7.
寝て、起きて、日に三度の食事をし、読書や縫い物をし、また眠り。部屋の中で、イーズの日常は淡々と過ぎていった。
二人の仲は膠着状態に陥っていた。言い争った晩の翌朝、シグラッドは朝早くから食事も摂らずに出かけていき、イーズは体調不良を理由に部屋に閉じこもって過ごした。それを皮切りに、お互い、申し合わせたように接触を避けるようになった。
食事は別々で、寝るのも別々だ。共用の寝室を通れば、互いに自由に行き来ができるようになっているが、イーズは近づかなかった。眠るときは自室の長椅子で毛布にくるまって眠った。
「やつれたねえ」
二度目の面会に来たのは、バルクだった。大使が食あたりで寝込んでしまったため、代役となったらしい。大使の夫人に作ってもらったという、ティルギスの揚げ菓子を差し入れてきた。
「もうちょっとかかると思うから、よく寝てよく食べて、体力つけといてネ」
「自信あるんだね」
「勝てない戦はしないヨ。姫サンはもう万策尽きた?」
「策とかいう以前に、星のない夜は、動けないのと一緒。何をどうしていいのか分からなくて」
秘密を守るために、バルクたちをどうこうしようという覚悟も決められない。レギンを助けておきながら、レギンがまた火種になっていれば自分のしたことに迷う。胸の内にはいつでも靄がかかって、心の天秤は定まらず揺れつづけていた。イーズはそばに立てかけていた杖を両手でもてあそんだ。
「私、中途半端だね。アルカにもなりきれず、イーダッドおじ様のようにもなれなかった。優しさも冷たさも中途半端で。結局、周りに迷惑だけ振りまいちゃった」
「姫サンは、だれになる必要もないんだよ。だれかと同じであったって、意味ないヨ。姫サンは姫サンだ」
「私が私でいる価値はあるのかな」
「少なくとも、オイラはそうだといいたいケド。それはきっと、自分で決めることだヨ」
くしゃりと頭を撫でられて、イーズは泣きそうに目を細めた。
「シャールは? まだ牢屋?」
「いや、昨日、出たよ。大使が謝罪し倒して、エイデさんが懇願して、ようやく。姉サンの方も、姫サンの名前で解雇通告出したら、ようやくあきらめた」
バルクは窓の外を指差した。庭園の中央にシャールが立っていた。
丁寧に扱われていたようで、やつれた様子もなく、健康そうだった。イーズはほっとして笑った。だが、シャールは厳しい表情のままだった。いきなり自分の愛剣を抜くと、地面に突き立て、足を使ってへし折った。
「シャール!?」
「姉サンの剣は、姫サンに捧げられたものだから。自分はもう二度と、剣を持たないってさ」
シャールは片膝をついてひざまづいた。凛々しく涼やかな面の中で、眉間がかすかに寄っていった。なぜ、とイーズに問いかけるように。
なぜ、今の状況に甘んじることを許容するのか。なぜ、自分も運命を共にさせてくれなかったのか。
イーズは、自分がシャールへの思いやりと思っていたものが、そうでなかったことに気がついた。ティルギスの戦士にとって、主人を戦場に一人おいて逃げることは、生き恥といっていいことだ。イーズはシャールから顔をそむけてしまいたいほどに、安易な自分を恥じた。
悔しかった。期待に応えられない自分がふがいなかった。そんな自分に運命を預けたシャールに申し訳なかったが、謝れば、自分を信じてくれたシャールの心をさらに傷つけることになるだろう。イーズは何もいうことができなかった。
「一緒にティルギスに帰りましょう――ってさ」
シャールが口を動かすと、とどかない声をバルクが補った。恨み言は吐いても、シャールはイーズの味方だった。
「姉サン、竜王祭が終わったら、エイデさんとの結婚報告を兼ねて里帰りするんだって。その時に姫サンも一緒に連れて行きたいっていってた」
「良かった、二人、結婚するんだ。今回のことで、二人の仲にもひびが入っていないか、心配してたんだ」
「エイデさん落ち込んでたヨ。姉サンが、姫サンのことでためらいなく命張るもんで。姫サンには一生敵いそうにないって嘆いてた」
イーズはおもむろに、生地を一枚手に取った。ローラから分けてもらった、とっておきのものだ。
「婚礼衣装は作らせてね!」
シャールは微苦笑した。仕方のない方だ、というように。肩から力を抜く。
シャールが解放されたことで、イーズはひとつ肩の荷が下りた気になった。急にお腹が空き、バルクが持ってきた揚げ菓子をつまむ。
「大使の食あたり、ひょっとしてバルクのせい?」
「わざとじゃないよ。危ないかもなーと思いつつ、あえて止めなかったオイラに少しは責任あるかもしんないケド」
イーズに面会するために、バルクは止めなかったのだ。バルクと会えてうれしいはうれしいが、バルクたちのなすがままにされている自分たちに情けなくもなる。
「シャールもいなくて、大使もいないなら、次席の公使さんが大変そうだね」
「まあね。公使サンは右往左往してるよ。でも、ま、その方が好都合だ」
残った外交官たちの中で、外交について一番実力があるのはバルクだ。ニールゲンにいる期間も長く、ニールゲン側に雇われていた時期もあり、相手がだれでも臆さず近寄っていく度胸がある。おそらく公使はバルクを頼りに――言い換えれば、言いなりになっているのだろう。
二人が菓子をつまみはじめたので、侍女が茶の用意に席を外した。二人は、小声で言葉を交わす。
「レギン様に、姫サンと別れないようにって、オーレック様通じて頼んどきました。ってゆーか、レギン様に、姫サンを自分たちに引き渡すよう要求するようにしてもらいます。まだ書類上、姫サンはレギン様の奥様ですカラ。当然の要求です」
「ええ!? なんでそんな火に油注ぐようなこと」
非難しかけ、イーズはげんなりした。バルクたちにとって、レギンとシグラッドの仲の溝が深まるのは望むところなのだ。
「むこうも、できればヘーカとティルギスの仲が強くなるのは望んでないでしょうカラ、やってくれるでショ。レギン様には、最終的には姫サンと離婚してもらいますが、姫サンが晴れてヘーカから自由になるまでは、別れないって粘ってもらいますヨ」
「うまくいくかなあ。シグは余計に意固地になって、別れなくなるんじゃない?」
「ヘーカはね。でも、周りが許容しますかね? 姫サンにいうことじゃないですケド、側近さんたちは心配してますヨ。姫サンが陛下をはっきりとした形で裏切らないかって」
イーズは顔をしかめた。シグラッドを実際に傷つけるのではないかと、疑われているということだ。
「姫サン、レギン様の側妃だった時、すっごく幸せそうだったから、一部で姫サンは実はレギン様のことが好きで、レギン様とできてたって話がでててサー」
「でき――!? なにそれ、ちがうよ! すごく気楽で、夢のような生活だったから」
「オイラはわかってるけどさ、世間は惚れた腫れたの話題が好きだからねえ。惚れた男のために、婚約者を裏切っちゃう例もあったことだし、側においておくのは危なくないかって心配しているみたい」
足も不自由だし、曲がりなりにも一度他の王の妃になった王女だし、他に探した方が。イーズは聞きたくなかった世間の声をバルクから聞き、鬱々とした。心身とも満身創痍の気分だった。
「外堀は埋まってきてる。身代金の用意もできてるし、皇妃を辞めてもティルギスが得する策も用意してある。後はヘーカに一筆いただくだけデス」
「もう用意できてるの!?」
イーズは驚愕のあまり叫び、口を押えた。茶を運んできた侍女が、二人を怪訝そうにしていた。
「まだ話したいことあるけど、オイラも疑われたくないし、さっさと退散するヨ。何か食べたいもん、ある?」
「おいしければなんでも。さっきの話、本当なの?」
「オイラのご主人様は勝てない戦はしないって。じゃね。元気にしてるんだヨ」
茶を飲み干すと、バルクはさっさと出て行った。それから大使ともバルクとも面会はなかったが、菓子がイーズの元に差し入れられた。手紙付きだった。
差出人は大使で、相変わらず、イーズをたしなめることが書いてあった。だが、筆跡はバルクのもので、文章は所々不自然なところがある。イーズはピンときて、あれこれ単語を並び替え、暗号を読み解いた。
「アスラインの宗主様がお亡くなり、か……」
冬は深く、今日などはあたり一面、銀世界となっている。寒さで大きく体調をくずし、帰らぬ人となってしまったのだろう。
暗号文の知らせは訃報だけで、ブレーデンのことについては書かれていなかった。イーズはじれったくなったが、何かわかったなら、宗主の訃報よりも知らせてきそうなことだ。たぶん、無事だろう。
「陛下は?」
ちょうど入ってきた侍女に、なにげなくイーズはたずねた。
「お出かけなさっていますよ。二日前から」
侍女のいい方には、今頃になって行方をたずねてくるイーズに対する非難がにじんでいた。
「おもどりは十日後の予定です。何かお言付けがございましたら、お預かりいたします」
「いいえ、いいの。ただ知りたかっただけ。ずいぶん遠くに出かけていらっしゃるのね。どちらへ?」
「竜王祭のことで、属国をいくつか回っていらっしゃいます。お忙しくしていおいでですわ」
よほど腹が立っているらしい、侍女はすなおにイーズの問いに答えた。竜王祭への出席の返事を渋っている属国に、シグラッド自ら返事をもぎ取りに行ったというわけだろう。皇帝自ら出ていくのだから、事態の深刻さが察せられた。
「今度の竜王祭の顔ぶれに、どこか属国の顔が欠けることがあれば、内乱の起こることは必定。殿下もご覚悟なさいませ」
侍女は厳しい顔をしたが、イーズの危機感はうすかった。事態はバルクやシグラッドやレギンやオーレックの手の中にあって、イーズの手にない。他人事だ。もう、何もかも、どうでもよかった。イーズは知らぬ顔をして、手元の衣装を縫うことに集中した。
軟禁生活のおかげで、シャールの婚礼衣装の製作ははかどった。ローラから分けてもらった、光のあたる加減によって表情のかわる生地は希少で、宮廷の貴婦人方がねたむ一品だ。襟や袖や胸の銀糸の刺繍は細かく、侍女たちがため息を漏らすほどだった。
「ご自分の衣装の方も、そのくらい熱心になさってくださればいいのに」
「後でするよ」
作業に区切りがつくと、イーズは針をしまい、大きくのびをした。窓際により、疲れた目を休めようと外をながめる。今日はめずらしく雲の合間から太陽がのぞき、積もった雪を溶かしていた。
不意に、まぶしい光が飛び込んできた。雪の溶けかけた庭に赤みがかった外套を羽織った人物が立っている。その人物の、金色のうろこをはりつけた仮面が光ったのだ。イーズは目を疑った。
「ブレーデン!」
イーズは窓を開けて身を乗り出た。信じられない思いだったが、相手が反応すると、確信した。憂いに満ちていたイーズの顔に、何ヶ月かぶりの笑顔がもどった。懸命に手をふる。
ブレーデンはイーズだと分かっているのかいないのか、ただこちらを見上げていた。付き添いなのだろう、黒い外套を羽織った男に何かいい、イーズの方を指差す。
奇妙なことに、こちらも仮面をかぶっていた。黒いうろこのついた仮面だ。なんの表情もないのっぺりした面に、イーズは背筋が冷えた。
「きゃ――っ」
突風が窓を動かし、頭にあたった。髪飾りが落ちるが、運良く、壁のわずかな取っ掛かりに引っかかった。イーズは拾おうと、大きく身を乗り出す。窓枠に足をかけ、大幅に。侍女の悲鳴がひびいた。
「だれか! アルカ様が窓から飛び降りようと――!」
イーズはすぐさま身を引いた。だが、もう遅い。駆けつけてきた衛兵数人がイーズを確保し、窓から引きはがした。
「ちがう、外に仮面をかぶった変な人がいたから」
イーズが訴えたとき、もう仮面をかぶった人物はいなかった。侍女は大慌てで、城の留守を預かっているゼレイアを呼びにいった。将軍も事情を聴いて痛ましい表情になる。
「殿下、そこまで思い詰められていたとは」
「ちがいます! 本当にいて」
イーズは全くの誤解だと弁明したかったが、やめた。皇帝のもっとも信頼する家臣が、二人を別れさせるべきだと考えれば好都合だ。
「出してください。お願いします。シグを説得してください」
イーズは将軍の太い腕にすがって懇願した。部屋を移る前とくらべ、イーズはやつれ、顔色もかんばしくない。将軍は太い眉根を寄せた。
「……おもどりを、アルカ殿下。窓には近づきませんように」
「パッセン将軍!」
ゼレイアは衛兵に命じ、窓に板を打ちつけさせる。あまりの扱いにイーズは青ざめた。騒ぎを聞いてかけつけてきたバルクが、衝撃的な光景に、うわあ、と片手で頭を押さえる。
「将軍、いくらなんでもコレはやりすぎじゃない?」
「陛下は殿下を守ろうとなさっているのです。ご理解を」
「守ろうと、ねえ。本当にそう思ってる? 将軍様だって、今の姫サンと陛下の関係がおかしなことは気づいているんだろ?」
ゼレイアは黙した。脈があるとみて、バルクはさらにたたみかける。
「二人の関係が取り返しのつかないほどこじれれば、ティルギスとニールゲンの国交に差し支える。お互いに困る。そうでショ?
姫サンはアデカ王の大事な愛孫なんですヨ。こんな騒ぎがあったにもかかわらず、姫サンのことを放置したら、アデカ王はさぞお怒りになられますヨ」
国内が剣呑な今、ティルギスの助けがなくなるのは危うい。ゼレイアは動揺をみせた。
「ちっと話し合いませんか。この件については、ヘーカが怖くてだんれも口出ししてくれません。だけど、ヘーカが一番信頼している将軍様なら。どうか助けてくださいヨ」
「パッセン殿、私も同じ意見です。竜王祭の前に、もう一度、次の皇妃についてきちんと話し合いましょう」
「レギン皇子から、アルカ王女を返すようにと文書が来ていることですし……」
「黒竜様がこの状態をお知りになったら、恐ろしいことになりますよ」
後から駆けつけてきた同僚にも口々にいわれ、ゼレイアは眉間を押さえた。しばしののち、顎で外を指し示す。話し合おうという意思表示だ。バルクはイーズに片目をつぶった。
「見たかな? オイラのご主人様」
イーズは板を打ち付けられた窓をふりかえり、先ほど自分が見たものを反芻した。金の仮面をつけたブレーデンと、黒い仮面をつけた男。
「あれが……」
脳裏には、ブレーデンよりも黒い仮面の男の姿が克明に焼きついていた。陽光にぎらりと光った仮面の黒いうろこ。風に翼のようにひるがえった外套。すっぽりと全身をおおう外套のせいで輪郭はさだまらず、ゆらめく影のようだったその姿。
イーズは何かいいしれない嫌な予感をおぼえ、ぶるりと身をふるわせた。