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世界で一番幸せな人生

作者: 夏のラジオ

 私の目は全ての景色を映し出す権利を持った。病室の、窓の外を舞う桜が美しい。彼らの行く先はきっと私と同じ場所なのだろう。

 初めて漫画が動き出した、あの感動は忘れられない。あの瞬間、私は世界一高い場所で、世界一美しい風景を見ていた。


「お父さん、凄いよ。この絵動いてる」

 テレビの前ではしゃぎながら、隣で茶を啜る父に言う。

 父は笑った。

「ははは、幸一。これはな、少しだけ違った絵を、凄い速さで見せてるんだよ」

「どうゆうこと? よくわかんないや」

「なんて説明すればいいかな……」

 父の顔を見たのはその時が最後だった。正確には、私の記憶の中では、だが。


 私の耳は全ての音を響かせる権利を持った。最愛の妻と二人の子供。彼らの声はまだ聞こえている。

 母が語ったことがある。彼女と父は涙を流し、私の誕生を喜んだそうだ。そう、私は望まれ、生まれてきた。生きることの使命を与えられた。


「お前の名前だって? ああ、幸一ってのは『一番幸せ』って意味なんだよ」

「一番幸せ?」

 台所で鍋をかき混ぜながら母は頷く。

 私の頭の中は疑問でいっぱいだ。

「でも……」

 母に尋ねる。「うち、父さんいないし、貧乏だし……。それに昨日涼子ちゃんに『幸一くんなんて大嫌い』って言われたんだよ。これじゃあ一番幸せじゃないじゃないか」

「ううん」

 彼女はクスッと笑って首を振った。「幸せだよ」

 今では、その言葉の意味が私にも理解できる。そのことを彼女に伝えようとしても、もう彼女はどこにもいない。


 思わず笑顔になってしまった。その時、母が作ってくれたカレーの味と匂いを思い出してしまったのだ。

 どうやら私には味覚や嗅覚さえも与えられていたらしい。

 それから、由美を見る。お前もよくカレーを作ってくれたな。それにしても……。

 私が笑っているというのに、お前はなんて顔をしているんだ?

 なあ、お前は俺と一緒に来て、幸せだったか?


 憂鬱に降りしきる雨の日。

 本当なら彼女に別れを告げるはずだった。

「ねえ、東京に行くなら私も連れてって」

 同じ傘の下、彼女は涙目で私に訴えた。

「お前を連れていったらお前まで不幸になるだろ」

「それでもいい。それでもいいから」 

 そう言いながら私に抱きついた。

 この時、彼女を突き放していたなら、我々の人生はどのような形になっていただろうか?

 少なくとも私には想像がつかない。

 初めてのキスの味は、嬉しさと不安とが入り混じった涙の味だった。


「父さん」

 雄太が手を握ってくれた。

 あんなに小さかった手が、今では私よりも大きくなってしまったのか。

 握り返そうとする。

 だが、力が出ない。

「ねえ、お父さん。返事して」

 歩美の声だ。

 お前たち、喧嘩ばかりしてたくせに、こんな時だけは気が合うんだな。


「ねえお父さん、お兄ちゃんがいじめるー!」

 やれやれ、と私は溜息を吐いた。

「おい雄太! お兄ちゃんなんだから妹をいじめちゃダメだぞ」

「だってー」

 雄太が唇をとがらせる。「歩美の観るアニメ、つまんないんだもん。俺は野球みたいのに」

「野球なんてイヤー」

 歩美が大声でわめいた。

「こらこら」

 二人を両手で制止する。「ここは正々堂々、ジャンケンで決めなさい。負けた方は大人しくあきらめる」

 彼ら兄妹は頷き、にらみ合った。そしてどちらからともなくお決まりの台詞を言う。

「最初はグー! ジャンケンポイ!」


 ジャンケンの結果は残念ながら覚えていない。しかし、負けた方はさぞ悔しかっただろう。大人しく、少女アニメか野球中継を観たか、はたまたテレビの前から離れてすねていたかもしれない。

「父さん……」

 彼女が私の顔を覗きこんだ。病室の電灯が逆光となり、顔がよく見えない。

 いや……、逆光のせいだけじゃないのかもしれない。

 私の頬に彼女の涙がこぼれた。暖かい涙だった。

 そして雄太の手も。……いつの間にか由美も上から手を重ねていたようだった。

 気づかなかった。

 こうして、一つ一つ、全ての感覚は消え失せてしまうのだろう。

 

 最後に『心』が消えてしまう前に、私は思う。

 

『ありがとう』


 私の痛みを、喜びを、悲しみを、感動を。

 最後に最愛の家族に囲まれながら、この世を去る。

 私はなんて幸せ者だろう。

 

 世界で一番幸せな人生を送った。


 ありがとう。




つまらない人生を送る全ての人に捧ぐ。



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― 新着の感想 ―
[一言] 20年前に亡くなった父の事を思い出しました。 無くなる直前、ひょとしたらこんな事を思ってたのかもしれません。 この作品にめぐり合えた事を感謝しています。
[一言] 温かいものが伝わってきました。
[一言] 人生の火加減に成功した好例。本当の幸せ者。
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