#1
―以前の私の中には、色々なものがあった様な気がする。
“…やっぱり、中止にしよう。今からでも”
“何故です?”
“これをしたら、君は自分がどうなるか、本当に理解しているのか?”
―喜び、悲しみ、妬み、寂しさ、尊敬、無関心、慈しみ、焦燥―。
色々なものがあった。
あった気がする。
“分かってますよ。だからやるんです”
色々なものが私の内側にあった。それが時折私を苦しめたり、或いは喜ばせたりしていた。
遠い昔の事だ。今は違う。
何もかも変ってしまった。
“お願い、スイッチを押して”
“しかし―”
“散々話し合ったでしょう?もう議論の時間は終わりですよ。さぁ、早くスイッチを”
今は怒りだけが私の内側にある。
ただ、怒りだけが。
―今はそれが、とても心地良い。
ストレッチをする。
ゆっくりと入念に、10分くらい時間を掛けて。
(…朝はやっぱ、結構冷えるなぁ…)
足の指先から始めて、アキレス腱、脹脛、太腿、股関節、腰、胴周りと、順番に下から上へ解していく。首周りまで終わったら、また、上から下へと、順番に、時間を掛けて。
(今年は暖冬らしいけど…)
―2015年、10月30日、金曜日。
初めてあの“扉”の向こうへ行ってから、もう二週間以上が経っている。梔子達と出会ってからは、確か今日で丁度二週間目だ。
(…17日の、土曜日に初めて会ったから、今日でピッタリ丁度二週間。何だかもう懐かしい気がするな。ボウガンを突き付けられて、喋る黒猫に脅されて)
私は笑う。足の指を、親指から順番に解していく。親指から小指へ、小指から親指へ。ランニング用のスニーカーを履く。誰も居ない玄関へ向けて、「行ってきます」を小声で囁く。
(まだ二週間。もう二週間?)
扉を閉める。息を深く吸い込む。ジャージのジッパーを一番上まで上げる。マンションの1階へ降りる為に、エレベーターへと向かう。
(兎に角、色んな事があった二週間だったな…)
エレベーターのボタンを押す。エレベーターの扉が開く。エレベーターに乗る。
エレベーターの中には誰も居ない。
1階のボタンを押す。
エレベーターが動き出す。私はエレベーターの壁に凭れて、目を閉じる。(…少し、疲れたな。ここ最近は、特に慌ただしかったし…)エレベーターがゆっくりと落ちていく。臍が浮く様なその感覚に、私は静かに身を任せる。瞼が少し重たい。(…スマホを買い替えたり、病院に行ったり、父さんから電話が掛かってきたり…)(母さんに説明するのが大変だった。結局は失くした事にして、“何処で失くしたか分からない”の一点張りで通したけれど…)(―母さんは何処か納得してない風だった)(母の勘、ってやつかな)(病院)(右肩が軽い脱臼だと診断された)(まあ、先ず間違いなく片手で拳銃をぶっ放した所為だろう)(あの翌々日くらいからじわじわと痛んで来て、肩から上に手が上がらなくなって…)(…体、鍛えなきゃな。これからも“向こう”に行くなら)(これからも撃つ事になる。多分、もっと沢山…)
(…父さん)
(突然電話して来て、月末に合う約束を半ば強制的に取り付けられた)
(…まぁ、父さんと会う時は大体いつもそんな感じだけど)(母さんとは、そういう所が合わなかったんだろう。母さんは何もかもをキッチリ予定を決めて進めたいタイプだ。三者面談のプリントなんかを出し忘れたりすると、途端に不機嫌になる…)(―父さんは思い付きで行動するタイプだ。小学生の頃、真冬に沢釣りに行こうと急に言い出して、3時間近く車で連れ回された挙句、蕎麦だけ食って家に帰ったのを思い出す)(…物心つく頃には、もう喧嘩ばっかりだったな。母さんと父さんが並んで笑ってるのを、私は見た事が無い)(―ホント、何で結婚したんだろうか)
(父さんと会うのは明日だ。31日の土曜日)
(…休日の日は、“向こう”を探索する日にしたいんだけどな…)
―チン、と音がする。私は目を開ける。エレベーターは1階に着いている。肩の具合を確かめるように回しながら、私は外に出る。1、2度、屈伸をして、私は走り出す。
(…先ずは、体力。体力はあって、困るこたぁ無い。荷物を運ぶにも、探索するにも、銃弾や“変異体”から逃げるにも)
(次は、銃の反動に負けない身体造り。上体を鍛えれば良いんだろうか。ウェイトトレーニング?後で、ネットで調べてみるとして…)
(取り敢えずは、走り込みだ。一に体力、二に体力―…)
「咲田さん?」
―声を掛けられる。
少しずつスピードを緩めて、立ち止まる。後ろを振り返る。見覚えのある顔が、向こうから走って来る。確か、あ、とか、お、とか、そういった感じの名前のひとだ。出席番号が前の方のひと。陸上部に入っていた気がする。
(…不味いな。殆ど何も思い出せてない)
立ち止まるんじゃ無かったと後悔する。が、後の祭りだ。彼女は見る見る内に私に追い付いて、私の傍で徐行し、足を止める。暫くの間、彼女は下を向いて、乱れた呼吸を少しずつ整えている。その間、私は彼女を観察して、名前の手掛かりが何処かに無いだろうかと、無駄な努力を試みる。
(…確か、あ行。あ~お)(陸上部)(下半身が太い。安産型)(安山…)(…多分、違うな)(お、だった気がする。二文字くらいの、おの、とか、おだ、とか、のだ、とか、そんな名前)(クソ、学校指定のジャージなら、名前の刺繍が入ってるのに。どっかに名前、書いてないか?)(喋った事も無いと思うんだけど)(…こういう時に、失礼にならずに名前を聞き出す方法、何かで聞いた気がする。確か、傍らの知人を、その名前を思い出せない人に紹介して、その人に、自発的に自己紹介を―…)(…傍らに街路樹しか居ない場合は、どうすればいいですかね?)
「…は、は、まだ、走ったりしてるんだね、咲田さん」
(?)
(まだ?)
「あー…」
そうだね、とも、今日は偶々とも言えず、曖昧な反応でお茶を濁す。彼女の親しげな様子に、もしかしたら喋った事があるのかもしれない、と思い直す。(ていうか、同じクラスだったような気がする)(この人、今はポニテだけど、教室だと髪を下ろしてなかったっけ?)(そうそう、髪を下ろして、眼鏡を掛けてて―)(―で、名前は?)
(後ろが濁点だったような気がする)
「とてもブランクがあるとは思えないな。気付いてた?私、二つ前の信号から、咲田さんを追っかけてたの」
(はぁ)
「いや―…全然」
「だよね。幾ら声掛けても、立ち止まってくれなかったし」
そう言って、彼女は笑う。私も曖昧に微笑む。頭の中で、必死に記憶の糸を辿る。
(多分陸上部)(あ~お)(後ろが濁点)(眼鏡を掛けてて)(二文字の名前―)
「…ね、陸上部、戻る気は無いの?」
(…陸上部は確定か)(同じクラス)(同じ一年)(陸上部、一年は結構居たからなぁ…)
「ないかな」
「どうして?走るの、好きなんじゃ?こうして、朝走ってるくらいだし」
「別に。強制でどっかに入らなきゃならなかったから、入ってただけ。走るのは苦じゃ無かったし」
「…コバセン、心配してたよ」
「関係無いね。私が走ろうが歩こうが私の勝手だ、あいつにどうこう謂われる筋合いはない」
「先生、咲田さんに期待してたんだよ。咲田さん、1年の中でダントツに早かったし」
「そう?クラスじゃ真ん中くらいだけど」
「そりゃ、本気で走って無いからでしょ。見りゃ分かるよ」
私は彼女の方を見る。彼女は何処か、苦いものが混じる笑顔で私の事を眺めている。私は足元を見る。スニーカーの靴紐が解けている。解けた靴紐を眺めながら、何処かで誰かと同じような話をした事を、ぼんやりと思い出す。
「…買被り過ぎだよ。今の私は美術部員、バリバリの文科系だ。もう6ヶ月くらい走ったりしてない。お陰で体力は落ちる一方、体重は増える一方、って感じで」
「成程。で、慌てて今走ってる、と?」
「そんなとこね」
「ふぅん。因みに、何kgくらい増えたの?」
「…2kgくらい、かな」
「はは、そりゃ大問題だ」
彼女は笑い、目を細めて私を見る。(?)彼女の私を見る目が、彼女の目元に残る感情が、何とも言い表わし難い感覚を私に与える。(このひと、一体―)「―わ、もうこんな時間」彼女はわざとらしく腕時計を確認し、踵を返して、来た道を走り出す。
「―じゃ、咲田さん、また学校で!」
「ああ、ええ、また―」
彼女の背中を見送る。それから空を見上げ、靴紐を結び、私も走り出す。
(―おの、おだ、こが、のだ)
二文字の名前が、頭の中でループする。その内に心臓の音が、呼吸の音が、単調に地面を打つ足音が、私の頭の中から思考を消し去っていく。流れる風景と、足音だけに私は集中する。
―時間が来るまで、私は只管にそれを繰り返し続ける。
「―サクちゃんさ」
と、対面に座る真菜加が言う。
昼休みの事だ。肌寒くなってきたからだろうか、今日は教室に残っている人がいつもより多い。「―え、それって今日までだった!?」「馬鹿だな、アンタまたユッキーに怒られるよ―」「―見てこれ、昨日買っちゃった」「え、それって駅前の店の?確か、結構な値段しなかったっけ?」「っふふ、それがさぁ―」「―何これ、新曲?」「違う、2つ前のアルバムに入ってるやつ。アルバムにだけしか収録されてないやつでさ、確か、ビリー…、とか、バリー…、とか、そんな感じの―」周囲の雑談が耳に付く。その所為で、額を突き合わせてる筈の真菜加の声も、相当集中しないと聞こえない。
「何?」
売店で買って来た焼きそばパンの包みを開ける。一口齧ってから、真菜加にそう問いかける。
(…これが、焼きそばパンか。商品としては知ってたけど、何気に食べるのは今日が初めてだな)
(何かもそもそするな…)
(乾いたパンの食感と、しっとりとした焼きそばの感覚が合わさって、絶妙に粘土っぽいというか。やたらと喉に詰まる感覚があるというか。ていうか、炭水化物と炭水化物の組み合わせってどうなんだろ?筋肉を付ける分にゃ良いのか?)
(ただ、これ一個で結構お腹が膨らむな。味もやたら濃いし。それが人気の秘密なんだろうか…)
「―最近、何か良い事あった?」
「は?」
「―や、最近、なんだか楽しそうだからさ」
「はぁ…」
唇のソースを舐め、真菜加の鼻先を見て、私は考える。(楽しそう、ねぇ―)真菜加は、好奇心と遠慮を綯い交ぜにした様な表情で、私の事を見つめている。(―ま、そうだな、確かに楽しい)焼きそばパンをもう一口齧る。(―やっぱ、なんか鋭いというか、油断ならん所あるよな、こいつ)真菜加は弁当箱の中のほうれん草入りの卵焼きを、食べる訳でもなく、箸で綺麗に二つに分割していく。焼きそばパンの続きを口に入れながら、私はそれを眺めている。
「…彼氏でも出来た?」
「はぁ?」
真っ先に梔子の顔が思い浮かぶ。白髪、褐色の肌、私よりも少し背が低くて、いっつもマフラーを首元に巻き付けている。次に、何故か、クロ。口の悪い黒猫。偉そうで乱暴で粗野で、子供か、大人なのか判別の付かない言動。私は思わず笑ってしまう。(…無い。無いな)あんまりにも想像付かなくて。駅前で待ち合わせたって、昼前には化物の死体の隣で焚き火を起こす羽目になりそうだ。
(若しくは、“海”の傍で生の鰯を齧ってたりな。日本茶でも片手に―)
「―え、え、その反応、もしかして、図星だった?」
「違うよ。まあ、確かに良い事は―」
―あったけど、と言おうとして、何となく、その言葉を咽の奥に飲み込んでしまう。売店でパンと一緒に買ったコーヒー牛乳に口を付け、私は“扉”の事を真菜加に話したらどうなるだろう、と暫くの間考える。別の世界。誰も見た事の無い場所。赤い砂漠。“神の柱”。クロ、梔子、“変異体”。銃を持った真菜加を想像し、少し笑ってしまう。
(…駄目だ、危険過ぎる。向こうには危険が多過ぎるんだ)(保証が無い。生きて帰れる保証が)(…私だって、命綱無しで向こうをうろついてる訳だし)(それに、上手く言えないけれど、向こうの世界は―)(秘密を知る人は少ない方が良い)(―何というか、その、、危険な気がする)(…2028年)(西暦)(あそこはどういう場所なんだろう?)(“神の柱”)(…そう、“神の柱”もある。あれを目にした途端、真菜加が変異してしまったらどうする?)(―サングラスを掛けたら、少しは幻覚もマシになったけど。でも、幻が現実の風景と重なって見えて、あれはあれで酷いものだった)(まぁ、話すなら話すにしたって、せめて私が―)
(―私が銃を撃ったとしても、脱臼しないくらいにはならないとなぁ)
私はコーヒー牛乳のパックを机の上に置き、自分の右肩を撫でる。もう痛くも痒くも無いが、時偶グラ付く様な、生え変わる直前の乳歯みたいな感覚を肩に覚える事がある。
(…これも一種のパラノイアみたいなもんなのかね)(脱臼したのなんて、多分生まれて初めてだけど。その感覚が癖みたいになってんのかな。一度脱臼した人は、再度よく脱臼する、って何処かで聞いた事もある様な気がするし…)
「―良い事が、なに?」
「…何でも無いよ。大した事じゃない」
コーヒー牛乳を持ち上げる。売店で買った、二つ目のパンを食べるかどうか思案する。(フレンチクルーラー)(どうしようかな。焼きそばパン、結構重たかったし…)
「…危ない事じゃないよね?」
真菜加が言う。私は彼女を見る。彼女は俯き加減に小さく笑っている。彼女の箸先が卵焼きをもう半分に切断する。私は売店の袋から二つ目のパンを取り出す。
「危ない事じゃないよ」
私は笑う。
「本当に?」
「本当に。大体、危ない事って、例えば、どんな事よ?こんな平和な地方都市でさ」
「…銃の密売とか?」
「TVの見過ぎだよ、バカ」
「―カナエ、お前週末、暇か?」
クロが言う。
彼らの家。クロと梔子の。殺風景なリビングの、二脚ある椅子の内、片方に腰掛けて(安楽椅子)、私は声の主の方にぼんやりと目を向ける。リビングの中央に置かれた、半分焼け焦げたテーブルの上で、クロはだらりと足を投げ出して仰向けに寝転んでいる。時折思い出した様に、頭の傍に置いてある鰯のフライを、喰い気の無い顔でもそもそと齧る。
(…やっぱり、飽きちゃったんだな。まあ、あれだけ大量にあると…)
部屋の中は少し見ない内に様変わりしている。穴の開いた箇所を、色取り取りの布や紙切れで補修した壁の天井際に、何十という鰯が大量に釣るしてある。(…酷い匂い)吊るされた鰯は、一応全部油で揚げられているみたいだ。けれどその全てに、焼いた跡や燻した跡、それに天日干しを試みた様な砂だらけのものと、苦心の跡が見て取れる。(…結局、半分は揚げて、半分は塩漬けにする事にしたみたい)(昨日クロがぼやいていたな。塩漬けが不味くて食えたもんじゃないって)(まぁ、干物にゃ出来ないとは思ってたけれど…)(男料理の最終形だな。取り敢えず揚げるのと、取り敢えず日持ちするもの)(そういや、父さんの料理も揚げ物が多かったな。けど、後片付けは母さんに任せっきりで…)(母さんは、父さんが料理する度にぼやいていたっけ…)
「…明日は駄目だけど、明後日は大丈夫よ。どうして?」
(明日は31日。つまりは月末)
(…父さんと会う日だ)
「―いや、ひとつ仕事をしてえと思ってな。ディガーの仕事をよ。いい話があるんだ、旨い儲け話がな。勿論ギャラはこの前と同じで良いぜ、俺達3人で綺麗に三等分だ。どうだ、興味はあるか?」
「…良い話って謳い文句で、本当に良い話だった試しが無いんだけれど」
「馬鹿、こりゃ本当にいい話だぞ、正真正銘ぼろ儲けのチャンスだ。少し足を延ばすだけで一攫千金、ちょっとの痛みと命の危険を我慢すりゃ、10km程度を往復するだけで、あっという間にお前も一国一城の主に―」
「―やっぱ、危険なんじゃん」
「そりゃ、ディガーの仕事だからな。多少の危険は付き物さ。じゃなきゃディガーにお鉢は回って来ねぇ。でもこりゃホントにいい話だぞ、この前と違って、ある筈のねえ動力炉の捜索とかでもねえ、もう場所も位置も分かってる、後はブツを見つけてトンズラするだけさ」
「場所も位置も同じ意味だけど」
「こまけぇこと気にするヤツだな」
「…で、何処まで行くの?」
「こっから10kmくらい北にある渓谷だ。俺らのジープなら10分、15分ってとこだな」
「ブツは何?」
クロは体を起こし、机の上でにんまりと笑う。どうやら、私が話に乗って来たと思っているらしい。
「―ガソリンだ。いいかカナエ、こいつぁ“車屋”からの依頼だ。親父さんは気前がいい、支払いで揉めたなんて話は先ず聞いた事がねぇ。仲良くしといて損は無いと思うぜ。“タウン”を出て、10km先から立ち往生したトラックを引っ張って来るだけで大儲け、って寸法だ。トラックが動かせそうでなきゃ、ガソリンだけをよ。まぁそうなったらウチのジープじゃ厳しいが、でもその場合は、親父さんが車を貸してくれるって―」
「成程ね。で、危険の方は?」
にんまりとした表情のまま、クロはテーブルの上で言葉を失う。私は臍の上で両手を組んでクロの様子を眺める。クロの顔が徐々に戸惑った風に変化する。つくづく表情豊かな黒猫だ、と思う。失くした言葉を探す様に、クロはキョロキョロと室内を意味も無く見回す。
「…なんだって?」
「聞こえなかった?リスクの話を聞いたの。具体的に、どんな危険があるの?」
「細かい事は気にすんなよ。伸るか反るかが聞きてェんだ、俺ぁ」
「生憎そういう性分なの。それに、どんな危険があるか分かってた方が、お互い対処もし易いでしょう。違う?」
クロは露骨に言葉に詰まる。見るからに、余り突っつかれたくなかった話題らしい。(…それか、話せば私が降りてしまう様な話題?)私は安楽椅子の揺れに身を任せ、暫くの間目を閉じて考える。
「―ドライバーは?」
「は?」
目を開ける。クロを見る。クロは目をパチパチさせながら、鰯に付いた衣を爪先で穿っている。
「運転手が居た筈だ」
「はぁ」
「ガソリンを運搬するトラックの」
「あぁ」
「トラックは何処にあるか分かってる。運転手は命からがら逃げかえって来た訳だ。そのアンタの言う、“ちょっとの痛みと危険”ってヤツから、10kmの砂漠を横断して、“タウン”まで」
「あ…ああ、うん。まぁ、そういう事になるか―」
「車屋の主人は金払いが良いって話だったっけ?だったら、どれだけの量だったかは知らないが、主力商品であるガソリンを、護衛も付けずに運搬をする筈がない。…まぁ、だとしたら、生き残りが運転手である必要もないのかな。兎に角、集団でガソリンを運搬して居て、“ちょっとの危険”が起こり、集団の内の一人が、必死に“タウン”へと逃げ帰って来た―」
―クロは大きな溜息を吐き、ぶすっとした顔で私の方を見上げる。私は笑う。クロの頭に手を伸ばす。クロは首を乱暴に振って、私の掌を振り払う。
「―“変異体”?」
「…さあな。良く見ちゃいないらしい。けど、突然何かに襲われて、一瞬で護衛チームの半分が壊滅したんだと。話じゃそいつはトラックの運転席に隠れてたらしいんだが、一つ、またひとつと銃声の音が減っていくのが怖くて、堪らず逃げだしたって訳さ―“タウン”まで10km弱を、裸足で走ってな。ぞっとする話だ」
「あ、生き残ったの、ホントにドライバーだったんだ」
「らしいな。まぁ、せっかく生き残ったって、この街じゃもう二度とドライバーは出来ねぇだろうがな。親父さんは、自分と商品に忠実で無い奴にゃ、かなり冷淡だ」
「へぇ…」
欠伸が口から漏れる。安楽椅子の揺れが私を眠りに誘う。クロが恐る恐ると言った感じに、私の顔色を正面から伺っているのが見える。私は微笑む。再びクロの頭に手を伸ばす。今度はクロも振り払わない。クロの艶やかな毛並みを暫く指先で梳く。指先が擽ったくて、心地良い。
「…で?」
「で、って?」
「惚けんなよ。仕事の話だ。親父さんはどうやら、かなり困ってるらしい。俺達の他にも馴染に声を掛けたが、どれも渋い返事だったと愚痴ってたよ。それで、俺達に依頼が回って来たって訳だ。ほら、俺達には実績もある訳だし」
「…実績?」
「“シェルター”での一件だよ。あの化物が天井目掛けて撃ったビームがよ、どうやら“タウン”の方からも見えたらしくてな。化物絡みの武勇伝はパブでもよく聞くが、“変異体”をブッ殺したって話ぁ結構珍しいんだ」
「へぇ」
「…なぁ、俺達ぁチームだ。え、そうだろ?それも、かなり息の合った。カナエ、何をビビってる?お前は度胸もあるし、頭も悪くない。底意地が悪いのが玉に瑕だがよ―」
「アンタに言われたくないね」
「―俺達はもう、一匹“変異体”を仕留めてんだ。俺達ぁやれる。対処法だって分かってんだ。そうだろ?俺達には出来る。小僧とお前と俺がいりゃ―」
「―対処法が同じとは限らないわ」
「…まぁ、そうだがよ。けど、俺らならきっと大丈夫だ。“変異体”も、一匹なら大したこたぁねえ、殺すのに少しっばかり時間が掛かるだけだ―1時間か、2時間か、それくらいな。それに、親父さんは破格の報酬を約束して―」
「どうして?」
「ぅあ?」
クロが変な声を出す。私はクロから手を離す。クロは戸惑った目で私を見つめている。鰯のフライに鼻先を近付け、それを前足で軽く弾く。どうやら、完全に食欲を失ったらしい。
「…どうして、“変異体”が一匹だと?」
「あ―?」
「一瞬で護衛チームの半分が死んだんでしょ?二匹か三匹か、もしかしたら集団かもしれないじゃない。どうして一匹だと?」
「あ…ああ、聞いたんだ」
「誰に?」
「親父さんにさ。逃げてきたドライバーが言っていたらしい」
「…でもその人、運転席に隠れてたんでしょ?どうしてその人に、そんな事が分かるの?」
「あー…。聞こえたんだとよ」
「?」
「護衛チームの声がだな。親父さんはなんつってたっけ…。『臆するな、相手は一人だ、奴を囲い込め、弾を集中させろ』―とかなんとかな、護衛チームのリーダーが叫んで居る声が最後に聞こえた、とそのドライバーが言ってたらしい」
「信用出来るの?」
「多分な。親父さんのを受けて、嘘を吐ける元気が残ってる奴は、ま、滅多に居ねぇから」
(…成程)
「で、どうすんだ?行くか、行かないか?言っとくが報酬はホントに破格だぞ、危険手当とかの上乗せを差っ引いてもだな、親父さんはなんと、驚くなよ?いいか、30000の礼金を約束してくれたんだ―!」
(…ガソリン満タンで80、得体の知れない緑色の飲み物が4、弾薬が一箱で8)
(確かに破格―な、気がする)
(30000割る3だ。一人頭でも、10000)
(10kmを往復して貰える金額、としては悪く無い…のか?)
(それに、こっから危険手当も乗るみたいだし…)
(まぁ、確かに、一匹だけなら、梔子がいりゃ大丈夫な気もするが…)
「…どうすんだよ?ええ?行くのか、行かないのか?」
無言の私に、痺れを切らした様にクロが尋ねる。不満そうなクロの目付きに、私は苦笑する。(……ま、こっちの世界でも、何かと入用ではあるし)(こっちの世界にはがある。それを調べてみるまでは…)(2028)(西暦)(せめて弾薬くらいは自分で都合を付けないとな。いつまでも、護身用の弾を梔子たちにせがむ訳にはいかない…)(―それに、バイクか何かがあれば、“タウン”に来るのもかなり楽になる)(ママチャリじゃ、砂漠の移動はキツいぜ…)(…となると、答えは一つだな)
「…分かった、行くよ」
「ホントか!?」
あからさまにクロの態度が変わる。それを見て、私はまた苦笑する。(…現金な奴め)クロの方に右手を伸ばす。クロはその私の腕を駆け上がり、私の右肩の上でピョンピョンと軽快なステップを踊る。その度に、安楽椅子がギイギイと激しく傾ぐ。私は脱力した笑みを浮かべ、肩の上のクロのするがままに任せる。
「…けど、明日は無理だからね。出発は明後日だよ。良い?」
「ああ、ちゃんと分かってるって、安心しな、俺様を誰だと思ってんだ―?」
「…アンタだから不安なんだけど」
「ああ、明後日が待ち遠しいぜ!待ってろよ、俺の30000―!!!」
「…それを3等分するっての、忘れないでよね」
「お、なかなかウマいな、これ」
皿から顔を上げる。父を見る。テーブルの対面には父が座っている。私と目が合うと、父は笑う。
―私は目を逸らす。
10月31日。土曜日。父との約束の日だ。前会ったのは中華料理屋、その前はファミリーレストランだったので、特に何も考えず普段着で来てしまったが、よりによって今日に限って、高級そうなコース料理の店へ連れて来られる。父のヨレヨレのスーツと私の私服が、(多分)ドレスコードのあるだろう店内で真夏の誘蛾灯並みに目立って浮いているのが分かる。正直、早く料理を平らげて帰りたい。
(…クソ、とっとと次の料理を持って来い)(いや、でもコース料理ってそういうもんだし…)(向こうの客、私達の方をチラチラ見てる気がする)(自意識過剰だ。自分で気にするから、周囲が気になる―)
甘鯛のムニエルとやらをフォークの先で突きながら、皿の上に意識を集中しようとする。父の背後からクスクスと揶揄する様な笑い声が聞こえる。見ると、窓際の席の男女が、私達の方を見てにやにやと笑っている。微かに頬が熱くなるのを感じる。薄らと食欲が消えて行くのが分かる。
「学校は?」
「―え?」
「学校はどうなんだ、叶?」
父は皿の中身を平らげ、草臥れたネクタイの首元を緩めて、私にそう問いかける。私は甘鯛をフォークで解し、フォークを皿の縁に立て掛けて、それに応える。
「…別に、普通かな」
「そうか。勉強の方は?」
「平均点上ってとこ」
「部活を辞めたって聞いたけど。何かあったのか?」
「…ううん、合わなかったから辞めただけ」
「そうなのか?でも、成績も悪く無かったじゃないか」
「―強制でどっかに入らなきゃならなかったから、入ってただけ。楽しく走っていられれば、それで良かったのに。大会とかああいうのは、私の性に合わないの。尻を引っ叩かれながら走るのも嫌だったし」
「尻を叩かれてたのか!?」
「言葉の綾よ。…ねぇ、それ、母さんに聞いたの?」
「うん?」
「私が部活を辞めたって。母さんに聞いたの?」
「ああ…」
父は皿に残るソースをフォークの腹で掬い(行儀が悪い)、ワイングラスを傾けて、困った様な表情を浮かべる。私は完全に興味の失せた皿から目を離し、深々と椅子に凭れて父の様子を眺める。
「…実は、母さんが、家に来たんだ」
「うん」
「二週間くらい前かな」
「うん、知ってる。置手紙を見たよ」
「そうか…」
父は更にワイングラスを傾ける。首周りと頬が、段々と赤く染まっていく。(ああ、あんまり強く無い癖に…)(…こりゃ、また帰りはタクシーかな…)グラスの中を空っぽにし、私の目を真直ぐに見て、父は何度も確かめる様に、口を開く。
「母さん、最近なんか変じゃないか?」
「…?」
鼻先で笑い飛ばそうとするが、父の真剣な表情に、それも躊躇われる。私は取り敢えず、黙って父の言葉の先を待つ。父は戸惑う様な、恐れる様な、警戒する様な顔をして、机の対岸に座る私に囁く。誰にも聞かれる事の無い様に、声を顰めて。
「…実は母さん、家に来たんだよ」
「うん。さっき聞いたよ」
「そうか?で、それが、確か二週間ぐらい前の事だ」
「うん」
私は苛立ちと諦めの狭間で、父の次の言葉を待つ。(…酔っ払いにムキになってはいけない。酔っ払いにムキになってはいけない。酔っ払いにムキに…)
「で、その時にな、母さん―」
「うん―」
父は真面目な顔を崩さずに居る。私は父の次の言葉を待つ。父は空のワイングラスを傾け、今更中身が無い事に気付いた様に、グラスを繁々と眺める。父はワイングラスをテーブルに置き、私の目を見て、言葉の先を続ける。
「―母さん、俺の部屋を掃除して行ってくれたんだ」
「―」
私は父の次の言葉を待つ。父は空っぽのワイングラスを指先で弾き、赤ら顔で店内を見回し、近くに居たウェイターを大きく手を振って呼び止める。(「あの、ワインのお代わりって貰えませんか?」「畏まりました、ではこちらのメニューから種類をお選び下さい―こちらがボトル、こちらがグラス1杯のお値段となっております」)私は父の次の言葉を待つ。やがてウェイターがお代わりの白ワインを持って来る。父は受け取ったそれをひと息で半分喉に流し込む。私は父の次の言葉を待つ。
「ここ、結構いい店だな、叶。料理も絶品だし、ワインも中々旨い―父さん、ワインは割と苦手なんだけどな、ここのは飲みやすいというか。香りも良いし」
「…」
―どうやら、話はあれで終わりらしい。
「………何が、変じゃないか、よ」
「うん?」
「どうせ父さんが部屋を汚し過ぎてただけじゃないの?母さん、元々綺麗好きなんだし。我慢なら無くなっただけでしょ、40過ぎの男の一人所帯の惨状に」
「う?い、いやでも、今までは、どんなに部屋がとっ散らかってても、掃除なんて手伝ってくれなかったぞ。それに、最近じゃ外で会う事の方が多かったし―あ、それに、他にも変な事がだな、」
「未だ何かあるの?」
「―手料理を作ってくれたんだ」
重大な秘密を打ち明ける様に、重々しく、赤ら顔の父は言う。私は絞り出すような溜息を吐く。父はワイングラスを手の中で揺らし、真剣な顔で話し続ける。
「そんな事今まで無かった。結婚してからは、特にな。付き合う前に作った回数の方が、多いくらいだ」
「…両親のそういう話、聞きたくないわ」
「しかも肉じゃがだ。肉じゃがだぞ?俺がいくら食べたいって言っても、煮物系は時間が掛かるから面倒だって、作ってくれなかったのに―」
「…確かに、母さん、煮物系はあんまり作らないけど。待つの苦手だし…」
「だろう?その母さんが、だ。俺の部屋を掃除して、俺に料理を作ってくれたんだ。しかも肉じゃがを、だ。多分肉じゃがを作ってくれたのはこの前が初めてだ」
「んなことないでしょ」
「いいや、確かにそうだ。母さん、一度決めた事は、決して曲げない人だったからな。ま、そこが好きでもあったんだけど。離婚協議の時だって、俺に10-0を認めさせるまでは決して折れなかったし―」
「…10-0は妥当でしょ。離婚の原因は父さんの浮気なんだし」
「う…ん。いや、問題はその母さんがだな、決して自分を曲げないあの母さんが、どういう訳か最近俺に優しい、って事なんだ。なんでか知らないが、この前会った時から、頻繁にメールも返してくれるし―」
「単にほとぼりが冷めただけじゃないの?」
「あー…。う、その、やっぱり、うん、そうなのかな?」
「知らないよ。けど、元々好き同士なんだし、可能性としては無い話じゃないんじゃないの?復縁するなら応援するよ」
「………お前も、その、父さんと母さん、再婚したら嬉しいか?」
「まぁね。こうやって、二ヶ月に一度呼び出される事も無くなるし。外で会うより、家の中で顔を合わせる方が楽だしね」
「薄情な娘だな」
「パパ大好き。私、パパとずーっとずっと一緒に居たいな。パパとママが仲直りしてくれたら私、世界中で一番、最高にハッピーでラッキーな娘になれるよ。夢みたいだなー」
「…その棒読み台詞を今直ぐ止めなさい。パパママなんて一回も言った事無いだろ、お前。本当にそう思ってくれてるか…?」
「―勿論、本当にそう思ってるよ、父さん。その気があるなら応援する、私に出来る限りはね」
「…頼りにしてるよ、相棒―」
父がグラスを持ち上げる。半分空の、白ワインのグラスを。私は手元にある水の入ったコップを持ち上げて、それを父のワイングラスに打ち付ける。
「―じゃあ、前途多難な未来を祝して」
「…前途多難なのは確定なのな」
「当たり前じゃん、だって母さんだよ?」
私は笑う。父も力無く笑う。
「…?」
棚から9mm弾の箱を手に取る。片手に収まるくらいの小さなサイズだ。5cm×6cm、手の中で振るとジャラジャラと音がする。
(…この箱ひとつで8、この隣の箱が9、マガジンに装填済みの奴が10)
(全部同じ9mm弾だ)
(マガジンに装填済みの奴は別としても、この隣の奴とこれは、何が違うんだ…?)
扉の向こう。クロと梔子の世界。11月1日、仕事の約束の日。AM9:20。出発の直前。
私は銃砲店に買い物に来ている。
“タウン”の南西部。この街の中でも特別にガラの悪い地区だ。“車屋”や“ハニートラップ”のある通りに同じく首を揃えて並んでいる、“Safety”という名の小さな店に私はやって来ていた。(…何処も安全そうじゃないけどな。こんだけ火薬臭い店に、よくそんな名前付けるよ…)因みに、どうやら梔子の顔馴染の店であるらしい。(私が入って来た時、カウンター裏に立つ店主は警戒する様な視線を寄越したが、私の後ろに立つ梔子の顔を見て、一瞬で私達に興味を失くしたみたいだった)
「ねぇ、これって―」
私は背後に立つ梔子を振り返る。(クロはジープでお留守番だ。この地区で車に見張りを付けないなんて、禿鷹の群れに死体を放り込む様なもんだ、と言っていた)(戻った時、少しは機嫌が直ってると良いけど。私達が店に入るまで、ずっとぶつくさ文句を言っていた。やれ自分の得物の準備は自分でしろだの、やれ仕事の日取りは事前に伝えたんだから、その日までに準備が出来てないのはプロとして失格だの、やれこの経費は貸しじゃないぞ、今回の報酬から差っ引く―だの)(…まぁ、ある意味では彼が正しい。でも、私はディガーになった積りはないし、そもそも私にゃ先立つもんが無い―)(と、言ったら又怒りだしそうなので、黙っておく)
梔子は私の手の中から5×6cm四方の箱を取り、それを棚に戻して、代わりに装填済みマガジンを手渡す。
「…いいの?これ、結構高いけど。箱の奴より弾も少ないし」
梔子は頷き、親指と人差し指を近付けて、目の前に翳してみせる。
「…ちょっとの誤差?」
梔子は頷く。
「そうは思えないけど。これ10個買う金で、こっちのは12個買えるんだし。弾数にしたらこっちのは8×10で80発だけど、こっちの箱は一箱で24発入りだし」
梔子は困った様に微笑み、自分の胸と、私の胸を指差す。
「命が一番大事?」
梔子は頷く。
「…まぁ、そりゃそうか。でも、こっちのマガジンのやつは、2つか、3つでいいや。どうせクイックリロードなんか出来やしないしね。それが求められる破目になったら、多分もう死ぬしかないだろうし」
梔子は困った様に眉を寄せる。自分を指差し、腰に差しているナイフの柄に触れ、また自分を指差す。私は笑う。
「…それに、練習用の銃弾も欲しいし。こっちの安い奴も合わせて買おうかな。幾つ買ってもいい?」
梔子は軽く首を傾げ、右の掌を開いて、そこに左手の指を4本足してみせる。
(…9。という事は、予算は100くらいなのかな?)(だったら、結構買えるな。マガジン2つと、箱の方が10程)(全く、お前には遠慮というものが無いのか?)(そういえば、最近は見掛けませんね)(まぁまぁ、命の保証が無い場所で、いちいち遠慮してても仕方がないじゃないか―)
「―じゃ、これを2と、こっちの箱を10個。それで良いかな?」
梔子を見る。梔子は少し、渋い目をして頷く。どうやら、マガジンの方をもっと買って欲しかったらしい。私は苦笑する。
(…人が良いというか、なんというか)(それとも、マガジンの予備がもっと欲しかったんだろうか?確かに、やり合った後に、いちいち回収する余裕と暇があるかは、怪しいもんだが―)(でも、予算が100だったら、全部マガジンにした場合と、差分にして176発だしなぁ…)
商品と、金をカウンター上に並べる。店主はじろりと私を一瞥して、カウンターに置かれた硬貨を数え始める。レジスターが無い所為か、それとも店主のやる気が無い所為か、会計は遅々として進まない。私は欠伸しながらのんびりと店主の動向を見守る。(休日の私にしては、朝早く起きた方だ。正直眠い)隣に立つ梔子を見る。梔子は店主の金勘定を真顔で見下ろしている。
「―そういえばさ、梔子」
梔子は戸惑った様に瞬きし、私の方に視線を持ち上げる。
「いや、大したことじゃないんだけど。ここの店主と顔馴染みたいだったからさ。梔子って、銃も使ってるの?」
梔子は首を振り、また店主の手元に視線を下ろす。
「じゃ、どうして、銃砲店のご主人と?」
梔子は優しく目を細め、腰に差した矢筒を左手で撫でる。その指でカウンター奥を指差す。カウンター奥には、梔子が良く使っているプラスチック製のボウガンの矢が乱雑に棚の上に並べられている。
「…成程。それで―」
―私が言い終わらない内に、鉄の擦れる音と、ドン、と何かを叩きつける様な音が、直ぐ側で聞こえる。正確に言えば、私のすぐ隣で。私は隣を見る。梔子がナイフをカウンターの上に突き立てている。私は眼を丸くして梔子を見る。梔子は鋭く目を細めて店主を見ている。(…?)梔子から、店主へと目を移す。ナイフは店主の右手の側面を、薄皮一枚外れてカウンターに突き刺さっている。店主の右手が微かに震えている。見ると、店主の右手の薬指と小指が硬貨を器用に抓み、それを自分の袖口の中に落とし込もうとしている。
私は溜息を吐く。
「…出して」
「は?」
「は、じゃねえだろ、クソ野郎。袖口に詰めた金を全部出せっつってんだ。いいか、言う事聞かなけりゃブッ殺す。それと、余計な真似をしてもな。それとも今死ぬか?」
(…と、クロなら言うだろう、多分)
(こんな感じで良いかな?)
諦めた様に店主が、右手の袖口を振る。袖口からは良くもまぁ、こんなに貯め込んだものだと感心するくらい、ボロボロと小銭が溢れ出てくる。(…というか、これ、私達から取ったのよりも、明らかに多いな。まぁ多分、ここに来る他の客からも―)(お前の袖は貯金箱か、とツッコみたくなるな)(…10、20、2…2。もう少し出るか)(全く、何処が“”だ?とんだ店名詐欺じゃないか)
私は装填済みマガジンを3つ掴み取り、カウンターの上に落とす。店主が驚いた様な目を私に向ける。梔子がカウンターに突き刺したナイフを、ゆっくりと握り直す。
「早く会計を済ませろ」
「いや、あ…これは―アンタ、この金は―、」
「―聞こえなかったか、ご主人?とっとと会計を済ませろ、と言ったんだ。さっき言った事を忘れたか?死にたくなけりゃ仕事をしろ。それとも“Safety”の中で死にたいか?」
「………糞。会計は終わりだ、勝手に持っていきやがれ。包装も必要か?プレゼント用にリボンでも付けてやろうか?とっとと消え失せろ、このクソッタレ共―」
微かに青褪めた顔の店主が、自棄糞気味にそう悪態を吐く。商品に手を伸ばそうとする梔子の腕に私は手を掛け、それを制止する。梔子は戸惑った目を私に向ける。
私は笑う。
「いいや、まだだね、店主」
「あ―?」
「、と言ったんだ。聞こえなかったか?随分耳が遠いんだな」
「何を―」
「惚けるなよ。お釣りが未だだろ?さっさと会計を済ませてくれ」
―店主の下顎が、わなわなと震える。
私は笑う。歯を剥き出しにして。梔子もクツクツとその喉を鳴らす。彼はナイフをカウンターから抜き取り、その刃先で、弾薬と、台の上の金を手元に掻き集める。
「………………地獄に堕ちろ、小娘」
「この世は地獄さ、ご主人。“Safety”に籠りっぱなしでボケちまったのか?近い内、また来るよ」
「―また、随分沢山買って来たもんだな」
「怪物退治にゃ足りないくらいよ」
「…他人の金だと思いやがって。え、一体幾ら使い込みやがった、小娘?」
「見た目程じゃないわ、安心して。店の主人がオマケしてくれたの」
ジープの後部座席に乗り込む。運転席のドアを開けながら、梔子がグッグッと咽を震わせて笑う。クロは戸惑った様な、疑う様な表情で、私と梔子の顔を交互に見比べる。
「…あのロブが?そりゃ、珍しい事もあるもんだ…」
「でしょうね。多分、本人が一番驚いてたと思うわ」
愉快そうに肩を揺らしながら、梔子がイグニッション・キーを捻る。直ぐ様、ジープが威勢の良い音を立ててその車体を震わせる。梔子が軽くアクセルを踏み込む。“タウン”のゴミゴミとした路地を、ジープがゆっくりと進み始める。
「…マガジン5に、予備の銃弾が10箱か。ま、弾切れの心配はなさそうだな、小娘。マガジンは直ぐ取り換えられる様に身につけておけよ。悠長に空のマガジンに弾込めてる暇なんて無いからな。なんせ奴さん、かなりヤバいヤツだって噂だ―」
助手席と運転席の間からひょっこりと顔を出し、私の買い物の成果を前足で漁りながら(梔子の麻色のショルダーバックの中に取り敢えず入れさせて貰った)、クロが言う。私は銃をナップサックから取り出し(ホルスターとか買った方がいいかも―このままじゃ、いつかうっかり向こうに持って帰ってしまいそうだ)、マガジンを取り出し、弾創やマガジンに弾が入っているかどうかを確認する。(…と言っても、貰ってから使ってないんだから、当たり前だけど満タンだ)(8+1発)(先端の細い銃身)(ネットなんかで調べた限りじゃ、多分ドイツ製っぽいよなぁ。ワルサーなんかに似てた気がする)(…うん、やっぱり、この前の銃よりも軽い。今の私にゃ、このくらいがちょうど良い―)
「―分かってるわよ。護衛チームが全滅したんでしょう」
「そうだ―おい、銃口をこっち向けんな!暴発事故なんてご免だぞ、空向けてやれ、空に―それなら、鳥か、運の悪い奴くらいにしか当たらねえからな、それか、空を飛んでいる間抜けかだ」
「安全装置は掛けてるわよ。ところで、護衛チームって何人だったの?」
「あ?…8人だ。確かな。4人ずつ二組に分かれて、機銃付きのジープに乗ってたって話だ」
「成程ね。じゃあ、今のとこ、犠牲者は8人か…」
―ジープがゆっくりと減速し、停まる。
(?)
顔を上げる。“タウン”の北西部だ。比較的外壁に傷の少ない家や、まともな見てくれの家の多い地区。人通りや他の車影も見当たらないが、路地裏の方へ少し目をやると、数人のグループが手元を隠す様に団子状になって何かを取引しているのが見て取れる。彼らは一様に私達の方へ警戒する様な眼差しを向けている。“タウン”は南へ行けば行くほど賑やかで、西側へ進む程治安が悪くなっていく気がする。彼らも人目を憚る様な某かのグループなんだろう、と私は夢想する。(…やっぱ、あれがあるからかな、西側には、この街の西には)
(“神の柱”…)
路地裏に潜むグループが一人ずつバラけて立ち去っていく。私は梔子を見る。梔子はジープを停車し、運転席から振り返って私を見ている。(?)私は拳銃の銃倉にマガジンを収め、それをコートのポケットに滑り込ませる。それからもう一度、梔子を見る。梔子は困った様な、驚いた様な目で私を見ている。私は戸惑った顔で梔子を見、クロを見る。
助手席のクロを。
―クロは明らかに狼狽えている。
「―いや、違うんだ、これは、小僧、あのな―」
「クロ?」
梔子は非難する様な眼をクロに向ける。私には何が何だか分からない。が、遅まきながら、自分がクロに嵌められた、という実感だけがじわじわと身に沁みていく。
「…クロ?どういう事か、ちゃんと説明して―」
「―ちょっと黙ってろ、小娘。なぁ、梔子、お前だって言ったじゃねえか、二人なら無理だろうけど、でも、カナエが居ればさ―」
一つ大きな溜息を吐いて、梔子は私の方を向く。「―それに、この依頼は捨てられねえだろ、この前の依頼じゃ、あれっぽっちの前金しか貰えなかったんだぞ―?」梔子は私に向かって、両手の指を一杯に広げて見せる。彼はそれを、右手の小指側から順に折って行く。(―成程な。つまり―)右手の小指から、左手の薬指まで。(―これが、本当の数って訳だ)
「19人?」
梔子は頷く。
「…19人も死んでるの?」
梔子は再び頷く。
私は溜息を吐く。クロを見る。クロは拗ねた様にそっぽを向く。ボソボソと助手席側の扉に向かって何事かを呟いている。(「…だって、ホントの事言ったら来なかっただろ、お前。俺達にゃ金が必要だったんだ。それも早急にな。なのに小僧の奴、二人じゃ無理だなんて言いやがるから―」)私は苦笑と共にクロの背中を見る。コートのポケットに手を突っ込む。鉄の冷たさに慰められる。
「…嘘吐いてた訳だ」
クロは無言で扉側を向いている。
「他のディガーも依頼を受けてたんだな。で、帰って来なかった。分かってるだけで19人。もしかしたら、もっと居るのかもしれない」
クロは無言のままだ。時折、私の声を追い払う様に、尻尾で助手席のシートの表面を2、3度と薙ぐ。
「それで、馴染のディガーにも依頼を断られるようになった親父さんは、困って報酬を吊り上げたって訳か。そして、それにまんまとアンタは釣られた訳だ、クロ」
「…違う、釣られた訳じゃない。向こうから声を掛けて来たんだ、“車屋”に寄った時にな。俺様達の腕を見込んで頼みがあるってよ。それに、俺達には金が必要なんだ。誰かさんの面倒も見なくちゃならねえしよ。大体、30000の報酬を捨てられるような奴なんて居るか?」
「それを釣られたって言うんだよ、馬鹿…」
私は脱力して、ジープの後部座席に寄り掛かる。梔子が、気遣わしげな目で私を見ている。皮の手袋を嵌めた両掌を水平に並べ、右手側を垂直に降ろしていく。
(…多分、『仕事を降りるか?』って、聞いてるんだろうな、あれは…)
「クロ」
クロは返事をしない。私は構わず続ける。
「何処までが嘘なの?目的地は?持って帰るのは本当にガソリンだけ?まさか、相手は一匹、ってのも嘘じゃないわよね?」
「…それは嘘じゃねえ。なぁ、ただ俺ぁよ―」
「だったら良いわ。梔子、車を進めて」
私は運転席のシートの背中を叩く。梔子が驚いた顔で私を見る。苦笑いを浮かべて、私は頷く。梔子は真ん丸に見開いて居た目元をゆっくりと綻ばせて、再びジープを発進させる。
「カ―カナエ?」
「…今回は折れてあげる。あなた達の事情も分かるしね。この前の依頼は散々だったみたいだし、私もあなた達には、世話になってるから」
「あ―その、あ…おう、そうだよな!それに、俺達は…なんていうか、あ―…中々のというか…結構良いチームだからな!これは嘘じゃないぜ、ああ、小僧だってそう言ってたんだ、お前が協力してくれるならよ、カナエ、この依頼、成功するかもしれないって―!」
「ただ」
私は助手席のクロの首根っこを掴まえて持ち上げる。クロは笑顔を浮かべたまま、何が起きたか分からない、という顔で私を見上げている。時折クロの後ろ脚が宙を蹴る。私は微笑む。
「―これだけは言っとくわ。次に私に嘘を吐いたら、良い?クロ、その柔らかい腹を切り裂いて、あんたの大好きな鰯共にあんたの内蔵を鱈腹食わせてやるから」
「お―ごご」
「分かったら返事」
梔子が笑う。肩を震わせて。周囲から家屋が少なくなっていく。ジープがスピードを上げる。道端に積る赤い砂の量が増えていく。クロが観念した様に、私にぶら提げられたまま、小さく肩を落とす。
「…全く、お前ぁとんでもない女だな、カナエ…」
「返事」
「はい、はい。分あったよ、分かりました。もう二度と嘘は吐きません。…その、なんだ、依頼内容に関してはな。おら、これで満足か?だったらとっととシートに俺様を下ろせ、出来るだけそっとだぞ、小娘」
「口の利き方が気に入らないね」
「悪かったよ。…糞、梔子、お前が小娘に余計なこと言わなきゃよ―」
ぷっつりと民家が途切れる。周りは赤い砂と、西の果てに見える光の柱だけ。“タウン”を出る。ジープが砂漠の丘陵に沿ってガタガタと揺れる。私はクロを助手席の上に降ろし、ジープから放り出されない様に慌ててシートベルトを付ける。
途中、クロと梔子に気付かれない様に、こっそりと光の柱を盗み見る。
―緑の光の中に、あの見覚えのない懐かしいひとの姿を見た気がして、訳も無く涙が零れる。
1km先から続いていた緩やかな傾斜が終わりを告げる。水平を取り戻した地面の上を、ジープががたがたと揺れながら進む。
(…ここが、渓谷?)
谷というよりは、川と言った方が正しいかもしれない、と思う。干上がった川底。事実、この傾斜の底や、ビルの3階分程度の高さの両岸には、赤錆びた橋の残骸の様なものが見て取れる。両岸が防壁になっているのだろうか、傾斜の底には砂が殆ど無い。(…地面の色、久しぶりに見た)地面は乾いた泥の様な、罅割れた白をしている。どうやら地面の中には色々なものが埋まっているみたいだ。タイヤや、竹竿やら、三輪車やらが半分、川底から生える様に地表に顔を出している。
(…一級河川、っていうのかな、こういうの。河川の等級って、何で決まるんだっけ?)
川の両岸には、かなりの数の建物が残っている。かなりの数の建物の残骸が。(西岸には5階建て程のビルが1棟、平造りの建物が1件。他は皆、形が崩れてる。東側は8階建てくらいのビル2棟、4階建て程度が4棟、集合住宅が1棟、何かの建物の塀の崩れ残りがひとつ。後は西側と同じ、砂のお城を崩した様なものばかり)(西側の方が、建物の損傷が激しい)(“神の柱”があるからだろうか?)(やっぱ、こうなった原因は、その―…。あれは爆心地的なものなんだろうか?“神の柱”が、この世界をこんな風に変えた?)(元々こうだったのかも)(分からん)
(ビル)
(?)
(ビルみたいな、背の高い建物の方が、被害が少ない気がする。“タウン”でだって、あの大きなビルはしっかり残っていた)(それに“タウン”でも、東側より西側の方が、後から建てたらしい建物が多い。何と言うか、文明レベルというか、建築様式が違うというか。東の建物はコンクリート造りが多くて、西側の建物は木造が多い、そんな感じだ)
(“神の柱”が、何かをやったんだろうか?)
(でも、あれは今でもあそこにあるけれど、あれ自体が何かをやって来る訳ではない)(―見て居る奴を、たまに化け物にするけどな)(―それに、丈の低い建物が被害に遭うっていうなら、“シェルター”はどうなんだ?)(…“シェルター”だって、一階部分に穴が開いていたじゃないか)(地下には効果が無い?)(この世界の、地表部分を何かが襲った。“神の柱”が何かをやった?)
(…緑の光)
(あれは何?あのひとは―)
「―おら、起きろ小娘、到着だ。ぼーっとしてんなよ?給料分は働いて貰うぞ」
クロの声で我に返る。ジープはいつの間にか停車している。梔子は既にジープを降りて、装備の点検を済ませている。クロは助手席上から苛立ちと心配が入り混じった様な目で私を見ている。
「ごめん」
「しっかりしてくれよ?頼りにしてんだからよ、ま、こんくらいはな」
『こんくらい』の部分で、クロは両の前足の肉球をぴったりと押し付けて、にんまりと笑う。私は苦笑いを浮かべ、クロの方へ右腕を差し出す。クロが私の腕を駆け上がり、いつもの場所に陣取る。私は後部座席のドアを開け、梔子の後を追って歩き出す。
「…精々ご期待に添うとするわ」
「拗ねんなよ、カナエ。新米の扱いなんて大体そんなもんだ。特にお前は新米も新米、まだ芽が出てもないくらいの―」
「…種っていうんじゃないの、それは」
前方に横転したトラックが見える。(…これが、例の)トラックの後ろには、ガソリンスタンドに出入りして居る様な、大型の円筒形のタンクが繋いである。(どう見ても、2t、3tはありそうだな)(そう言えば、ガソリンの量とかは聞いてなかったな…)(ジープに繋いで運搬―は、無理か)(そもそも繋ぐ設備が無い)(かと言って、トラックを起こすのは無理があるだろうなぁ。流石に3人じゃな。“車屋”の主人が、一応車を貸し出してくれるんだっけ?)(料金取られねえだろうな)
トラックの周囲にはジープがある。機銃付きのジープだ。(…これが、噂の護衛チームの車だろうか)(一瞬で半壊したっていう)(結構いい装備に見える。車だって、ジープというより、装甲車みたいだし)(…これで負けたのか。何か今更ながら、不安になって来たな)車は一台が川底の真ん中で、一台が東岸付近の大岩に激突して停まっている。真中に停まっている方の車両の周りには、大量の薬莢が散らばっている。(機銃を撃った跡。銃帯が弾創に入ったままだ)(つまり、撃ってる最中に死んだか、逃げ出したか)(死体は無い)(血の跡は残ってる。血痕は何処にも続いてない―)
(?)
―何かがおかしい、と思う。(血だ)説明できない違和感が背筋に張り付く。(血痕はある。死体は無い)梔子の方を見る。梔子は横転したトラックを調べている。私は苦笑する。とことん実利主義な奴だな、と思う。(確かにそいつを持って帰りゃ、依頼は完了だ。もうここに来る必要も無い)(―けど、ここ…)(…何か、変な気がする。良く分からないけど)
(危険な気がする。何かがおかしい。一体何が?)
梔子はトラックの周囲を点検している。どうやら、ガソリン漏れが無いかを調べているらしい。(…まぁ、賢明な判断かもな。あのトラックは3人じゃ起こせない。だったら、ガソリン漏れが無いかを調べて、街へ帰って報告して、人数を揃えて―…)(―その場合、報酬は幾らになるんだろう。少なくとも、30000は貰えないよなぁ)
「おら小娘、んなとこで油売ってないで、さっさと小僧を手伝いに―」
私はクロを無視して、もう一台の護衛車両の方へ向かう。「―おい、小娘?」東岸付近で、大岩に激突して停まっている車両だ。私は車両に歩み寄る。「こいつがなんだってんだ?」車両の内側から大量の血液が漏れた跡がある。窓から車両内を覗き見てみる。車両の内側では、目出し帽を目深に被った、揃いの服装の人間が、運転席と助手席で死んでいるのが見て取れる。(―わ)(死体だ…)込み上げる悪寒を、必死に飲み下す。骨と血だったら、この前散々見たじゃないか、と自分に言い聞かせる。(肉が付いてるだけじゃないか。この前のと大して変わらない)(…吐いてる場合じゃない。堪えろ。吐いてる場合じゃないんだ)(冷静になれ。ここは何かがおかしい。良く分からないけれど、でも多分ここは、何かが―)(腐乱臭がしないだけマシだ。ここは湿度が低い。ここが砂漠で良かった)
運転席と助手席の彼らの、丁度胴体の部分を横断する様に、岩がフロントガラスを貫通し、二人の腹を押し潰している。目出し帽のふたりは、驚きに目を見開いて死んでいる。何が起こったのか分からない、という風に。(…多分、一瞬の事だったんだろう)(護衛チームの半分は一瞬で壊滅)(何が起きたのか分からない内に。嫌な死に方だな。それとも良い死に方か。まぁ、人に寄るんだろう。私は御免だ)車両の後部座席の扉は開いていて、そこから点々と血痕が続いている。運転席側の後部座席から続く血痕よりも、助手席側から続く血痕の方が若干長い。(どうやら、二人の死には若干の時差があったらしい)(護衛チームは8人)(4人ずつ、二つの車両に分かれて―…)二つとも、血痕は途中で途切れている。二つとも、その先に死体は無い。
「おい、小娘」
「お願い、ちょっと黙ってて、クロ」
考える。何とかして、思考を形にしようとする。(何か)(何かがおかしい)(報酬は30000/3)(犠牲者は19人)(依頼はガソリントラックを―又はガソリンを持って帰るだけ)(血)(場所は“タウン”から10分~15分程の渓谷)(血だ)(ガソリン)(血痕はある。死体は無い)(護衛部隊は8人。4人ずつ二組になって、機銃付きの車両に乗っていた)(血痕だけだ)(車両は一台が川底の真ん中、一台が東岸付近で大岩に激突して)(残りの11人は?全員ディガー?)(妙に正確な数字)(運転手は砂漠を走って逃げた)(足は遅いのだろうか。でも、確か護衛チームの半分は、一瞬で死んだって―?)
「おい、なぁ、なぁってば、カナエ?」
「煩いな。静かにしてって―」
「違うんだ、なぁ、これよぅ」
クロの声に。
僅かに怯えた感情の混じる声に、私は顔を上げる。纏まり掛けていた思考が、急速に解けて行くのが分かる。私は若干、恨みがましい目付きでクロを見る。クロは私の視線には気付かずに、護衛チームの車両の方を見ている。東岸付近の車両の方だ。大岩に激突している方。
「なぁ、これよぅ。なんか変じゃないか?」
「なんかって―」
(―何がよ?)
車両を見る。口にする前に、気付く。(岩じゃない)私は瞬きをする。(これ…岩じゃない)(?)護衛車両が衝突しているのは、岩ではなく、三枚の、石材で出来た壁の様なものだと気付く。一枚は車両の前方に、一枚はフロントガラスを貫通し、車両前席の死体の胴体へ、そしてもう一枚は車両の。ボンネットの上に乗っている石材板には、小さな長方形の穴と、その上に文字が彫られている事に気付く。
(これ…)
私はそれを見る。文字は二文字の漢字だ。そこにはこう彫られている。
『川内』
(―塀だ)
空を見上げる。続いて周囲を確認する。(?)(これ…)(表札。塀だ。下のは郵便受け)(東岸に民家の塀らしきものがあった)(?)(それを、車両の上に―)(千切った)(千切って、落としたんだ。車両の上に)(ここはヤバい。ここに居るのは不味い気がする)
クロを見る。目を見て、同じ事を考えているのが分かる。
「今直ぐ逃げんぞ」
「賛成」
乗って来たジープの方に足早に戻りながら、私は梔子の方を見る。梔子はガソリンタンクの上に乗っている。私は彼の方を向いて口を開き、足を止め―その場に立ち尽くす。
「カナエ?何してる?早く―」
漸く違和感の正体に気付く。
「―カナエ?」
(運転手は砂漠を走って逃げた)
(トラックに乗っていたのに)
(トラックに乗っていたのに、運転手は砂漠を走って逃げた。どうして?)
(トラックが横転していたから)
(トラックが横転した。どうして?あんな大きなトラックが、こんな何も無い、乾いた川底で)
思わず舌打ちが出る。己の愚かさを呪う。
横転したトラックからは、。前輪、後方2輪、合わせて3つのタイヤが、文字通り消失していた。塀に激突している東岸の護衛車両も同様だ。左側の前輪タイヤが消えている。私は歯を食い縛り、深く息を吸う。(不味い)(不味い、不味い不味い、不味い不味い不味い―)
()
「小僧!一旦ここを離れるぞ!そいつを動かすのは、どっちにしろ俺達だけじゃ無理だ!ここに居るのはヤバい、直ぐにここを離れて、作戦を―」
―クロが叫ぶ。梔子はクロの声が聞こえないのだろうか、ガソリンタンクの上で空を仰ぎ見ている。私はクロの声に押される様に、ジープの方へのろのろと進む。その内に、私にも音が聞こえてくる。
私にも、羽音が。
私は空を見上げる。梔子も空を見上げている。バサバサと羽音がする。音のする先に人影が見える。白い、清潔そうな布に身を包み、幾何学的な文様の刻まれた布に首を通し、それを体の前後に垂らしている。若い男だ。(20…か、22か。そんくらいだろう。少なくとも、私達よりか年上に見える)透き通る様な肌に柔らかい微笑みを浮かべている。男は右手に白い杖を携えている。杖の頂点には、緑色に輝く宝石が飾られている。
男は翼を羽ばたかせ、ゆっくりと地上へ降りて来る。(―裸足だ)(?)(羽)(羽…生えてる)男の素足が白く乾いた地面の上に立つ。男は笑みを浮かべて私を見る。男は白い翼を背中側に折り畳み、手の中の杖を私の方へ向ける。
私は反射的に左手を上げる。
―その瞬間、思い切り後ろへ引っ張られる。
呼吸が止まる。パニックになる。(?)視界の端から、ボウガンの矢が射出されるのが見える。首筋に革の手袋のチクチクとした感触を覚える。(―梔子?)どうやら、梔子が私を後ろへ引っ張ったらしい、と朧気に認識する。私は慌てて手足をばたつかせて、何とか態勢を整える。カン、とスチールを爪で弾いた様な軽い音がして、梔子の矢が空中で消滅するのを、私は見る。
翼の生えた男は残念そうに微笑み、再び羽を広げる。
振り返る。梔子を見る。目が梔子を捉えるよりも早く、梔子は私の手首を掴み、一心不乱に走り出す。何時の間にか私の肩から下りていたクロが、私達の足元を並行して走りながら、頻りに何事かを叫んでいる。クロの声は耳に聞こえてはいるが、何を言っているのか良く分からない。(?)(―あ、)(何?)言葉が耳を素通りする。心臓が忙しく脈打っているのが分かる。パニックが頭を席巻する。さっき考えていた事が、壊れたラジオみたいに頭の中で繰り返し鳴り響き続ける。
「クソクソクソ糞クソクソクソクソクソ糞親父―!!何が簡単な仕事だ、何が破格の報酬だ!!『相手は変異体一匹』?『実績のあるお前さんたちなら楽勝』―?あのクソッタレの“車屋”、よくもあのジジイ、ああああの糞野郎、ふざけやがって、よくも騙しやがったな―!!!」
(運転手は砂漠を走って逃げた)
(トラックに乗っていたのに)
(トラックに乗っていたのに、運転手は砂漠を走って逃げた。どうして?)
(トラックが横転していたから)
(トラックが横転した。どうして?あんな大きなトラックが、こんな何も無い、乾いた川底で)
(タイヤを消されたから)
(タイヤを消された。どうして?)
(足を奪う為。ここから逃げられない様に)
()
「梔子、カナエ、足を回せ!!ああ畜生、こいつは天使だ!天使じゃねえか―!!!!」
(ここは奴の狩場だ)
「わ」
手首を引っ張り上げられ、胴を抱え上げられ、ジープの後部座席に放り入れられる。
「―ぶ」
何が起こっているのか分からない。周囲のスピードに付いていけない。一つだけ分かっている事と言えば、さっきまでのんびりとしていたここが、一瞬で危険地帯に変わってしまったということだけだ。危機感は無い。恐怖感も。
―ただ、漠然とした焦燥だけがある。
上体を起こす。梔子が運転席のドアを開けながら、左足の爪先を器用にクロの胴体に引っ掛けているのが目に映る。爪先からクロが、ジープの後部座席へと飛ぶ。私は反射的に腕を伸ばす。クロが私の胸に飛び込んで来る。私はまたジープの後部座席に倒れ込む。梔子がドアを閉める音がする。
「―出せ、小僧!!」
胸の中でクロがそう我鳴り立てる。私は未だぼんやりとしている。クロを抱きながら、無意識にコートのポケットへと手を伸ばす。拳銃の銃口に指先が触れる。鉄の冷たさに慰められる。
梔子がキーを捻る音がする。甲高く軋る声、鉄の擦れる音、エンジンの低い唸り声。後部座席の上で、私はまた体を起こす。車体が微かに振動を始める。現実感を取り戻そうと、私は必死に瞬きを繰り返す。ジープの前方に男が立っている。さっきの男だ、と思う。羽の生えた男。
「―どうした!?さっさとしろ、小僧!出せ、ああ金ぁ惜しいが、とっとと逃げなきゃよ―!!!?」
梔子が思い切りアクセルを踏み込む。
タイヤは乾泥の中で空転するだけで、遅々として前に進もうとはしない。
男が笑う。背中の翼を折り畳み、ゆっくりと杖を持ち上げる。腕の中で、クロの小さな体が微かに震えているのが分かる。車体の揺れとは無関係の震えだ、と気付く。私はクロを見下ろす。ポケットの中から拳銃を取り出し、両手で構える。お尻と背中をしっかりとジープの後部座席に押し付け、安全装置を外し、慎重に狙いを定める。
鉄の冷たさに慰められる。
(大丈夫、結構近い)
(5mか…6mくらい)
(一発じゃ無理でも、何発か撃ちゃあよ。一発くらいは―)
(―籤運は良い方なんだ、私)
引き金を引く。
思ったよりも衝撃は無い。脱臼した方の肩が、微かに痛む程度だ。鼓膜が震える。目がチカチカする。火薬の臭いがする。少しだけ、頭の中がすっきりした気がする。
(…ハイになってるだけかもしれないけど。寝る前に、しこたまカフェインブチ込んだみたいに)
―続けて引き金を引く。二発、三発、四発と。三発目で、あの薄い鉄を弾く様なカン、という音がする。(四発)(覚えとけ、四発。少なくとも、リロードするまでは―)苛立ったように、男が眉根を寄せる。
「梔子、煙幕ある?」
梔子は私の声に気付いていないのか、夢中でアクセルを踏んでいる。ギアをドライブに入れ、ニュートラルに入れ、バックに入れ、アクセルを踏んで、エンジンを切ってはまた掛け、アクセルを踏む。余裕の表れだろうか、男はゆっくりとジープに歩み寄って来る。(あと4m、あと3m、あと―)男が杖を持った手を、勿体ぶって持ち上げ―。
―私は思いっきり運転席を後ろから蹴り付ける。
梔子は驚いた顔で私を振り返る。私の膝の上で、クロも。(…こいつら)私は苛立ちを飲み込み、必要な事柄だけを素早く捲し立てる。
「―梔子、クロ、煙幕あるか?なんでもいい、何か目眩まし的なものは」
「お―あ、確か、遭難した時のSOS発信用に、発煙筒が幾つかあったと思うけど―でも、なんで、」
「煩い。良いか?ゴチャゴチャと質問は無しだ。奴の視界を切れ。車を捨てて、上へ向かうぞ」
梔子は頷き、鞄の中から迷わずに発煙筒を一掴み取り出す。(…流石、出来る男)「く―車を捨てる?」クロは私の膝の上で、不安そうな、混乱したよな、怒って居る様な顔で、私の事を見上げている。
「―お前、自分が何を言ってるのか、分かってんのか?このジープが幾らしたと?それに、この砂漠でどうやって、車も無しにあいつから―?」
麻色のショルダーバックを肩に掛け、梔子が発煙筒に火を点ける。(…火打石だ。初めて見た―)十分な煙を吐き出し始めたのを見届けてから、梔子はそれを前方に放り投げる。私達は一斉にジープの扉を開ける。細かい打ち合わせは出来なかったけれども、どうやら梔子が同じ方角を目指してくれていたみたいでホッとする。(―目指すは、東岸。建物が多い。遮蔽物も)「―おい、小僧、正気か?こんな小娘の―」私は銃把を握ったままクロの胴体を抱え、左手でクロの口元に封をする。そのままクロの耳元に囁く。
「―良い?クロ。あんたがそのまま口煩く喚いてるつもりなら、私はあんたを置いていく」
「ム―」
「車はもう駄目だ。多分、タイヤを消された。横転したトラックや、石壁に突っ込んでる護衛車両を見ただろ?あれと同じ事が、このジープにも起こってる筈だ。言ってる意味は分かるか?」
「―グ」
「―あいつには知能がある。視界を切って、遮蔽物のある場所に移るしかない。そっから逃げるにしろ、戦うにしろ。梔子、準備は?」
二つ目の発煙筒に火を点し、梔子は頷く。ジープを降り、私達は走り出す。東岸へ向かって。途中、一度だけ、後ろを振り返る。翼の生えた男が私達の方を向いて笑っている。梔子が張ったふたつの煙幕は既に掻き消えている。カン、という、あの薄い鉄を弾く音を聞いた様な気がする。
羽を広げて、男は笑っている。
男は言う。
「―ああ、逃げるがよい、気が済むまで逃げ惑うがよい、罪深き人間共!そのか弱き二本の足で!翼を持たぬ汚らわしき種族よ、神は貴様たちの所業を大変深くお嘆きになられている―貴様たちの様な種族を造り出した事を後悔する程にな!ああ逃げよ逃げよ、気が済むまで逃げよ、どれだけ逃げた所で、貴様たちは決して神の箱庭から逃れる事は出来ぬ!」
男が翼をはためかせる。梔子が三つ目の煙幕を投げる。
男は笑う。
「―大いなる慈悲をくれてやろう。さぁ、神聖なる狩りの始まりだ!」
走る。
乾いた泥の上を走る。
南東へ走る。地面に赤い砂が混じり始める。漸く東岸へと登れそうな位、斜面の傾斜が緩やかな場所に着く。頭上から砂が零れ落ちて来る。坂の上で、体が後退するのを止められない。息を殺して悪態を吐く。梔子が私の手首を掴み、岸上へと私の身体を牽引してくれる。繋いだ腕を伝って、クロが梔子の肩へ移動する。クロは不安そうな目で、川底の方角と私を交互に見比べている。
「急げ急げ急げ小娘、もうすぐ奴が来るぞ、ああもうすぐ奴が来る、急げ、殺されたくなけりゃあよ―!」
「―っさい、ぁかってるって―」
―羽音が聞こえる。
思わず背後を振り返る。煙の中から、あの男が飛び立つのが見える。裸足の男。右手に杖を持った男。羽の生えた男。
“天使”。
(―冗談じゃない)
梔子を見る。私を掴んでいない方の手に、未だ2つの発煙筒が残っているのが見える。(…もう2つ)(欲を言や、上に登りきった時に、3つ以上は残っているのが理想だったんだけれど―)(一気に広範囲に焚いて、どの建物に隠れたのか分からなく出来れば)(…けど、文句は言って居られない。足りない煙幕は、砂煙かなんかで代用するしかない)(―爆発物があればだけど。それと、そいつを仕掛けてる時間とか、余裕も)(…この前は持ってたよな、爆弾。でも、あれは地下の大扉を爆破する為だって―)(―ていうか、片腕で、発煙筒にどうやって火を―)
私は梔子を掴む掌の力を緩める。それに気付いてか気付かないでか、梔子は私の手を益々力強く握り締める。(―痛い)私は顔を顰める。梔子は“天使”から片時も目を離さないでいる。左手に持った発煙筒のうち一つを、肩の上のクロに向けて差し出す。(…ああ、成程)「よっしゃ、来い―!」クロは発煙筒を、器用に前足と胴で挟み込む。梔子はそれに火を点ける。「…っけー、もう良いぞ、小僧―!」梔子はクロの声を合図に、最後の発煙筒をズボンのベルトに突き刺し、火の点いた煙幕をクロから受け取る。発煙筒が煙を吐き出し始める。
梔子は“天使”から片時も目を離さない。
(…マジかよ)
(空、飛んでる)
(当たり前かもな。羽、生えてるもんなぁ…)
右手に持った拳銃を、どうにか“天使”に向けようと試みる。梔子と繋いだ左腕が交差して、狙い辛い。(…どっちにしろ、私の腕じゃ無理だろうけどな。片腕だし、距離が離れ過ぎてるし。あと、向こうは空も飛んでるし)(“天使”―)(…あの杖、なんなんだ?音が鳴ると、何かを消す)(空を飛んで―)(タイヤ)(血痕はある。死体は無い)(血)(空を飛んでる。血痕はある)(ああ、頭が働かない。さっきあいつは何つってたっけ?)(―罪深き人間、神聖なる狩り―)
“天使”が杖を、私達の方に傾ける。
(―貴様たちは決して、神の箱庭から―)
梔子が足元に発煙筒を落とす。地面はいつの間にか、平衡を取り戻している。私は拳銃を握った手の甲で、梔子の右の手袋を強く打つ。梔子は微かに驚いた様な目を私に向け、思わずと言った感じに私の手を離す。私は拳銃の先で、近くに建つコンクリート造りの集合住宅の残骸を指し示す。(5階建て位、L字型の棟、殆ど剥げ落ちた白ペンキ)(部屋数も多そうだ、隠れるにはもってこいの―)梔子は頷き、ボウガンに次矢を込める。私達は背を低くして、走り出し―。
―カン。
音がして。
目の前の地面が抉れる。
思わず、立ち止まってしまう。
私達の足元を横切る様に、5m程の直線の亀裂が走っている。亀裂からは砂埃が舞い上がっている。まるで、今出来たのだという事を誇示するみたいに。亀裂は何の前触れも無くそこにある。鋭利な刃物で無造作に布を裂いた痕の様に、地面には裂け目が出来ている。
(―貴様たちは決して、神の箱庭から―)
地面の亀裂の意味を理解出来ない。
音のした方を見る。10mは離れた所に、発煙筒が転がっている。梔子が張った四つ目の煙幕が、左上から右下に掛けて、袈裟懸けに分離している。まるで誰かがそういう風に、煙を切り裂いてしまったかの様に。煙の向こうに天使が見える。天使は微笑んで私達を見ている。発煙筒から立ち昇る煙が、再び私達と天使を遮る。遮る前、天使が杖を振り上げたのが見える。
天使は笑っている。子供の様に。
(…クソ、あの杖―)
(不味い)(考えろ)(血)(血痕はある)(地面)(血痕はある。死体は無い)(煙)(何かを消す)(奴の仕業)(ここは狩場)(空を飛んでる)(天使)(クソ、不味い、不味い不味い、あれは何だ、あれは―!)
―ヒュッ、と鋭く空気を裂く音がする。ボウガンが射出される。私の背中を思い切り叩き、梔子が私の傍を擦り抜けていく。梔子は天使の居る方向を見据えながら、左手だけで小さく手招きする。続いて、クロが私の左隣を駆け抜けていく。小声で悪態を吐きながら。
「―何グズグズしてんだよ、馬鹿!ここでくたばりてぇのか、カナエ!?」
(考える―)
(考えるのは、後)
(今は足を―)
―一拍遅れて、私も走り出す。背後であの薄い鉄を弾く様な、カン、という音がする。振り返りたい欲求を押さえ込む。必死で走る。拳銃を落とさない様に、握り直す。
拳銃にはすっかり私の体温が移っている。鉄の冷たさは消え失せている。
集合住宅に足を踏み入れる。
「―愚かなり、人の子よ。何処へ逃げた所で―」
暗がりに視界を奪われる。足元の瓦礫で転びそうになる。拳銃を握り締める。拳銃を強く握り締める。
天使の笑い声が聞こえる。
「―はは、愛しき主上から賜った、この“御技”からは逃れられんぞ―!」
目を固く瞑る。歯を食い縛る。
恐怖が戻って来る。
(…ああ、畜生)
―私の内側に、恐怖が。
(不味いな、こりゃ。)
血液の音が聞こえる。
(―は、)
頭の中でどくどくと血液の巡る音が聞こえる。息が苦しい。視界が暗い。瓦礫で躓いて転ばないように祈りながら、私は手探りで集合住宅の奥へと進んでいく。(不味い)(クロ、梔子、どこ?)(不味い不味い不味い―)(前が見えない)(待って)(天使が来る)(逃げなきゃ。天使がもう、直ぐそこに―)
指先が壁に触れる。壁の冷たさに悲鳴を上げそうになる。慌てて左手で口元を押さえる。擦り足で少しずつ、慎重に前進する。米神を流れる、どくどくという血流の音が漸く遠退いていく。周囲の音が戻って来る。天使の羽音は、ずっと遠くに聞こえる。あの、破壊の前触れに聞こえる、鉄を弾く様な音も聞こえて来ない。
(…?)
(追って、来ない…?)
(諦めた―)(―訳じゃ、ないよなぁ…)
(狩り)(神聖なる)(決して、神の箱庭から―)
(狩場)
(………遊んでるって訳か?それとも、余裕の表れ?)
視界が暗がりにのんびりと順応し始める。(…クソ、明りが欲しい、明りが―)(懐中電灯は荷物の中)(荷物はジープの後部座席の上)左手には廊下が続いている。右手には階段。どうやら私は集合住宅の1階角、廊下と階段が交わる部分に居るらしい。廊下には鉄扉が並んでいる。廊下の方は、2階の廊下が一部崩落したのだろう、大きなコンクリート片や細かい瓦礫、砂等で所々遮られているが、それでも仄かに光が差し込んでいるのが見て取れる。反射的にそちらへ行きたくなる。
(―駄目)
(駄目?)(駄目だ)(どうして?)(駄目に決まってる)
(安全じゃない)(安全だ、)
(部屋の一つに、隠れて―)(隠れて、どうする?)(あいつを、やり過ごす)(4発)(やり過ごせるか?扉を開けるにも音がする。廊下は障害物や瓦礫で十分な速度が出せない。向こうにはあの“杖”がある。あの不可解な、なんつってたっけ?)(4発撃った。マガジンの残りは5発)(“御技”)(運良く、交換用のマガジンはポケットに入ってる。ズボンの尻ポケットに1、コートのポケットに2)(…クロの忠告が役に立ったって訳だ。なんだか癪だけど)(“マガジンは、直ぐ取り換えられる様に―”…)
(…さて、どっちへ行くべきか)
「カナエ」
頭上から声を掛けられる。
悲鳴を上げて慌てふためく代わりに、自分でも驚く速度で、私は拳銃を声のした方へ向ける。そこには驚いた顔で、クロが階段の縁から顔を出して、私の方を覗いているのが見える。私は済んでの所で、自分の人差し指を思い留まらせる。
―羽音が聞こえる。羽音が遠くに。危険は未だ去っていないと、私達に思い知らせるみたいに。
「…わ、」
階段の縁に立って。クロが口を開く。驚いたままの表情で。
「悪かったよ、お前、夜目は効かなかったもんなぁ。なのに、先々行っちまって」
「あ―い…や、私―」
「ま、取り敢えず、その銃を下ろしてくれ。悪かったと思ってる。何も撃ち殺す事はねぇだろ?安全装置は掛かってんだろうな?前にも言ったと思うけどよ、良いディガーかどうかは、そいつの…」
「―“脹脛を見れば分かる”」
「―そう、その通りだ、小娘。取り敢えず銃を下ろしてくれ。味方に撃たれちゃたまんねえ」
私は右腕をゆっくりと下ろし、左手の人差し指で、安全装置の留め金を掛ける。自分の指先が震えている事に気付く。(…思ったより、んだな、私)拳銃を握る指先は、すっかり冷え切ってしまっている。まるで拳銃に、体温を食べられてしまったみたいに。
(…落ち着け。何処かで一息ついて、そして考えよう)
(あいつも直ぐには襲って来ないみたいだ。狩りを長く楽しむ為か、私達を疲弊させる為か)
(…若しくは、出来るだけ長い間、恐怖に曝す為か)
(なんにしろ碌でも無い野郎だ)
拳銃を握る手を引き剥がそうとするも、上手くいかない。私は諦めて、クロの方を見上げる。
「梔子は?」
「上の踊り場に居るよ。お前も上に来い。取り敢えず上に逃げるぞ」
「上?危険じゃないかな。あいつは何て言うか、変な技を使う。あいつが杖を振るだけで、物が消えたり、壊れたりするんだ。もし、この建物の土台を消されでもしたら―」
「―でも、2階は廊下が崩れてるし、1階でのんびり野郎を待ってる訳にもいかねえだろ?取り敢えずは上に行く。土台から消されるのも、建物を上から削られるのも危険性は大体一緒だろ。奴ぁ空を飛べるんだ」
(…確かに)
「上に行くぞ。来い」
「分かった」
(…梔子)
2階と3階の、丁度中間にある踊り場。そこで梔子は私達を待っている。私の気配に気付くと、梔子は素早く振り返って、口元の前に人差し指を立てて見せる。私は左腕を軽く上げて、それに応える。梔子はホッとした様に目元を緩めると、私から視線を外す。
(―そんなに信用ないのかな、私)
踊り場の壁には穴が開いている。自然に崩れたのか、それとも誰かが人為的に開けたのかは分からないが、結構大きな穴だ。(…マンホール二つ分くらい)穴の外を、天使が通り過ぎる。天使はどうやら、この集合住宅の周りを円を描いて旋回している様だ。(…件の石油トラックのドライバーに逃げられたのが、よっぽど心の棘になっているんだろうか)逃げられない様に見張っているのか、突入のタイミングを見計らっているだけなのか。どっちにしろ、天使が直ぐに仕掛けて来る様子はない。
「行くぞ」
足元でクロが囁く。梔子はチラリとクロの方を見て、また直ぐに外に視線を戻す。ボウガンを静かに、音を立てない様に、ゆっくりと構え直す。グリップを握る手に、僅かに力が籠る。構わずにクロは話の先を続ける。
「今はああやってアホの禿鷹みたいに建物の周りをグルグル回っちゃいるがな、いつあいつの気分が変わるかは分からねえ。次あいつがここを通り過ぎたら上階に駆け上がるぞ。準備はいいな?」
「―待って。あいつが視認できる場所に居た方が良くない?ここであいつを見張りながら、これからどうするか決めた方が―」
「アホ。ここで奴を見張ってようが見張っていなかろうが、全く意味ねえんだよ。忘れたのか、カナエ?野郎にゃ羽がある。それと杖もな。向こうが1階からノコノコ入って来る理由はねえんだ。それと、屋上から侵入する理由もな。向こうはどっか死角の適当な壁に穴ァ開けて建物に入ってくりゃ良い。見張りは意味ねえんだ。どっかに隠れた方がよっぽどマシさ」
「………む」
(完全論破されてしまった)
「納得したか?小僧、合図しろ」
外を向いたまま、梔子が頷く。頬を汗が伝うのが見える。(…梔子)梔子は瞬きをせずに外を見ている。梔子の左目に静かに涙が滲む。
天使が穴の外を通り過ぎる。
梔子は穴の外を向いたまま、左手を振って上階を指差す。私達は出来るだけ音を立てない様に、無言で3階を目指す。拳銃を握ったままの手で壁に手を突き、左手で階段の手摺に指を滑らせる。クロは私には到底真似の出来ない速度で、階段を駆け上がっていく。途中、チラリと後ろを振り返る。梔子は壁の穴の方向にボウガンを向けたまま、私達の後を後ろ向きに着いて来ている。その姿に、何故か意味も無く安心する。
(…さて、3階はどんな感じかな?)
(せめて、床が抜けてないと良いんだけれど―)
両手で拳銃を構え直す。左手の親指で安全装置に触れる。階段を昇り切った先に、クロの背中が待っているのが見える。「クロ、」囁きながら、階段の段差を一段ずつ昇っていく。「3階の様子は―」最後の段に、足の裏が触れる。
クロが無言で私の方を見上げる。クロは私から視線を外し、そのまま3階の廊下の方へと視線を戻す。
私もクロの視線を追う。
私は見る。
3階廊下の、床に転がるを。
私は反射的に銃口を跳ね上げる。に銃口を向ける。
引き金を引く。
―ガチン、と鉄同士が衝突する音が手の中から聞こえる。引き金が最後まで押し込めない。
(?)(何だこれ)(銃)(?)(今、撃った?)(そうか、セーフティ―)
私は床の上に転がるを見る。が今の所動いたり暴れたり、私達を襲って来る様子はない、と漸く気付く。(?)(何、)(何だこれ)(クソ、)(何だこれ何だこれ、なんなん―)(変異)(?)(違う)(変異体?)(違う)
(…違う、みたいだ)
銃を下ろす。両手で握ったまま。床の上に広がる光景を見る。
首。
生首だ。人体の生首。人間の生首が転がっている。10数個の人間の生首が、床の上に綺麗に並べられている。コレクションケースの中に行儀良く並ぶメダルみたいに、10…12の人間の首が、3階廊下と繋がる踊り場に綺麗に均等に並べられている。等間隔の隙間を開けて、皆が階段の方を向いて整然と並んでいる。白く濁った眼、歯の欠けた口元、肉の削げて骨の見える鼻が、まるで歓迎するかのように私達の方を向いている。
―新しい仲間を迎え入れるかのように。
急激に吐き気が込み上げる。私は拳銃を両手で握ったまま、左腕を口元に押し付けそれを堪える。(…隠れる)(どっかに隠れた方が―)(…クソ、ああ、クソ、畜生)(―よっぽどマシ)(臭いで見つかるなんて間抜けな最後、死んでもご免だ。天使の鼻が犬並みに効いたら、どうする?)(そうでなくても、情報を与えてしまう。私の吐瀉物が、私がここに居た証拠を残してしまう)衣服の上から左腕の内側の肉を噛む。拳銃を握っていた左手を離す。目を閉じる。痛みと、それに付随する怒りの事だけを考える。私達をこんな状況に追い込んだ、あのクソッタレの天使の事だけを。(―痛)(痛い)(ああ畜生、我慢だ叶、お前は出来る子だろ?お医者さんにも褒められてたじゃないか、叶ちゃんは、注射の時にも泣かないって―)
(―ああ、せめて昼食前で良かったよ…)
…吐き気が治まる。腕から口を離す。目を開ける。臭いを吸い込んでしまわない様に、出来るだけ浅く呼吸を繰り返す。12個の首が並んでいる。12個の人間の生首が並んでいる場所を通り過ぎて、3階の廊下へ足を踏み入れる。
(…成程ね)
(ここは奴の“お気に入り”の場所って訳だ)
(私達はここに逃げて来たんじゃ無かった。ここに追い込まれただけだった)
(―それとも、他の建物にも、同じ様なインテリアが施してあるのか?)
(随分猟奇的な趣味してるんだな。それか恐怖を与えるのが目的?)
(百舌鳥の早贄みたい)
(狩り)
(ここは奴の狩場)
―3階の廊下にはロープが張り巡らされている。天井から吊下がったロープ、扉のノブとノブを結んで渡されたロープ、廊下の手摺と格子窓とを結ぶロープ。そのロープの一つ一つに、必ず人体の一部がぶら提げられている。どうやらこの意匠を施した人物は、かなりの熱意と労力を以ってこの仕事に取り組んでいたらしい。右腕だけがぶら下がったロープ、トーテムポールみたいに積み上げられた三つの胴体、干乾びた腸が巻き付いた右足が壁に立て掛けられ、左足が四つ並んで空中に揺れている。私は廊下を進む。途中、左手が二つぶら下ったロープに目を留める。天井の照明にぶら下がったロープだ。その左手の内、下側の方の手が、ナイフを握ったままなのに気付く。(…私の荷物は全部ジープに置いてきた。私が今持っているのは、予備のマガジン3つだけ)(武器は少しでも―)
(―…多い方が良い)
「…カナエ?」
左手の指を剥がそうとする。硬い。(…死後硬直、ってやつかな)銃で指を全部吹き飛ばしてしまいたいところだが、そういう訳にもいかない。私は歯を食い縛り、人差し指から力を込めて引き剥がしていく。(…か、く、ぐぐ、硬い)(全部剥がれなくても良いんだ、せめて2本か3本外れりゃ―)ボキリ、と鈍い音がして、ロープにぶら下がる左手の人差し指が変な方向に折れ曲がる。手の中に嫌な感触が残る。
私は苦い笑みを浮かべて、ロープに吊られた哀れな左手を見る。
(…ナイフが外れてくれるかも)
「…カナエ、無理にそっちに行かなくても良いんじゃねえかな?ほら、上の階だって、その上の階だって、まだあるんだしよ―」
クロの声が聞こえる。クロの声が、やけに遠くから。
私は吊られた左手の骨を折る作業に没頭する。上の空でクロに返事を返す。
「向こうもそう思ってたらどうするの?多分、この階は意図してこういう風に飾ってある。忘れたの?奴は知能があるんだ。誰だって死体は怖い。それが同族となれば、尚更ね。奴が習性を利用してるとは思わない?まぁもしかしたら、趣味と実益を兼ねているだけなのかもしれないけど」
(…どうしてか分からないけど、親指だけ目茶目茶硬いな。そういうもんなのかな?まあいい、中指だけでも折れれば、無理矢理引き摺り出せそうだ―)
―ボキン。
「カナエ…」
「私は上の階に行くのは反対だな。隠れるならこの階が良い」
吊られた左腕からナイフを奪う。梔子が持っているのよりも小さなナイフだ。持ち易い様にか、柄が少し長く、滑り止めのグリップが付いている。(…私の手には合わないが)刃の部分は柄の1.2倍と言った所だ。刃は赤茶色にすっかり汚れている。私はコートの袖口で刃の汚れが落とせないかどうか確かめる。
足音が背後から私に近付いて来る。
首だけを動かして後ろを見る。そこには梔子と、少し遅れてクロが着いて来ている。クロは怯えている様な、気に喰わないという様な眼で、警戒する様に周囲と私を睨みつけている。
私は頬を緩め、一番手近にあった部屋の扉のノブを捻ってみる。特に抵抗も無く扉は開く。(扉の表面には数字が書かれている)(308)(…308号室、って事だろうなぁ)私は扉の中へ足を踏み入れながら、クロと梔子に言う。
「…取り敢えず、この部屋で小休止と行きましょう。それから、昼食と作戦会議ね。クロ、天使について教えてくれる?天使について、ありったけのことを」
「―そりゃ、良いけどよ。お前、ホントにここで飯にすんのか?その、あれを見てよ…」
「別に、食べたくないなら構わないけれど。あなたの分の食料が浮くだけよ」
「…喰わねえとは言ってねえだろうがよ。お前こそ大丈夫なのか?さっき吐きそうだったじゃねえか」
「御心配無く、胃袋は丈夫な方なの。それに、神経の方もね」
「…ハ、そりゃ、確かに。違ぇねえわな」
クロは鼻を鳴らしてそう言う。梔子とクロが室内に足を踏み入れる。
私は扉を閉める。
―出来るだけ、音を立てない様に。
(…1LDK)
部屋の中は荒れ果てている。
『部屋』と呼ぶのもおこがましい程、室内には何もない。トイレのドア、ユニットバスとトイレの間の仕切り、シャワーヘッドのパーツ、蛇口、壁紙、床板。コンクリート剥き出しの床の上に、プラスチックで出来た車の玩具が落ちている。灰色の部屋は、見ようによっては造りかけの部屋の様にも思える。
(盗賊の大軍にでも襲われたみたいだな。それか、イナゴの大群…)
リビングがあったと思われる、部屋奥に足を向ける。他の部屋と同じ灰色をした壁と床、天井は他よりも少しだけ高い。ベランダに通じる大窓もあるが、窓は砂と煤で赤黒く汚れて、殆ど反対側を見通す事が出来ない。ここなら、暫くの間は体を休める事が出来るだろう、と私は考える。床の崩落した2階と、瓦礫で満足に進めない1階は除外するとしても、残りの階層だけでも部屋はかなりの数ある。この部屋をピンポイントで家探しされるとは考え難い。
(予兆がある筈だ。隣の部屋の扉を開ける音、壁に穴を開ける音、翼の音)
(先ずは腹ごしらえ。取り敢えず腹に何か入れて、動ける体力を確保する。それから状況の整理)
(それに、あの“力”…)
私は荒れ果てたリビングに、出来るだけ窓側の壁から離れて腰を下ろす。(…来るとしたら、扉側か、窓側か。隣の部屋の壁に穴を開けて来る可能性もあるけど、それは隣の部屋からの音に注意すれば済む話だ)剥き出しのコンクリートが、尻をチクチクと刺す。(…座布団が欲しい)ナイフを拭う手を止め、窓の方に翳して途中経過を見る。(ホントは部屋の中央に居た方が良いんだろうけど。でも、幾ら窓が汚れてると言っても、向こうが全く見えないのは窓の中央部分くらいだ。上側や外枠周辺は、向こうっ側が半透明に見えるくらいだし…)再び袖口でナイフを拭う。
(…良かった。何とか使えそうだ)
「おい、カナエ―」
「梔子。鞄の中に、何か食料はある?出来れば、火を使わないで食べられるものは」
―ナイフから顔を上げて、梔子に尋ねる。クロも梔子の方を振り返る。梔子は少し首を傾げて、麻色のショルダーバッグの中から大小バラバラの干し肉を引っ張り出す。(…多分、クロの昼食だな)(最初に会った時も、確かこいつは干し肉を喰ってた気がする)梔子は3つの干し肉の内、一番大きな干し肉を選んで私の方に差し出す。
「いいよ、」
私は苦笑する。
「―一番小さいやつで。特別お腹が空いてる、って訳じゃないんだ」
「そうだぞ、小僧。一番でっかいのは俺様のに決まってんだろ?」
「…あんたも小さいのにしときなさいよ、クロ。あれ、あんたの体くらいあるじゃない。喰い過ぎであんたが動けなくなったら、私、置いてくわよ?」
「冷てぇ奴だなぁ、お前は。寒さで霜焼けでも起こしそうだぜ。なぁカナエ、こういう言葉を知ってっか?後学の為に教えといてやるよ、“良いディガーは、報酬が無くても他人を助ける”―…」
「…その報酬に釣られて、今こんな目に遭ってるんだけど、忘れたの?ほら、馬鹿な事言ってないで、早く天使について、私に教えて」
干し肉を受け取る。ナイフをコートの左ポケットに滑り込ませる。右手を漸く、拳銃から離す。(…指先、硬くなってる)(それに、冷たい)(まるで、さっきの左手みたい)(吊られた左手)(ナイフを持った左手)(双子の左手)(死後硬直)
(…縁起でもない事、考えるもんじゃないな。私はまだ死んでない。少なくとも、今は未だ)
両手で干し肉を掴む。真中から齧り付く。
(…硬い)
(ほんとに噛み切れるの、これ。真冬のあずきバー並みの硬さだけど…?)
「ああ、天使、天使な…」
クロが言う。埃塗れの床で汚れない様に、梔子が干し肉の下に皿代わりのハンカチを引く。クロはその干し肉を前足で押さえ、端から器用に噛み千切っていく。梔子は何処か申し訳無さそうな表情を浮かべ、干し肉を手元で持て余している。(…顎が丈夫だな、クロ…)(これからは私も、携帯食料を用意しないとな。出来るだけ、顎に優しい携帯食料を―)
「―けどよ。その、ホントにそんな事、のんびり喋ってて良いのか?それに、こんな風に、ここで飯を喰ったりしてよ。俺ぁ大したことは知らねえぞ。そんな事よりも、逃げる算段とかを話し合った方がいいんじゃねえか?野郎が来るのは時間の問題だ。土台を消されたらヤバいって言ったのは、お前だろ?もし、1階でも5階でもなく、この、俺達の居るこの階を、野郎のあの“杖”で消されたりしたらよ―…?」
私は干し肉から口を離して、その光景を想像する。巨大な達磨落としみたいに、気紛れで建物の階層を消していく、あの天使の姿を。
(―そうなったら、確かに危ない。生き残るのは難しいだろう)
(そして、そうなる可能性は、今でもある)
(…けど、あの杖は、もしかしたら)
「大丈夫だと思う」
「あ?」
「もしかしたら、あの杖には、消せる質量に上限値があるのかもしれない。それか、大きな物を消すには、それなりの準備がいるか。或いはその両方かも」
私は喋る。喋りながら考える。思考に冷静さが戻って来る。血液の音ももう、聞こえない。
「…どうして、そう思う?」
「タイヤよ」
梔子が顔を上げる。目を大きく見開いて。
私は笑う。
「―逃げ足を奪ったり、掴まえたり殺したりするのに、車のタイヤを消すのって、結構非効率的だと思わない?実際、ひとりは取り逃してるしね。タイヤじゃなくて、エンジンや、最初から車毎消せば済むと思うし。私達の時だって、ジープからタイヤが無くなってたって事は、向こうが私達よりも早くこっちに気付いて、逃げる手段を絶ったって事なんだろうけど。でも、だったら最初からタイヤじゃなくてジープを狙っておけば、煙幕で視界を眩まされて逃げられる事も無かっただろうしね」
「っ、てことは―…!」
「飽くまで可能性の話よ。本当はどうか分からない。ああやって建物の周りをグルグル回ってるのだって、もしかしたら、ここを消す準備をしてるだけなのかもしれない」
クロの顔から、希望の色が薄れる。(そんな、あからさまにガッカリされるとな)私は苦笑いを浮かべる。干し肉にもう一度歯を立てる。(…歯が抜けそう)これ以上、昼食を続けるのを諦める。
「…でも、未だここは消されて無い。多分、もう少しは猶予があると思う。まぁ、全部仮説だし、あんまり長い間は保証できないけどね」
クロは突然、干し肉に興味を失った様に口を離し、それを前足で上から叩きながら、私を見る。気難しそうな眼差しで。私はその目を見返す。金色に光るその目が、突き刺すように鋭く細められる。口の中の物を呑み下して、脅す様な低音でクロは言う。
「…信じるぞ?」
「自信は無いよ?もしかしたら、別の意図があるのかもしれないし。トラックをあのままにしてるのは、撒き餌かもしれない。直ぐに殺さないのは、奴の気紛れか、趣味嗜好かも。それとも、他の要因か―」
「信じるからな」
…私は口を開けてクロを見る。それから、梔子を。梔子は昼食を終えた様で、干し肉でべた付く指先を、マフラーの端で拭いている。(もう食べたのか?相変わらず、早い…)梔子は私の視線に気付くと、曖昧な笑みを浮かべる。(?)彼は立ち上がり、窓際に寄ると、外から死角になる部分に立って、外の様子を窺い始める。(…これは、“クロの事はお前に任せた”ってことかな。相変わらず実利主義というか、身に成らない事はしない主義というか…)
「いいか、ありったけを話すぞ。俺が知ってる、天使についての全部だ。お前はそれで、プランを立てろ。俺達の為のプランだ。奴から逃げる為のプランか、奴を殺す為のプランをな」
「…オーライ、分かったよ、キャプテン・クロ」
「良い返事だ」
「皮肉なんだけど」
「皮肉でもだよ。準備はいいな、話すぞ?」
「―天使は、人を襲うバケモンだ」
「ええ」
「人の形をしてる。羽が生えてる。空を飛ぶ」
「ええ」
「人を襲う理由については、誰も知らねぇ。人を喰うなんて言う奴もいるが、人を喰ってる所ぁ誰も見た事がねえんだ」
「ええ」
「後は、そうだな、翼の枚数は天使によって違う。2枚だったり、4枚だったり、6枚だったりな。それに、不思議な力を使う」
「ええ。それで?」
「…あー、いや、俺が知ってるのは、以上だ」
私は無言でクロを見る。クロはそこに大事な何かが刻まれているかのように、一心不乱に干し肉を睨みつけている。時折爪を立て、引っ掻き、鼻先を近付け、舌で表面を舐める。私は梔子へ視線を移す。梔子は私の視線に気付かないふりをして、片時も窓から目を離そうとしない。(…このヤロォ)じっと目を向けていると、梔子の肩や首が、時々緊張に耐えきれなくなった様にピクリ、と痙攣する。私は溜息を吐いて、もう一度クロへ目を向ける。
「クロ」
クロは嫌々といった感じに、干し肉から面を上げる。睨みつける様な敵対的な目付き。思わず私は苦笑する。
「…なんだよ?」
「以上ってことはないでしょ。もう少し話を続けてくれる?」
「煩ぇ、だから言っただろうがよ、俺ぁ大したことは知らねえって―!!」
「分かった、分かった、分かったから―」
私は両手を上げ、必死でクロを宥める。「―声を落として、クロ。あいつに見つかっちゃうでしょ?」クロは渋々といった様子で口を閉じる。(…どうやら、極度の緊張状態で、軽いパニックになっている様だ)私は助けを求めて梔子を見る。が、梔子はそんなクロの様子に、窓の傍で戸惑っているばかりだ。(―ま、知り合いの取り乱した姿ほど、冷静さを失わせるものは無いしな…)(パニックは伝染する、とも言うし)(…とはいえ、さぁ、どうしたもんか)
(このままやり合ったら、死ぬのは確実だ…)
「―あー…、そうだな、こうしよう、クロ」
「?」
「私が質問する。お前はそれに答えてくれれば良い」
「あ…?」
「先ずは、天使について。あれは何?」
「…?さっき言ったろ、ありゃ人を襲う、バケモン―」
「―そうだけど、私が聞きたいのは、もっと根本的な部分と言うか。あれはどういう生き物なんだ?変異体の仲間なの?」
クロは困った様に瞬きを繰り返し、考え込む様に首を傾げる。(…そんなに、考え込む様な質問だったかな?)私も首を傾げて、クロを見る。クロは今更のように干し肉で汚れた前足を舐め、私の方を見て、質問に答える。
「さぁ?」
「『さぁ』って、あんたね」
「分かんねぇんだよ。知らねえもんは答えようがねぇ。あれがどっから来てて、どうして人を襲うのか誰も知らねぇ。北から来るって言う奴も居るし、南から来るんだって言う奴も居る。けど、そうだな、“神の柱”でああいう風に変異したってのは見た事も聞いた事もねぇ。少なくとも、俺ァな」
「…“神の柱”由来の生物じゃないの?」
「知らねぇよ。知らねぇんだ、知らねぇって言ったろ?けど、俺ぁ“神の柱”で人が天使に変異したって話は聞いた事ぁ無ぇ、ただの一度もな。まぁ、俺が聞いた事が無ぇだけかもしれねぇけどな」
「―じゃあ、奴らの言う、“神”ってのは?“愛しき主上”ってのは、“神の柱”じゃないの?」
「…いや、違うんじゃねぇかな。だって―」
(…?)(妙に確信的な言い回し)(だって?だってと来たか。だって何だ?だって―)
「―天使と変異体は、敵対してるからよ」
(………)
(?)
(ヤバい)
(余計分からなくなった)「どういうこと?」(敵対?)(どうして?奴ら、人を狩ってるんじゃないの?)(人よりも、変異体の方が危険だってこと?)(違う“神”?宗派が違うから?)(宗派の違いで化け物が争うかよ、笑わせる)(けど、これは使える情報だ。変異体がいりゃ、そいつを囮にして―)(駄目だ。こんな寂れたアパートの、何処に変異体が居るってんだ?)(ここには人間が二人居る。いざとなりゃ、どっちかを変異させて―)(馬鹿か、私は。“柱”の光にゃ、効果に個人差も、耐性もあるんだ。そんなに都合良く変異出来るか?変異して、その後はどうする?襲ったら、襲われてしまったら?そして何より、?)(…そうなったら、天使どころじゃない)
(忘れろ)
「どういうことっつわれてもな…俺だって分かんねえよ。でも、良く聞く話だ。変異体に襲われてる所をよ、天使が割って入るんだ。そう言う時ぁ、天使は襲われてる人間には目もくれねえ。そんで、その天使と変異体がやり合ってる間によ―」
「…成程ね」
(それで、目撃情報もあるって訳だ)(奴らの遣り口を考えたら、もっと目撃情報が少なくても良さそうなもんなのに。クロ達が一目で見て分かる位に、天使の見た目と危険性は、“こっちの社会”に浸透してるってことらしい)(知恵がある。特殊な能力。得物を嬲る習性…かは分かんないか、これは。人体部位の展覧は、ここの天使の性癖なのかもしれないし)(…兎も角、化け物同士がやり合ってる所から、奴らの目撃情報は形作られたらしい)(“杖”。変異体と敵対。変異体に襲われてる所を、天使が―)
(―天使―)
「クロ」
「ん?」
(“天使が”割って入る)
「天使は徒党を組まないの?」
「ああ?」
(知恵がある。特殊な能力。“神”。宗教)
「良いから答えて」
「あー…、いや、俺ぁ、そう言う話は、聞いた事ぁ無ぇかな―」
(“天使が”割って入る。天使は襲われてる人間には目もくれねえ)
(?)
(知恵があるのに?基本、単独行動なの?)(チームを組んだ方が楽だろうに)(一人じゃなけりゃ駄目な理由でもあるのか?)(ここの天使も、一人?)(…“杖”の能力、だろうか)(巻き込んでしまうから?)(それとも能力を、同じ天使にも教えたくない?)(…“愛しき主上”―)(案外、横の繋がりは、弱い種族なんだろうか)
「あー、じゃあ、もうひとつ。天使と変異体は、敵対してるって言ったよね?天使と変異体が戦うのは、珍しい話じゃないって」
「あ?あー…。ああ、おぅ」
(鈍い返事。本当に話聞いてんのか、こいつ?)
「どっちが強いの?」
「はぁ?」
クロが今世紀最大の間抜け面を見る様な眼で、私の顔を眺める。梔子までもが、窓の外に向けていた目を見開いて、私の方を見る。(…しまった。言い方が悪かった)少しだけ、頬が赤くなるのを自覚する。それでも私は大真面目な声で、話しの先を無理矢理続ける。
「化け物同士がやり合ってる場所に、戻った物好きが居た筈でしょう?それも、一人や二人じゃ無くて。興味本位か、落とした荷物を取りにか、それとも、逸れた仲間を探しにか」
「はぁ…そりゃ、まぁ」
「居ただろ?居た筈だ。居た筈なんだ」
(色んな原因が考えられる。交易路の確保、警告の為、死体漁り。時間が経ってからか、直ぐに戻る奴だっていただろう)
(その時、その場所に―)
「―どっちの死体が多かった?」
「あぁ?」
「今まで聞いた話の総合で良いよ、クロ。天使と変異体、どっちの方の死体が多かった?」
クロの目が真ん丸になる。それから、話の意図を疑る様に、その金色の目が細くなっていく。私はクロを見る。クロの目を見る。祈るような気持ちで見る。
(“杖”。特殊な能力。人を襲う。知恵がある)
(もしそうだったら終わりだ。もしそうだったなら―)
「…あー、そのよ、まぁ、半々ってとこだな」
(―そうだったなら)
「半々?」
「まぁ、そうだな、大体そんくらいだな。いやホントだ、ホントにそれくらいなんだよ。変異体だけが死んでたり、天使の方だけが死んでたり、或いは両方死んでたりな」
「両方?」
「ああ、まぁ、結構珍しいけどよ、相討ちで死んでるって話もそこそこ聞くんだよ。腹に大穴ぁ開けられた変異体に、天使が押し潰されて死んでたり、腕が一杯ある変異体の胴体を切り刻んだ天使が、全身の骨をその腕で砕かれて死んでたり、ああ、後は、ある変異体を氷漬けにする時によ、うっかり自分の体まで氷漬けにしちまった間抜けな天使も居たとかって話で―」
(半々)
(相討ち)
「半々…なの?」
(特殊な能力。人を襲う。空を飛ぶ。知恵がある)
(知恵がある…のに)
「まぁ、変異体も、相当タフだからな」
(そういう問題だろうか?)(特殊な能力。知恵もある)(対して、変異体は本能に依って動いている感じだ。知能は無く、衝動と欲求に拠って。立ち回り次第で幾らでも有利にやり合えるだろうに)(それなのに…半々?)(それに、天使にはあれがある。あの“杖”が)(なのに、話を聞く限りじゃ、まるで相討ちになったというより、相討ちを仕掛けたみたいに―)
(?)
(身体的にはそれ程強くはない、という事だろうか。簡単に殺せる?)
(そんな感じはしなかった。肉体的に脆いという感じは。健康な成年男子という風に見えた、少なくとも、あの天使は。それに、あいつには防衛手段がある)(“杖”)(天使の能力に、偏りがあるのか?変異体と相討った天使は、防衛の手段が無かった?)(それだけだろうか?それに相対した時の、天使のあの余裕―)(―まるで、遊んでいるみたいな)
(変異体のを、奴らは苦手としているんだろうか?)
(変異体にあって、人間には無い、)
(ナゾナゾみたいになって来たな。変異体にあって、人間には無い―)
―誰かが肩を叩く。誰かが私の肩を。
私は顔を上げる。何時の間にか、梔子が私の傍らに居る。梔子は口元に人差し指を立てている。それから彼は上を指差す。
私は顔を上げる。
―カンッ。
音がする。
小銭同士を擦り合せた様な、小さな小さな鉄の音が。クロは腹をピッタリと地面に付けて、上階を不安そうな面持ちで見上げている。(…来た。時間切れか。それとも我慢の限界?)私は立ち上がり、尻の埃を払って、コートの左ポケットに手を入れ、ナイフの柄を確認する。床の拳銃を拾い上げる。
鉄の冷たさに安心する。
(…考えろ。変異体にあって、人間に無いもの。奴の能力。奴らの弱点。何が苦手で、どうやって殺せば良いのか)
(考えろ。考えろ。考え続けろ。死にたくなけりゃ)
私は顔を上げる。クロと梔子を見る。梔子は天井を見上げて、どうやら向こうとの距離を計っているようだ。クロは怯えた目で、梔子と私を見ている。
私は笑う。
歩み寄り、クロに右腕を差し出す。クロは一瞬躊躇するも、もう一度あの音が聞こえた瞬間、直ぐ様私の右肩に駆け上がる。
―カン。
余りの速さに、少し後ろによろけてしまう。
クロを肩に乗せ、私は梔子を振り返る。私は小声で梔子に囁く。
「外に出よう。部屋の中じゃ不利だ。少しでも広い廊下に出る。向こうはどうやら、部屋の天井を破って、各階を虱潰しに調べていくつもりらしい。廊下をこのまま奥へ進んで、上がってきたのとは反対の階段に出よう。向こうがこのまま建物の中で遊んでるつもりなら、もしかするとこのまま逃げ出せるかもしれない」
梔子が微笑む。諦めた様な笑み。少しそれが、気に喰わない。
「―私だって、本当にそうなるとは思ってないよ。でも、希望的観測ってやつは大事でしょ?」
梔子は肩を竦め、ボウガンを構えて天井に視線を戻す。私は部屋の外へと足を向ける。ドアノブに手を掛ける。
(…扉、開けっ放しにしとけば良かったかもな)
その件に関しては、あまり考えないようにする。全ては後の祭りだ。ドアノブを捻る。扉を押す。盛大に軋み声を上げて、鉄の扉が私達に道を開ける。
廊下に出る。
左右に廊下が続いている。(左側が来た方。右側が進む方向)左手側には階段と、陳列された生首が見える。右手側の突き当たりには壁が見える。廊下は突き当りから左に、直角に折れ曲がっている。(この集合住宅はL字型のアパートメント)(左に折れて、その先に部屋が二つ)(その奥に階段がある…ある筈だ)廊下の足元にはひんやりとした空気が漂っているが、窓からは暖かい日光が差し込んでいる為、寒くはない。(…太陽が、西側に傾いてるって事でもある)(今何時だろう?時計が見たい。9時半くらいに“タウン”を出て、ここに辿り着いて、ジープのとこで襲われて―)(…時計、何処にやったんだっけ。もしかして鞄の中?)
廊下には人間の部品が散らばっている。床を這う蛇の様に、まちまちな長さの指が廊下の中央に波状に並べられている。私はそれを蹴飛ばして進む。簾の様に廊下の途中にぶら下がる、大小様々な消化器官を、私は左手で払い退ける。
(急げ)
―不思議と、臭いは酷くない。それが唯一の救いだと思う。(…湿度が低いから、なんだろうか)(それもありそう)(あそこにぶら下がってる胃、夏場のミミズみたくなってるもんなぁ…)私が廊下に並ぶ人体に近付く度、右肩の上でクロが小さく悲鳴を飲み込む。その度に、私は苦笑する。
(…いい加減慣れて下さいよ、クロセンパイ?)
―カン。
音がする。あの音が。
私は左手で頬を撫でる。その音に、綺麗に自分の顔から表情が拭い去られるのが分かる。(音)(だ)(来た)(―目を覚ませ。考えろ。頭を回せ。足を動かせ)(これは夢じゃないんだ)銃の安全装置を外す。左手でナイフの所在を確かめる。音の出所を確認する。
(右…右後方?)
音は廊下の右手側、部屋の並ぶ方向から聞こえる。場所は後方の上、私達の居た部屋か、その隣の部屋の、多分上辺りだ。(…3階、じゃないよな。上の方から聞こえる)(4階、それか5階?)(5階の音が私に聞こえるだろうか?生憎、耳には自信がある方じゃないんだ、梔子や、どっかの喋る猫とは違ってね)(…3階の天井を削った音かも)(どっちにしろ、さっきより近い。近付いてる)
(…近付いて来る)
―カンッ。
息を止める。銃を構える。出来るだけ音を立てない様に、足早に歩く。後ろを振り返る。梔子は後ろ向きに私に着いて来ている。彼のボウガンはほぼ真上を向いている。
(…クソッタレ)
―微かに羽音が聞こえる。聞こえる気がする。それは気の所為だと、お前の頭の中だけで聞こえる音なんだと、猛烈に否定したくなる、滅茶苦茶に叫び出したくなる。
(抑えろ)
(パニックになるな。自棄を起こしたって、碌な事にゃならない。目を開けてろ。音に集中しろ。これは―)(―竹箒の音だ。聞いた事がある、聞き覚えのある音だ。誰かが上階を、箒で掃いてるんだ―)(―んな訳あるか、あれは羽だ、羽の音だ。あの羽は廊下で伸ばすには少し長すぎる、その先端が、多分壁際に擦れて、音を起ててるんだろう―)
(真上に居る)
(…向こうの方が、少し移動が早い)
「おい―」
―足が、失速する。
判断に悩む。冷静さを金繰り捨てて、全力で走るべきか。立ち止まってやり過ごすべきか。引き返して、登って来た方の階段に向かうべきか。(…向こうは私達に気付いているのか?気付いているなら、どうして天井をブチ割って襲って来ない?気付いてないなら、どうしてこっちの方向に来る…?)(やっぱり上の音は、羽の音なんかじゃなくて―)(―羽の音だ。半端な憶測は止めろ、叶。いつも最悪の事態を想定して行動すべきだ。向こうは―)(―部屋の天井を割って、各階を索敵していた。でもさっき、私が扉を開けてから、天使はそれを止めて、私達の方に来た―)(―やっぱ、向こうは私達に気付いていると思う。でも、天井を割って来ないのは―)(狩り)(遊び)(得物を甚振って遊んでいるのか?忍び寄る羽音を聞かせ、恐怖を与える為?それとも―)(―もしかして、仲間を待ってる…?)
(違う)
私は立ち止る。「―おい、カナエ?」耳元でクロが囁く。私は左手を上げ、後ろを歩く梔子にも足を止めさせる。「―どうすんだよ!?こんなとこで立ち止まったって―!」半狂乱でクロが捲し立てる。私は左ポケットからナイフを取り出す。梔子を振り返る。
(仲間はいない筈だ。天使は団体行動を取らない。クロはそう言っていた)
(猫の話を当てにする気?会ったばっかの、しかも言葉を喋る猫の話をさ)(危険だ)(何事にも、例外はある)
(…例外を引いたら死ぬだけだ。そもそも、天使が二匹だった場合、私達には逆立ちしたって勝ち目はないんだ。見えない武器。こっちは向こうの間合いも分からない。分からないまま死ぬだけだろう)
(それよりも、こう考えた方が良い)
私はナイフを伸ばす。
「カナエ?」
(―向こうは、このL字廊下の直角カーブに行く)
(そこが、天使にとって必要な場所だったから)
私は手近にぶら下がる物体から、(恐らく)各部の関節を寄せ集めて数珠繋ぎにした物を見繕い、右手で引き寄せて、ナイフでロープを切り離しに掛かる。(…切り難い)ナイフを右手に持ち替える。梔子は無言で、クロは気が触れた者を見る様な眼で、私のその行動をじっと眺めている。
(天使は上の階から、天井を“消して”各部屋を捜索していた)
(あの時点では、私達の居場所は分からなかった筈)
(分かっていたら、そんな風にはしなかった筈だ。もっと効果的に襲う手段を整えた筈)(私達の部屋の近くから始めたのは、完全に気紛れだったんだろう)
(―で、奴の“音”を聞いた私が、扉を開けた)
(古くなった鉄扉の軋む音。閑静な集合住宅。住人は私達と、天使だけ)(…多分、天使と私の位置が逆だったなら、私にもその音が聞こえただろう)
(扉を開けたのは間違いだったとは思わない。扉を開けっ放しにしていなかったのも。あの部屋に留まったままだったら、遅かれ早かれあの部屋で交戦になっていただろう。天使が虱潰しの捜索を始めたのは、私達の部屋の近くだった。扉を開けっ放しにしていたら、集合住宅の周りを旋回していた天使に、早々に見つかっていたかもしれない)
(…考えるのは止そう。起こった事しか起こらないんだ。私は扉を閉めた。そして扉を開けた)
(それを天使が聞いた)
(その音を聞いて直ぐ様、天使は4階のL字廊下の直角カーブへと向かった)
(それは何故?)
私は出来る限り静かにその作業を終わらせる。ロープが細くて良かった、と思う。肉の柔らかさに吐き気がする。私はそれを梔子に渡す。梔子は眉毛を八の字に寄せて、私からその肉の塊を受け取る。
(私達の出方を探る為だ。階段を上り下りする足音は、思っているより良く響くもんだ。カーブの位置に居れば、両方の階段の踊り場を視認できる。上がって来るならそのまま戦えば良いし、下りて行くなら、集合住宅から逃げる姿が窓から良く見えるだろう。壁を突き破って追い掛けてやれば良い。向こうの方が、私達よりも少し早い。何しろ、羽が生えている)
(…それに、2階と1階の廊下は塞がっている。2階は廊下が崩落し、1階はその廊下の瓦礫で埋め尽くされている)
(有利な位置だ。それに、向こうは狩る側。焦る必要はない)
(―けど、これでひとつ、ハッキリした。したと思う―)
私は手首を振り、物を投げる仕草をする。続いて、梔子の手の中を指差す。「おい、カナエ―」「黙って」梔子は何度も瞬きする。瞬きして、私を見る。「投げて。向こうに」私は登って来た方の階段を指差して、短く囁く。梔子は瞬きして、手の中の物を見る。流れる汗が目に入り、また瞬きする。
「出来るだけ遠くに投げて。でも、足音は立てないで。奴は直ぐ近くに居るわ。あなたの方が、良く分かってるんでしょうけど。あんまり強く足を踏み切ったら、多分その音が奴に聞こえてしまう。だから絶対、足音を立てちゃ駄目。良い?」
梔子は頷く。手袋で汗を拭い、息を吹き、手首と胴体の回転だけで、肉の塊を思い切り投げ飛ばす。塊は廊下の反対側に嫌な音を立てて激突し、それから階段の上を派手に転げ回って落ちていく。私は思わず口笛を吹きそうになる。
(…流石、男の子)
「―なぁカナエ、これって―」
「静かに」
その場で待つ。暫くの間。1秒、2秒、そんなに長くは掛からない。上階の廊下、私達の頭上を、再び羽音が通り過ぎていく。私はその結果に満足する。羽音が聞こえなくなるのを待ってから、私は反対側の階段を目指してもう一度歩き始める。
(特殊な能力。人を襲う。空を飛ぶ。知恵がある)
(―人型)
(…多分、奴らは変異体とは違って、強力な知覚能力は無い)
(あの、“シェルター”で出会った、目玉だらけの変異体みたいに、音にやたら敏感だったりはしないんだ。。頑丈さも、それくらいだと嬉しいんだけれど―)
(…変異体と相打つような怪物だぞ?)
(―そこまで期待は出来なくても、五感、まぁ少なくとも、聴覚の方は人並みだって分かった)
(私は扉を閉めた。そして扉を開けた)
(それを天使が聞いた)
(…多分、天使と私の位置が逆だったなら、私にもその音が聞こえただろう。でも、下の階の何処から聞こえたのまでかは分からない。1階は廊下が塞がってるとしても、2階の扉を開けて閉めるくらいなら、私達にも出来ると考えたのかもしれない。なまじ知能がある為に、罠の可能性も考えたのだろう。その為に、両方の階段と、外を同時に見張れる位置に移動した。もしかしたら、3階に私達が居たのは、奴にとっては盲点だったのかもしれない。悪趣味な人体の展示品は、奴の趣味じゃなくて、私達の行動を制限する為だったのかも)
(…資源の有効活用、ってやつかね?)
(笑えない)
(兎に角、奴は移動した。さて、ここからどうするか―)
「―カナエ、こりゃなんなんだ?一体、何が起こって―」
(…やれやれ。仮説でジェンガでもしてるみたいになって来たな。崩れりゃ即死、みんな揃って仲良く御陀仏って感じでさ…)
「後で話すわ。暇があったらね」
「今話せよ」
「私が今、暇に見える?」
(考えろ。考えろ。考え続けろ。ああ、クソッタレ、次はどうするか―)
「違うのかよ?」
「違うわよ」
(死にたくなけりゃ)
L字になった廊下の角を左に曲がる。曲がった先にある、二つの鉄扉の前を素通りする。扉にはそれぞれ、『302』と『301』の文字が刻印してある。(…302号室と、301号室)廊下左手の壁際で、窓硝子が激しくガタガタと震える。(風、強くなってきたみたいだ…)この奥に階段がある筈だ。
ある筈だ、と思う。
―不意に、強い不安を覚える。
(無かったら?)
(大丈夫、通常、この手のタイプの集合住宅は、廊下の両側に階段が付いている筈―)
(付いてなかったら?)(通常、通常って、何?)(廊下の両端に階段が無いタイプのマンションだって、普通に良く見るけど。普通ってどれ?何がスタンダードなの?)(でも、さっき通り過ぎた部屋の番号は、301号室だった。廊下の両側に階段が無くっても、普通は1号室側に、昇降設備を作る筈でしょ―?)
(―エレベーターだけだったりして)
窓硝子の揺れる音がする。
私は足を止める。
廊下の奥に着く。廊下の右手側を見る。そこには扉がある。襖開きの鉄扉。扉の左脇には、上と下を示す小さな矢印のパネルがある。上部には罅割れた電光掲示板。その隣には―。
(…ああ、クソッタレ)
―細長い階段がある。一人通り抜けるのが満足な幅、罅割れて、蜘蛛の巣だらけの手摺。私は笑う。脱力した笑みが浮かぶ。膝の力が抜けて、思わず尻餅を突きそうになる。拳銃を取り落としそうになる。
(―ビビらせやがって、畜生)
「…エレベーターのバカヤロォ」
「?“宝が無い”が何だって?」
「…何でもないよ。気にしないで」
(さて、ここからどうするか…)
(選択肢は二つある。というか、二つしかない)
(1、階段を昇るか。2、階段を降りるか)
(階段を昇るデメリットは、言うまでも無く脱出が遠くなる事だ。そうなれば天使と接触する時間も増えるし、死ぬ危険性も増す。もう一度、同じ手に掛かってくれるとも思えない…)(かと言って、2の選択肢も正直微妙だ。2階は廊下が崩落、1階は瓦礫で塞がっていて、経路が狭く、限定され過ぎている。折角外に出たって、そこを見られていたら、結局最初の状態に降り出しだ。周囲に障害物は無く、向こうは空を飛んでいて、こっちには相手の武器の正体も分からない。向こうは鷹の様に旋回と滑空を繰り返すだけで、私達を嬲り殺しに出来るって寸法だ。こっちの攻撃が届かない所から、物を落とすだけだって良い…)
(…となると、正解は1?)
私は考える。階段の手前で考える。窓硝子の揺れる音がする。
「おい、カナエ?どうした、ボーッとして?」
(戦うなら、1だろうか。障害物もある、向こうの高度を、まぁ天井を削られたりはするだろうが、ある程度は限定できる、廊下で正対出来れば、攻撃の正体だって見極められるかもしれない―)(―んなこと、悠長にやってる場合か?先ずは逃げる、これが第一目標だ。でも、逃げるにも順序がある。見つかったまま、逃げ出す訳にはいかない。何とか奴を撒いて―)
硝子の揺れる音がする。一歩足を踏み出す。
「カナエ、」
(―逃げ出さないと。先ずは階段を上がろう。それから―)
「―カナエ、不味いぞ、見ろ!!!」
硝子の音が消える。
クロの声が聞こえる。私は後ろを見る。梔子がボウガンを構えている。窓の外へ向けてボウガンを構えている。
窓の外には天使が居る。
(?)
私は拳銃を持ち上げる。持ち上げようとする。泥の中に沈んでいるかの様に、右腕が重たい。(天、)口の中がカラカラに乾いている。唾が上手く飲み込めない。(天使?どうして―?)銃艇に左手を添える。天使の背後を見る。L字の集合住宅の反対側の階段、2階と3階の中間辺りに、マンホール二つ分くらいの大穴が開いているのが見える。(…ああ、あの穴)(踊り場)(梔子が外を見張ってた―)(―糞、私の―)拳銃を持ち上げる。耳の中から音が消えている。時間の流れが急激に遅くなったように感じる。天使はもう、窓硝子の直ぐ反対側に入る。彼は笑っている。彼は私達に、杖の先端を向ける。(―私の馬鹿。あれを忘れていたなんて、あの穴を―)(糞、糞、音がしていたら。あの音がしていたら、梔子が気付いた筈だ、あの音がしていたら―)
(―あの音が)
音が。
―カン。
聞こえる。
音がする。窓硝子に小さな、10円玉を潰した様な、小さな楕円形の穴が開く。(音)梔子が、私より半歩窓硝子の傍に立っていた梔子が、マフラーの下で微かに呻き声を上げる。
手負いの獣の様な呻き声を。
(?)
(赤)
―雫の垂れる音がする。タパ、パ、パと廊下の上に零れた雫の赤い円が広がる。(?)「くち―」左手で右の脇腹を抱える様にして、梔子はその場に崩れ落ちそうになる。「―小僧?どうし―」梔子は震える膝で、何とか態勢を支え直す。私はそれを見る。見る事しか出来ない。
―梔子の脇腹からは、赤黒い液体が絶え間無く滲み出している。
私は拳銃を構える。天使を狙う。引き金を引く。
無茶苦茶に引き金を引く。
遠くで銃声が聞こえる。
何発撃ったのか、自分でも分からない。引き金から手応えが消える。どれだけ引き金を引いても、弾丸はもう出ない。(―糞)(糞、畜生、畜生、畜生―)硝子が砕ける派手な音が聞こえる。天使は杖の先端を左の掌で覆い、余裕の笑みを浮かべている。カン、と音がして、一発の銃弾が何処かへ消える。二発の銃弾は天使に掠りもせず、あらぬ方向へ飛んで行ってしまう。一発は左肩へ、一発は天使の喉元へ、9mmの穿孔を開ける。
(―あ)
血が出る。どろり、とした、糊の様な血が。(当たった)天使は笑みを浮かべている。天使は尚も笑みを浮かべている。天使の羽ばたきが、天使の笑みが、澱む様子は何処にも無い。血は少しだけ、天使の胸元を汚す。出血は直ぐに止まる。
(…当たった、のに)
天使は尚も笑みを浮かべている。
「満足したか?罪深き迷い羊よ」
天使が言う。天使が口を開く度に、ひゅうひゅうと喉元から音が鳴る。口元が弛緩するのを感じる。笑っていいのか、泣いたらいいのか分からない。目の前の光景が現実の物とは思えない。(不死身なの?いや、クロの話じゃ、死んだ天使も居たって―)(変異体に殺されて)(…変異体にしか、殺せない?)(そんな訳ない、変異体にしか殺せないなら―)(…なんだ、これ?)(リコーダーみたいな音がする)(赤)(血だ。血が出てる)(天使の血は止まった。梔子は、未だ出血してる)(…不公平だ、こんなの―)
(…こんなのは)
「では死ね。お前も、それからお前も。狩りの終幕だ」
天使が杖を振る。
―ヒュウ。
音がする。
耳元で音がする。
強く張った弦が、弾けて戻る音がする。何かが風を切る音がする。小さな黒い何かが、私の視界を素早く掠める。音がする。ざくり、と音がする。小さな音の集合が、目の前の状況を少しだけ、変える。
(?)
(―あ)
天使が姿勢を崩す。空中で完璧に保たれていた天使の体勢が、前へ後ろへ、グラグラとふら付く。天使は煩わしそうに顔を顰める。天使の左羽に、一本の黒い矢が突き刺さっている。矢の刺さった所から、血が流れる。やはりごく僅かな出血だけだ。血が天使の羽を少しだけ、濡らす。目の前の光景を、鈍々と私の脳が認識する。
(…梔子?)
私は梔子の方を見る。さっきまでの場所に、梔子はもう居ない。そこにはあの麻色のバッグと、点々と、幾重にも血痕が落ちているだけだ。私は血痕を目で追って、振り返る。私の後ろの階段、薄暗い階段の途中に、壁に背中を預けて、金色の双眸が浮いている。血塗れの手が、矢筒から二の矢を取り出し、震える手でボウガンにそれを装填する。マフラーの下から、絞り出す様な唸り声が、私達を呼ぶ。
―ウゥ、ア…。
―私は迷わず階段を駆け上がる。
よろめく梔子を抱き留める。拳銃から空になったマガジンを引き抜く。右手で梔子を下から押し上げながら、左手でそれを天使に向かって投げ付ける。天使は杖の先端を僅かに傾け、私の悪足掻きを呆気無く掻き消す。(―畜生)あの音がする。薄い鉄板を爪で弾く音。(畜生、畜生、畜生、畜生―!)(音)(クソッタレ、考えろ、考えろ、何か―!!)右手が血で滑る。手に触れた液体は、じんわりと暖かい。その事に吐き気がする。体で梔子の背中を下から押し上げる。煮え滾る様な怒りを感じる。
(考えろ、考えろ、考えろ―)
(音)(血)(死なない)(死なない)(死なない死なない、何で―)(血が出てる)(咽に穴が開いて)(不死身?)(そんな筈無い、考えろ考えろ―)(血が出た。血が出てる)(死ぬ?)(大丈夫。こいつは大丈夫。梔子は死なない。今は考えろ、別の事を考えろ、考え続けるんだ―)(風)(今日は風が強い)(天使は死ぬ。クロの話では。天使の死体を見た事ある人間は居るんだ)(人間にあって、変異体に無い)(天使にあって、変異体に無い)(人間にあって、天使に無い―)(考えろ)(考えろ考えろ)
(考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ―!)
振り返る。
天使は未だ窓の外でバタバタとふら付いている。溺れる烏みたいだ、と思う。天使は漸く右手の杖を持ち上げ、自分の左羽に刺さった矢の尾羽根に触れる。―カン、とあの音がする。矢は消失する。まるで最初からそこに無かったかのように。
「…どうやら、貴君らは余程悪足掻きが好きらしい」
窓の外で天使が言う。窓枠から天使は建物内に侵入して来る。その白い素足を廊下に下ろす。廊下に立った天使は、まるで外の続きの様に、その体を左右にフラフラと揺らす。
(―なんだ?)
(体の均衡を保つのに苦労してるようだ。生まれたての小鹿みたいに、ふらふらぐらぐら―)
(―そうか、羽があるからか?いっつも飛んでるから。だから、地上を歩くのには、慣れてない?)
(だったら、どうして歩く?そりゃ、天井は低いが、無理矢理飛べない訳じゃ―)
(…穴が開いてるから?)(梔子が開けた穴が)(もしかして、効いてるのか?)(痛みを感じないだけ?)(でも、咽にも穴は開いてる。それに―)
(…血が出てない。血が出ないんだ)
踊り場まで上がる。天使と目が合う。天使は笑う。醜悪な笑みだ、と思う。杖先を指揮棒の様に振りながら、天使は階段の方へ一歩踏み出す。杖の先端に着いた宝石が、影の内側で赤色に変わる。
(血が出ない)(赤)(血が)
(―血)
「どうだ、この辺りで、大人しく我々の裁きを受けないか?鬼ごっこにもいい加減厭いた。魂の浄化の儀を受け、君の生はより意義のあるものへと還元されるだろう。我が至上の君の大いなる使命の礎として―」
私は返事の代わりに、拳銃に新しいマガジンを込める。天使は鬱陶しそうに目を細める。
「…残念だよ、娘」
スライドを引く。空の薬莢が排出される。薬莢が階段を転げ落ちていく。
私は引き金を引く。
(…狙いは、足。奴はどうやら上手く歩けないらしい、足を削れりゃ―)
―一発、次いで、もう一発。
(残り6発)
意識して低目を狙う。一発目は外れ、二発目は天使の左脇腹に小さな穴を開ける。天使は虫に刺されでもしたみたいな、微かな煩わしさをその顔に浮かべる。傷口からはやはり、少しだけの血が零れる。
(…あと6発。もう6発。たった6発?)
―呪う。
自分の銃の腕を呪う。この二週間の間、死ぬほど射撃の練習をしなかった自分を呪う。(…必要と)クロと梔子に、弾代をもっとせびる図々しさの無かった自分を呪う。(必要と分かっていたのに)引き金を引く。カン、と弾ける音がする。弾丸が空中で消失する。呪う。ありとあらゆるものを呪う。
天使は笑う。
(―考えろ、考えろ考えろ考えろ考えろ、考え―!)
「―畜生、おらよ、これでいいのかよ、小僧!!」
(―クロ?)
(考えろ。考えろ。考えるんだ)
声のした方を見る。そこにはクロが居る。何時の間にか私の肩から下りたクロが、階段の手摺の上に、爪を立てて踏ん張っている。クロはその小さな体で、手摺の上を滑り落ちる梔子の腕を塞き止めている。梔子はふら付く足で手摺に寄り掛かり、身を半分乗り出す様にして、左腕をだらりと手摺の向こうに投げ出している。その左手にはボウガンが握られている。
―矢の装填されたボウガンが。
「小娘!どこだ!?どこを狙やぁ良い!?」
「足を!!」
―私は叫ぶ。
それに合わせて引き金を引く。闇雲に引き金を引く。カン、と音がする。あの音がする。私は効果も確認せず梔子に駆け寄ると、肩を貸して、無理矢理に彼を上階に引き摺って行く。「大丈夫、梔子、歩ける―?」褐色の頬から、血の気が引いているのが分かる。梔子の目が眠たげに細められていく。その事に恐怖を感じる。吐き出しそうな恐怖を感じる。恐怖と怒りを同時に感じる。
(なんだこれ、なんなんだこれ、畜生―)
「クロ、」
(―大丈夫、大丈夫だよな、梔子?)
階段を昇る。必死に階段を昇る。途中、後ろを振り返る。
「クロ?」
クロは階段の手摺に立っている。階段の手摺に立って、階下の天使を見下ろしている。「クロ、こっちに来て、早く―」私の声に驚いたかのように、伏せていた尻尾をピンと伸ばして、クロが顔を上げる。階段の手摺から素早くその身を躍らせる。一拍遅れて、あの音がする。(あの音)(鉄)(鉄を弾く音)クロの立っていた場所を中心に、階段の手摺に縦に亀裂が走る。苛立ちの滲む天使の恫喝が聞こえる。地面を走る影の様に、クロは一呼吸の内に私の足元に追い付く。
「―止せ、人の子らよ、幾ら小細工を弄しようと無駄だ!運命には抗う事は出来ない!お前達のしようとしている事は、羽も無しに空を飛ぼうとするのと同質の行為に過ぎない―!」
「―クロ、奴は?」
「ああ、上手くいったぜ、野郎の足にゃあばっちり小僧の矢が刺さってる。ついでに、お前の弾丸で奴ぁ風通しの良い黒子だらけだ。けどよ、あれでホントに良かったのか?」
「ええ。多分、あいつは―」
(上手く歩けない。人型。能力。杖。穴。血。弱点。全て仮説だ。全て憶測)
(憶測だけが増えていく。憶測の積み木だけが)
(仮説のジェンガ。…崩れりゃ即死)
「お、おい、カナエ?何処まで行くんだ?4階、通り過ぎちまうのか―?」
「そうよ。もうひとつ上の階へ行く」
「―なぁ、カナエ、言わなくても分かってんだろうがよ、その、小僧は怪我してる。あんまり遠くへは移動出来ねぇぞ。ここはどっかに隠れてよ、なぁ―…?」
「この階じゃ近過ぎる。準備する時間が必要だ。その為に奴の足に楔を打って貰ったんだ。この上の階で奴を殺す」
クロの言葉が途切れる。私は気にせずに階段を昇る。昇る事に集中する。刻一刻と、梔子の体の重みが増していくのが分かる。もう殆ど、右足には力が入って無いみたいだ。梔子の様子を窺う。梔子も私の方を見ている。その弱々しい瞳を、精一杯、驚きで見開いて。
(音)(血)
(杖。“御技”。人型)
(全てが仮説だ。全て憶測)
(ハッキリした事は何一つない。薄氷の上を歩いてるようなもんだ。何処かに必ず落とし穴がある)
(仮説でジェンガを)
(…存在しない積み木を引いたら、全て終わりだ。崩れりゃ即死。私が積み上げたものは、もしかしたらこうであって欲しい、という私の願望でしか無いのかもしれない。私が望む真実。都合の良い現実)
(何もかも間違っているかもしれない。全部私の勘違いなのかも。私はここで死んで、二度と帰らない私の為に、母さんは夕食を作って私を待つ破目になるかもしれない)
(―でも、このままじゃジリ貧だ。梔子は負傷し、弾薬は残り半分、奴の方は殆ど無傷―)
(勝負所はここしかない。何かをするとしたら、チャンスは今しかないんだ。例え不格好な仮説だって、私にはそれを信じるしかない…)
「…―あー、すまん、良く聞こえなかった。今なんつった、カナエ?」
「暫く見ない内に耳が遠くなったの?“奴を殺す”って言ったのよ、おじいちゃん」
(…大丈夫。籤運は良い方なんだ、私)