3.
赤竜王の壁画は、飛竜隊の力自慢三人の協力で動いた。地下へとつづく暗い通路が、ぽっかりと黒い空洞となってさらけだされる。
「なるほど。犯人がここから逃げた可能性がないとはいいきれませんね」
シャールは賛同したものの、悩ましげに腕を組んだ。
「ですが、問題が二つありますよ。一つは、犯人一人では扉を動かせないこと。もう一つは、地下通路をたどって逃げることは難しい」
「共犯がいたなら、扉を動かすのは無理じゃないでしょ?
地下通路から逃げるのは難しけど、壁画の裏に隠れるだったら、ここは十分使える。隠れて、将軍たちの捜索をかわしたあと、また壁画から出ていけばいいもの」
イーズは犯人の痕跡を探そうと、通路の入り口をよく観察した。シャールものぞきこむ。
「しかし、そもそもこの通路の存在を知っている人間なんているんでしょうか。私とアルカ様はたまたま知っていますけど……後はオーレック様と陛下くらいでしょう?」
「バルクも、だよ。じつはさっき、バルクに聞いたんだけど、ここに通路があること、警備兵の一部の人は知ってるみたいなんだよね」
「はい?」
捜索を見学に来ていたバルクが、肩を狭めながら白状した。
「夜になるとこの壁画から話声がするって一時期うわさが立ってたっしょ? 警備の連中が怖がってたんで、オイラがうっかりぺろり」
シャールは無言でバルクの頭に拳骨をくらわせた。通路を調べていたイーズが、あ、と声を上げる。
「壁のこの傷、剣先が当たった痕じゃないかな」
「本当だ。まだ、削れた跡が新しいですね。ちょうど剣先の当たりそうな位置ですし」
「ここで剣をしまって……まさか奥に行った?」
イーズは通路のさらに奥、壊れたクモの巣を見上げた。となりには、巣を壊されたクモが二つ目の巣を張っている。
「陛下にご報告申し上げてきます。一度地下も探ることを提案してみましょう」
「いいよ、私がちょっと見てくる」
「いけません。もしまだ犯人がいたら、危険です」
「大丈夫だよ。変な人間が入り込んだら、番人やオーレックがとっくにつかまえてるはずだし。一応見てくるだけ。お供に緑竜連れて行くし、バルクも連れて行くから」
「汚名返上させてください、姉サン」
イーズはバルクと緑竜を供に選び、また扉を閉めさせた。お供以外の目がなくなってから、杖を手にもち、軽快に歩き出す。バルクの前ならば、足が不自由であることを装う必要はなかった。
「姫さん、また秘密が増えたねえ」
「本当。秘密だらけ」
バルクの苦笑いに応え、イーズはひやりとした。バルクに明かしている秘密は足だけのはずだ。他の秘密のことも知っている口ぶりが気にかかったが、バルクはいつもと変わらない飄々とした様子だった。
変わったところがないか、緑竜と地下通路を見回しながら歩いている。いつもお菓子を分けてやったり、イーズの代わりに餌をやったりしているおかげか、緑竜はバルクを餌でなく給餌係と認識しているらしく、襲うようなことはなかった。
「罠には、かかってないみたいだネ」
二人は落とし穴をのぞき、残念そうにした。古い死体以外はない。他の仕掛けも同様だ。
「どこかから逃げた痕跡もないね」
あちこちにある地下の出口を一つ一つ調べ、イーズは眉根を寄せた。
「シグを襲ったとき、犯人、警備兵の服を着ていたんだって。一人斬っているから、血のついた服とか剣くらい、どこかに落ちててもよさそうだけどなあ」
「出口って、こんだけ?」
「もう一つあるよ。城の外に出られる出口が」
「へえ、外に」
「鍵がなくちゃ開けられないし、しかも今、鍵が片方ないらしいんだよね。そこから逃げたってことはないと思うけど」
否定しながらも気になって、イーズはそちらの方向に足を向けた。一度しか行ったことがないので、道に迷わないか心配だったが、たどり着くことができた。長い長いゆるやかな坂を下り、件の扉を前にする。
金属製の古びた扉だ。分厚いようで、叩いてみると、鈍い音が返ってきた。オーレックの怪力でも破ることは難しいだろう。たとえ破れたとしても、周囲がくずれて生き埋めになる可能性がある。
「出るのは、城の外郭のどこかカナ?」
「たぶん。脱出用なんだろうね」
イーズは鍵穴を縁取る飾りに、小首を傾げた。竜の口を象った飾りは、どこかで見覚えがある。少し考え、手元の杖頭をひねった。すっかり忘れてしまうほどしまいこんでいた鍵を取り出す。
「これ、ひょっとして……」
イーズは恐る恐る、鍵を鍵穴に差し込んでみた。鍵はぴったりとはまり、回すと、確かな手ごたえがあった。バルクが、ぴゅう、と口笛を吹く。イーズは眉根を寄せた。
「なんでイーダッドおじさまの杖の中に、こんな鍵が入ってたんだろ?」
「オーレック様からもらったんじゃないんですカ? 地下の主のオーレック様なら、片方持っててもふしぎじゃないし。一時、接触あったんでショ?」
「外に繋がる扉だよ? ここから、自由に侵入者を手引きできる扉にもなるんだよ? そんなものを、たとえ片方だけとはいえ他の国の人間に預けるなんて、オーレック……」
イーズは鍵をにぎり、言葉を詰まらせた。今になって、オーレックを外に出した自分の判断に不安がふくらんだ。本当に大丈夫だったのだろうかと、妙な焦燥が胸を支配する。
「もう遅いよ」
ぽつりと降ってきた言葉に、イーズは振り返った。バルクはやけに手馴れた様子で、緑竜を扱っていた。イーズを見て、にっと笑う。
「遅いから、そろそろ上に戻りまセン? たぶん、外、もう日が暮れてますヨ」
「え……あ、うん。そうだね。もう遅いよね」
遅いの意味を違う意味で取っていたイーズは、なんだ、と胸をなで下ろした。口の端からよだれを垂らし、物欲しそうにバルクを見ている緑竜をなだめ、来た道をもどる。最終的な出口はオーレックの居場所である宝物庫からにした。
「やっぱり、オーレックがいないと落ち着かないな。少ししたら、呼び戻そうかな」
がらんとした宝物庫に、イーズはさみしくなった。宝箱から出され、山となっている金銀財宝を何気なく見やり、気になるものを見つけた。何かの燃えがらだ。近くにはぐにゃりと溶けた金属のようなものがある。
「何……これ」
イーズは小腰をかがめ、拾おうとしたが、不意に肩に手を置かれた。バルクがちょいちょいと外を指差す。
「早く行かないと」
「待って、ちょっとだけ」
「これ以上長居すると、ヘーカに外出禁止令くらっちゃうヨ」
夕刻を告げる鐘の音がする。イーズは後ろ髪引かれる思いだったが、地下から出され、緑竜にのせられた。バルクが小屋に鍵をかける。
「ついでにコレ貼っときますか」
小屋の扉に、一枚の紙が打ちつけられる。オーレックの赦免状だ。薄闇に白々と浮かび上がる。
「そろそろ、オーレック様がレギン様を連れて逃げ出してるころカナ」
「オーレックは飛べるから、追っ手を振り切るのは楽だよね」
「そうですネ。黒い竜が空を舞う時が来た」
まるで我が事のように、楽しげにバルクがつぶやいた。イーズは胸騒ぎをおぼえた。
数日後、療養先に護送される途中でレギンが姿をくらました。護送を任されていた兵は、オーレックによってあっさり片付けられた。すぐに追っ手がかかったが、これもレギンに追いつかないうちから撃退された。
「やっかいなものが外に出たな」
シグラッドが忌々しげにつぶやいた。側近たちも同感とうなずく。彼らの前には、一枚の書状が広げられていた。レギンの署名が入った、オーレックの赦免状だ。北の小屋から回収されたのだ。
「私が王座に戻ったからには、こんなものただの紙くずだが、さて、どうしたものかな、あの化け物。もう一度とっつかまえて牢に入れるのも、始末するのも、どちらも一苦労だ」
「口説いて味方にするのが一番の良策かと思いますが」
「味方、ねえ」
シグラッドは気のない返事をしたが、ゼレイアはずいと身を乗り出した。
「オーレック様は、味方につけば、これ以上ないほど頼もしい存在です。今でも竜姫様をお慕いしている人間は数多くおります。中には、属国の宗主もいる。味方に引き込んでおけば、彼らの忠誠もついでに買えるかと」
「やけに熱心だな、ゼレイア?」
シグラッドは尊大に足を組んだ。熱弁をふるう家臣を睥睨する。
「憧れの竜姫様と一緒に、なんて末期的痴呆にかかったような甘くてぬるい腐った夢でも見てるのか? 私以外に忠誠を捧げるようなマネしたら燃やすぞ?」
「滅相もございません! 私の忠誠は陛下にのみ捧げております。陛下の御為とあらば竜姫様と争うこともいとわないのは、先の騒ぎでよくご存知でしょう」
「どうだかな。アレに寝技かけられてオちたとき、気絶したおまえの顔がすごく幸せそうだったとかなんとか聞いたがな」
「ご、誤解です。私は身も心も陛下に――! ぐっ!」
「暑苦しくてむさくるしい顔を寄せるなうっとおしい」
皇帝陛下は容赦なく将軍の顔面を押しのけた。
「あの女を地下に入れるのに、当時の皇帝はどうしたんだ? 命じただけで、素直に牢に入ったとは思えないが」
「夫をエサに、竜の血を鎮める方法を使ってとらえたと聞きます。地下でおとなしくしているなら、子供の命は助けると条件を付けたそうで」
「ほう?」
「オーレック様は当時、ニールゲンの重要な戦力の一つでした。いざというときは頼りにしたかったので、処刑できなかったのですよ。
でも、無駄ですよ、陛下。その子供も、もういません。オーレック様が地下に閉じ込められてから、ほどなくして事故死しています」
「あの女の子供ともあろうヤツが事故死?」
「湖に行った際、うっかり足を滑らせ、おぼれたという話です。なにせ逃げられないよう両足を不自由にされていましたから、泳ぐこともままならなかったのでしょう」
子供を人質に取ろうともくろんでいたシグラッドは、ちっと舌打ちした。
「夜来香もない。今やヤツに弱味はない。野に放たれた化け物だな」
ゼレイアの物言いたげな視線が、イーズにむけられた。赦免状に名があったため、イーズも話し合いの場に呼ばれていた。
「アルカ殿下、何かオーレック様を説得するのに有効な手段はございませんか?」
「有効かどうかはわかりませんが……私を牢に入れてみてください。そうすれば、オーレックは私の身を案じて帰ってきてくれるかもしれませんから」
「帰って来ると同時に、城を破壊し、アルカを略奪していくな。絶対」
シグラッドの予想に、だれもがうなずいた。シグラッドは机に足を乗せ、苛々と中指の腹を親指ではじいていたが、やがてあきらめたように座りなおした。
「仕方ない。こうなったら、こっちもヤツに赦免を与えるか。こちらに手出しもしなければ、あちらの手助けもしないという条件で」
シグラッドは紙とペンを持ってこさせると、さらさらと同じような文面で赦免状を作った。文面の確認を頼まれたゼレイアは、赦免状を確認し、少し不安そうな顔をした。
「しかし、これを書いても竜姫様がこの条件を呑むでしょうか。レギン様と竜姫様は同じ色違いの竜。竜姫様はあくまでレギン様に味方するかもしれません」
「可能性はあるが、たぶん大丈夫だ。あの女は、必ずしもレギンたちの味方というわけではなさそうだ」
「なぜです?」
「私が襲われる数日前、狩猟祭のすぐ後だった。夜に、本宮で黒竜に会ったんだ。その時に、黒蜥蜴のやつ、襲われるかもしれないから気をつけろって警告してきたんだ。見事、襲われたな」
ゼレイアは目を丸くした。なるほど、とうなずく。
「竜姫様のおかげで、陛下は助かったというわけですね。やはり竜姫様。暗殺とかだまし討ちというのは、お嫌いな方ですから。陛下の暗殺計画を聞いて、見てみぬふりができなかったのでしょうな」
ゼレイアや一部の側近たちはうんうんとうなずいたが、この中で一番オーレックになついているはずのイーズは微動だにしなかった。
脳裏に浮かぶのは、先日、地下で見つけた不審な燃え殻と、溶けた金属のようなもの。もしかして、という仮定がずっと頭からはなれない。
「アルカ、黒蜥蜴に赦免状を届けてもらってもいいか? 私の兵を使うと、これを渡す前に黒竜に襲われるかもしれないから」
シグラッドが金属の筒に納めた赦免状を差し出した。ぼうっとしていたイーズは、はっと我に返り、こわごわ受け取る。
「意外だな。あれの赦免状、アルカはもっと喜ぶと思ったのに」
「そんなことないよ。もちろん喜んでるよ。ちょっと他のこと考えていたから」
弁明しながら、イーズは自分のさっきの想像を頭から振り払った。見つけた燃えがらが、襲撃者の衣類や凶器だというまだ確証はない。オーレックが証拠の隠滅を手伝ったという確証だってないのだ。たとえ、剣を溶かすほどの炎はオーレックにしか熾せないとしても。
会議が終わると、イーズは緑竜に乗って北の小屋へと向かった。赦免状を渡す前に、疑義を晴らしておきたからだ。
秋が深まり、小屋の周りには落ち葉がたくさん散っていた。書庫の司書が、だれにいわれたわけでもないだろうに、落ち葉を掃いていた。イーズの姿に気がつくと、腰を折る。
「ありがとうございます、アルカ殿下。レギン様からオーレック様に、赦免状が出ていたそうで。これであの方は自由だ」
「ええ……そうですね。シグラッド陛下からも出ましたので、これで、オーレックは完全に自由です」
「二度と地下から出るなと命じられ、しかし、あきらめることなく待ちつづけて四十余年。長かった。これであの方の念願もようやくかなう」
「念願?」
司書は目を細めただけだった。どうぞ、と道を開ける。
「先に部下の方がいらっしゃっていますよ。竜姫様から、中を片付けておくよう、頼まれていらっしゃるのでしょう?」
「部下?」
「バルクさんですよ。先に作業をはじめていらっしゃいますよ。殿下もそれでいらしたのでは?」
イーズは困惑した。司書は小首をかしげる。
「では、バルクさんにだけ頼まれていたのですね。竜姫様、バルクさんとも親しくしておいでだったようですから」
言葉半ばで、イーズはもう小屋を開けていた。落とし扉は開いて、地下へとつづく暗い階段をあらわにしていた。イーズは一段一段、慎重に降りていく。
「バルク、いるの?」
暗い空間に向かって、イーズは呼びかけた。緑竜の尾の先にともった炎を頼りに、地下へと入る。昼でも暗い地下は、ひんやりとして肌寒く感じるほどだった。
「バルク?」
地下室の中を見回すが、人の姿はない。室内は、宝が散乱したままだった。イーズは以前、不審なものを見つけた場所へ近づき、固唾をのんだ。
あったものが、ない。床に黒くすすけた痕だけを残して、警備服と凶器は消えていた。
「――あーあ、やっぱ気づいたんだネ」
ぼやく声とともに、バルクが現れた。唇に人差し指を立て、イーズにささやく。
「ナイショですヨ、姫サン」
「内緒……って?」
信じられず、イーズはわざと聞き返した。
「まさか、違うよね」
「いいや。オイラとオーレック様が犯人なんデス」
「冗談はやめてよ。何で二人が」
「ま、ニールゲンに対する嫌がらせ、ですかね。あの二人に争ってもらいたかったもんで」
イーズは冗談だと笑ってくれるのを期待しているのに、バルクは生真面目に返してくる。イーズは困惑した。
頭の中を、とある想像が生々しくよぎる。警備服を着て、シグラッドを襲うバルク。壁画を動かし、逃げてきたバルクを地下へとかくまうオーレック。ここで服を着替え、何食わぬ顔で出ていくバルク。証拠を燃やすオーレック。
一番適当で理にかなった想像。だが、イーズは混乱した。怒鳴るように激しく問う。
「どういうこと? 私、まったく意味が分からないよ。オーレックがニールゲンを嫌っても、理由は分かるよ。でも、どうしてバルクまで!」
「オイラはご主人様に命令されたんですヨ。ニールゲンを分裂させろってネ」
「バルクにご主人様? そんなの、今まで一言も」
「前に言ったでしょ? オイラはティルギスの敵はないけれど、完全な味方でもないって。それはこーゆー意味です。オイラには、ハルミット様に出会う前から、ニールゲンに来る前から、仕えてる人がいるんですヨ」
内緒ですよ、とバルクは片目をつぶる。イーズはにらむようにした。じり、と一歩後ずさる。
「姫サン、やっぱ言っちゃう?」
「当たり前だよ。それが本当なら、私、いくら二人でも許せない。全部いう」
「じゃあ仕方ない。姫サンがバラすなら、オイラもばらしマス。“イーズ”ちゃんのコト」
イーズは目を見開いた。顔面蒼白で、今、聞いた言葉を疑う。
「イーズ=ダイル=ハルミットちゃん。イーダッド様の娘さん。お願いだから、ヘーカたちには内緒にしてネ?」
イーズの手から、シグラッドの赦免状が落ちた。なぜ、という二文字を顔面いっぱいに貼りつける。
「最後の最後に漏らしたんですヨ、イーダッド様がオイラにね。私の代わりに、私の娘をあの城から連れ出してくれ、って」
イーズの顔色は生きた人間のものではなくなった。バルクが目の前で手をふっても、反応できなかった。さっきの勢いはどこへやら、ふるえ、かすれる声で懇願する。
「わ――悪いのは私と父上だけだよ。他の皆は悪くない。いわないで。お願い。やめて」
「このこと黙っててくれれば、特に何もしませんヨ。オイラのご主人様はティルギスのこと好きだから、ティルギスに不利になるよーなことは何も」
バルクは足元に転がってきた金属の筒を拾い上げ、中身を読んだ。ぴゅう、と口笛を吹く。イーズは取り戻そうとしたが、バルクが緑竜に投げ渡してしまう。
「さァ、これでオイラたちと姫サンは共犯。切っても切れない縁で結ばれたワケだ。
“貴女はあくまで私のもの”――どこまでも一緒してくださいネ? イーズちゃん」
バルクは黒いロサの花言葉とともに、イーズの両頬をはさんだ。