。

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