4.
炎が迫っていた。イーズは足枷を引きずりながら、懸命に逃げていた。シャールはいない。大使も。ティルギスの外交官たちも。遠くに見える故郷は赤く燃え、一面緑の草原は見る影もない。
「裏切り者」
炎の中から手が伸びてきて、イーズを捕える。怒りにぎらぎらと光る金の目。憎悪をこめて、シグラッドが掲げた剣を振り下ろす。イーズは悲鳴を上げた。
「――!」
まぶたを開いて、イーズは自分が夢を見ていたことを知った。視界にあるのは、炎ではなく寝台の天蓋だ。すぐそばでは、シグラッドがおだやかな寝息を立てて眠っている。
イーズは起き上がると、ベッドの端に寄って、深く息をした。胸に手を当て、跳ねる心臓を落ち着かせる。鮮明で鮮烈な夢。近頃、よく見る悪夢だった。こうして夜中に起きるのも、今日が初めてではない。
正体がばれて、皆から責められる。シャールも大使もつかまり、家族も、アルカも、アデカ王も、ティルギス人は全員殺されるのだ。故郷は炎につつまれ、イーズは処刑される。細かいところは違っても、内容は同じだ。
「まだ夢だ……まだ」
つぶやいて、イーズは身をふるわせた。晩秋の冷えた空気が、汗をかいた身体を冷やし、寒い。だが、イーズは動く気がせず、寝台の背板にもたれてぼうっとしていた。寝台に入って目を閉じれば、また悪夢が襲ってきそうで怖かった。結局、空が白むまで、イーズはそうしていた。
「顔色が悪いな」
朝食の席で、シグラッドがイーズの顔をのぞきこんだ。食事もほとんど手つかずだ。
「熱があるんじゃないか?」
シグラッドの手が伸びてくると、イーズはびくりとして、反射的に首をふった。夢の残像が脳裏にちらつき、シグラッドに対して身構えてしまう。
「大丈夫。なんでもないよ」
「流行病だとよくない。医者を呼ぶから。今日は一日、部屋にいた方がいい」
シグラッドは暖炉に火を入れさせ、自分の上着をイーズにかぶせ、侍女たちに寝台の用意をさせた。
夢とまったく違って、シグラッドはやさしい。だが、イーズの心は癒されなかった。気遣う言葉をかけられれば、いつこの口から罵倒の言葉が吐かれるかと怯え、やさしくなでられれば、この手がいつこの身を裂くかとふるえた。
「いろいろあったから、お疲れなんですよ。ゆっくりお休みください。しばらくは私がお世話しますから」
イーズの額にぬらした布をのせ、シャールは自分もつらそうにした。すでに仕事を持ちこみ、つきっきりで看病をする気満々でいる。イーズは他に侍女がいるからといったが、シャールは聞かなかった。
「私の本職はアルカ様の護衛です。いいかげん、元にもどらせてもらいます。よろしいですよね? 陛下」
シャールが赤い軍服を返上すると、シグラッドは口をとがらせた。
「もったいない。その軍服、よく似合っているのに」
「私の仕事は終わりました。陛下のお望み通りに仕上げたと自負しております。また必要とあらば、他の者を紹介いたします」
「シャール、おまえ、いつまでアルカの護衛をしているつもりだ? アルカはニールゲンの皇妃だ。これから、護衛はこちらで用意する。おまえには他にすることがあるだろう」
「守る人数が多くて何か問題が?」
「シャール」
反駁するシャールを、イーズがたしなめた。一介の護衛がいうには過ぎたことだ。分かっていてもシャールは反論したそうだったが、主人の命令通り、しぶしぶ黙る。
イーズがシグラッドに乱暴されて以来、シャールのシグラッドに対する態度は手厳しい。イーズはシャールがいつ皇帝の機嫌を損ねるかとハラハラしていたが、今回のことで、皇帝が気分を害した様子はなかった。それどころか、まじめに怒っているシャールに、くくっと笑う。
「シャールはこういうことだと鈍いんだな。おまえが軍服の次に着るべきは、花嫁衣装だといってるのに」
「はい?」
「あんまりエイデを待たせてやるなよ。求婚の返事、アルカの元に戻れるまではっていって、延期したんだろう。戻った今でも、アルカのことばかりにかまけて。エイデがかわいそうだぞ」
「……」
思いもよらない反撃に、シャールは気勢をそがれていた。しっかり聞き耳を立てている主人に、頭まで毛布をかぶせる。イーズはなんでー、と不満で騒いだ。
「いつどうなるかわからないんだから、愛せるときに愛するべきだよ、シャール」
シグラッドがいなくなってから、イーズがいった。
「私のことを気遣ってくれるのはありがたいけど、私はシャールたちが幸せにしてくれていた方が、よっぽどうれしいよ」
「でも、心配なんです。そうやって浮かれている間に、あなたがいなくなってしまいそうで」
イーズはどきりとした。何も言わず、何も悟られないようにしていたつもりだが、何か感じるところがあったらしい、シャールはうかがうように見つめてくる。
「何か悩みがあれば、いってくださいね。あなたが元気でいることが、私の幸せの一つであることも、忘れないでください」
「……うん」
イーズはバルクのことを相談しようかどうか、迷った。無論、バルクから、バルクたちがしたことや、バルクがイーズの正体を知っていることは口外しないよう約束させられている。だが、シャールに相談すれば、このどん詰まりの状況に、何か解決策が浮かぶかもしれないという誘惑にかられた。
「シャール、あのね」
「姉サーン、大使がお呼びでース」
たった今告発しようとしていた人物が部屋をノックしてきた。イーズは青ざめ、すぐに口を閉ざす。シャールは静かにしろと怒鳴りつつも、ためらうことなく扉を開けた。
「何の用だ。アルカ様の看病で忙しいんだ。危急の要件なのか?」
「それなりに。全員に通達しといた方がいいコトっぽいから」
バルクが両手を差し出すと、シャールは逡巡の末、水の入ったたらいを押し付けた。すみません、とイーズに一言断って、部屋を出ていく。
「イルハラントの捕虜が、アデカ王の甥っ子さんを人質にとった騒ぎがあったんだヨ」
「こっちにも何か影響が?」
「直接にはないヨ。まあ、姫サンは、今は何も知らなくていいヨ」
バルクだけがそばに残ると、イーズはまた、追い詰められたネズミのようにどんよりとした顔になった。
「姫サン、調子悪いのって、ひょっとしてオイラのせい?」
イーズは恨めしげににらんだ。バルクは、あちゃ、と頭をかき、何度も謝る。
「いや、ホント、黙っていてくれれば、ばらさないカラ。口が裂けてもいわないカラ。オイラたち、姫サンに不幸になってほしいとはこれっぽっちも思ってませんのデ。信じてください」
「……分かってるよ。そうだったら、とっくの昔にいってるもんね」
「姫サン、食欲ないって聞いたから、喉通りのいいお菓子買ってきましたヨ。卵と乳を蒸したお菓子なんですけど、どう? これなら食べられそ?」
イーズはうなずき、内心、嘆息した。バルクの愛嬌は、ある種、凶器よりもやっかいだ。憎んでも憎み切れない。敵意をそがれてしまう。
「バルクのご主人様って……どんな方?」
「え? 一言でいうなら、見るからに怪しい人? 今は、だけど。一目見たらわかると思うヨ。姫サンもそのうち会えるから、お楽しみに」
「怪しい人って……楽しみにできないけど。どこの国のお方なの? どうしてそんなに、ニールゲンを嫌ってるの?」
「んー、ご主人様の正体についてはオイラも語れないナー。ご主人様から口止めされてるんで。嫌ってる理由は、ま、平たく言えば私怨ですネ」
「バルクがご主人様の命令に従っている理由は? バルクもニールゲンのこと、嫌い?」
「オイラはご主人様のように憎んではないですヨ。でも、ニールゲンが強くなりすぎるが、ヤでね。
ニールゲンは余裕があると他国に侵略戦争を仕掛けてくる。オイラの故郷は昔、ニールゲンに支配されていた時もありましてね。ニールゲンの支配はティルギスと違って激しいから避けたいんです。
だから、ティルギスとニールゲンが婚姻という形で結ばれるのは困るんです。レギン様とシグラッド様に争ってもらって、自国で手いっぱいにさせておく方が好都合って思っているワケです」
バルクの飄々とした態度のはしばしに、真剣さがちらついていた。イーズは黙りこむ。ニールゲンの繁栄の陰で、幾多の人々が泣いてきたかは容易に想像がつく。
「執念深ーい竜からお姫様を取り戻すのは大変そうですけど。ま、がむばりますヨ」
大変そうといいながら、バルクの口調はいつも通りかるい。一方的弱者の立場に置かれているイーズは、ほんの少しばかり反抗心が鎌首をもたげた。
「ねえ、バルク、二人きりだね。ここで私が悲鳴を上げたら、どうなるかな」
「うお。姫サン、それ、脅してマス? やめてやめてやめて。オイラを倒したところで、オイラはただの駒だモン。棋士を討たなきゃ意味ないすヨ」
「嘘だよ。猫の足をかじるくらいはしたかっただけ」
イーズは菓子を口に入れた。なめらかな口当たりで、素朴な、やさしい味だ。
「バルクが私を頭ごなしに脅さないのは、私に時間を与えてくれているんだよね」
「……ごめんネ。イーズちゃん」
小さな声で、バルクが本当の名をいう。脅してくるバルクをひどいと思うのに、恨めしいと思うのに、イーズは憎しみがつづかなくなる。胸にせり上げてくるのは、懐かしいひびきへのよろこびだ。
イーズは泣きそうになりながら、甘くて苦い蜜をなめた。




