4.
夕食の皿を洗いながら、アルカはため息をついた。
さらなる洗い物を運んできたキールが、気を遣う。
「アルカ、もういいわよ。後は私がやるから。ニールゲン行の荷物をまとめなさいな」
「ううん、大丈夫。そんなに荷物もないから」
「でも、出発、明日でしょう?
あなたのニールゲン行が今日決まって、明日なんてね。陛下は早くあなたを連れて帰りたくてたまらないのね」
アルカが荷物をまとめたいと強くいい張らなければ、シグラッドは今夜、すでに屋敷に連れ帰っていただろう。
性急さを、キールは微笑ましそうにしていたが、アルカの表情に喜色はなかった。
「シグは仕事があるから、早く戻らないといけないけど。私は遅れてもいいし。出発に間に合わなかったら、オーレックに送ってもらうからいいの」
キールは娘の顔をのぞきこんだ。
「どうしたの? あんなに、陛下と一緒にいたくてしょうがないってふうだったのに。急にへそを曲げて」
アルカは洗う手を止めた。シグルドはバルクに遊んでもらっており、こちらにやってくることはなさそうだ。
「恋と結婚は別物だって思い出した」
「思い出すにはよくないタイミングね」
キールも皿を拭き上げる手を止め、娘とむきあった。
「さっきね、シグと喧嘩したんだ」
「何か言いあっていたわね。あなたが陛下にあんなに強く言い返しているなんて珍しいって思ったけど、なんだったの?」
「シグが、オーレックは危ないやつだから、もう会わないでくれっていうの。
私にとって、オーレックは恩人だし、家族同然からそんなこと、できるわけないのに」
「あなたのその律義さ、好きよ」
「いいあってて、思い出した。私とシグでは、大事なものがちがう。それが離婚の一因だったってこと。
私にもどうしてもゆずれないことがあって、シグが一番大事なときに、一番つらい時に、味方してあげられなかった。手助けどころか、邪魔までした。
……またそんなことが起こらないか、不安で」
アルカは力なく笑んだ。
「近すぎると、ぶつかっちゃうから。やっぱり私、シグとはつかずはなれずくらいの距離がちょうどいいのかも」
「アルカ、気持ちはわかるけれど、シグルドのことがあるんだからよく考えて。
酷なことをいうけれど、もし陛下が御心変わりしたり、陛下の身に何かあったら? 母親のあなたに確かな立場がなければ、シグルドを守れないわ」
アルカはうつむいた。キールのいうことは、もっともなことだった。
「何かあったときは、まずはよく話し合って。妥協できる場所を探してみて」
「話し合ったの。でも、だめだった」
「前はね。あなたも陛下も、変わったはずよ。今度はちがう結果が出るかもしれないわ」
キールに抱かれてなぐさめられていると、イーダッドが台所を通りかかった。
「どうした」
「なんでもないわよ」
キールは余っていた果物を夫に手渡し、さっさと追い払おうとしたが、無駄だった。
イーダッドは有頂天でいるはずの娘が暗い顔でいるわけを察し、うっすら哂う。
「ようやく恋の盲目から醒めたか。醒めずに檻に入るも、また幸せと思っていたが」
アルカの耳元に唇をよせ、そっとささやく。
「結婚生活は大変だったな。窓をふさいだ部屋に閉じ込められ、部下を人質に取られ、外は自由に出歩けず、人と許可なく話すこともできず。ニールゲンの人間はだれ一人助けてくれない。
薄暗い部屋の中で、ぽつんと一人、黙々と針を動かすくらいしかやることもなく。小僧と顔を会わせれば、平行線のいいあい。空気は腐った沼のように重苦しく……」
アルカは耳をふさいだ。イーダッドの語りで、離婚前、一番つらかったときの記憶が生々しくよみがえった。
「あなたって人は! 娘が真剣に悩んでいるんだから、他にもっということがあるでしょう」
「相すまんな。人でなしが私の本分なもので」
キールが拳をふりあげたので、イーダッドはからかうのをやめた。まだ過去のトラウマにとらわれている娘に発破をかける。
「結婚の覚悟がついたら連絡しろ。そうしたら結婚の許可を小僧に伝える」
「……もし一生、つかなかったら?」
「覚悟がつくことをいってやろう。私の頭の中には、まだニールゲンを滅ぼす案だってあるのだぞ?」
アルカはおどろいて、黒々としたイーダッドの底なしの目をのぞき込んだ。
「我が主がご存命の間と、おまえが皇妃についている間くらいはやめておくがな」
イーダッドは赤い果実を食みながら、台所を出ていった。オーレックと何かささやきあいながら、去っていく。黒い竜たちがくつくつ、くすくす笑いあう声に、アルカは背筋がぞくりとした。
「……なるべく早く、何か妥協案を考えてみる」
「そうしなさい」
キールは娘の肩をたたいた。
翌朝、家のまえに、迎えの馬車がやって来た。アルカは荷物を御者に渡し、シグルドを呼び寄せる。緑竜も一緒だ。
「どこに行くの?」
「お父様のおうちよ。しばらくおばあさまたちとは会えなくなるから、ご挨拶して」
これがどういうお出かけなのかわかっていないシグルドは、ちょっと遠出するくらいのことと思っているのだろう、にこにこキールやイーダッドやオーレック、バルクに手をふった。
「それじゃあ――お世話になりました」
「その調子だと、またお世話することがあるかもしれないから、そのセリフは受け取らないでおくわ、アルカ」
養母からキレのいい受け答えが返ってきたので、アルカはしんみりは一瞬で吹き飛んだ。笑って馬車に乗りこむ。
「行ってきます!」
シグラッドの滞在している館の前には、すでに出立の準備が整っていた。門の奥に見える広場には兵が整列し、出発の合図を待っていた。
「アルカ」
門前で、アルカは馬車を降りた。アデカ王たちが門前で待っていたからだ。
「わしらも明日、帰路につく。今、陛下にご挨拶してきたところだ。道中、気をつけてな」
「おじいさまもお気をつけて」
アデカ王は感慨深そうに、孫をみつめた。
「おまえが健やかに育ってくれて、うれしいよ。イーダッドはおまえのことを気が弱いだの、優しすぎるだのというが、立派に育った。
おまえ自身の努力と、みながおまえをそうあっても許し、それを長所として守り育ててくれたからだろう。良い者であれ、悪い者であれ、おまえに関わったすべてに感謝しよう」
「……私は、ちゃんと一人前になれているのでしょうか。いまだに迷ってばかりで、不安です」
「いつになっても迷いはつきものだよ、アルカ。
わしはよく、周りに甘すぎるだの、優しすぎるだのといわれ、自分がこれでいいのかと迷うことしきりだが、こうも思うようにしている。
わしがこうあるのは、皆が私にこうあって欲しいと願った結果でもあるのではないかと。
おまえの父親は、わしの甘さが招いた窮地によって死んでしまったが、最期までわしの人柄を愛してくれた。
わしは息子を殺した相手を憎んだが、死の床にある息子に、おやじ殿に悪鬼の形相は似合わないと、たしなめられてな。鬼になることはあきらめた」
アデカ王は、孫娘に垣間見える息子おもかげを懐かしんで、目を細める。
「大丈夫、おまえはもう立派に一人前だ。自信を持ちなさい。おまえが正しいと思うようにしなさい。
所詮な、わしらのすごす時など膨大な時の流れのほんの一飛沫。わしらの身は風に舞い踊る砂の一粒。どんなことをしたとて、たいしたことはない。ならば存分に踊らねば損というものよ」
重ねた年月にふさわしい、したたかで凄みのある笑みを、アルカはまぶしく見つめた。最後に頬を触れ合わせて、祖父に別れを告げる。
屋敷の正面に向き直る。玄関から、ちょうどシグラッドが出てきたところだった。
今日はさすがに、ハルミット家に出入りしていたときのような気楽な格好をしていない。王者らしい威風堂々たる出で立ちだ。
顔つきもまるで違う。甘さやおだやかさといったものはない。おのれの前に立ちふさがる障害はどんなものであろうと退けてみせる、という激しい闘志と決意に満ちている。
両脇に家臣を従え、肩で風を切って歩く姿に、アルカは動揺した。
再会してからというもの、あまりにおだやかに時を過ごしていたせいで、忘れかけていた。彼は大国の主だということを。自分に見せた笑顔の裏にある、冷徹な一面を。
そして、これから自分が帰ろうとしている世界が、どんなものかをさまざまと思い出す。
「シグルド」
シグラッドは息子を抱き上げて、そのやわらかな頬に唇を押しあてた。
「さあ、我が家に帰ろう」
「ちちうえのいえ?」
「今日からはおまえの家でもある」
「ははうえは?」
アルカはたじろいだが、踏みとどまった。
「行きましょう」
赤い竜の旗がはためく元に、アルカは歩き出した。
*****
ファブロ城に広場には、なつかしい顔ぶれがいくつも待っていた。
「レギン!」
「アルカ!」
馬車を飛び降りるようにして出て、アルカは青い髪の青年と抱擁を交わした。数年ぶりに会うレギンは、すっかりたくましくなって、昔の病弱の影は少しもなかった。
「信じられない! シグラッドが行った先に偶然、アルカがいたなんて。こうやって実際に会っても、まだ嘘みたいだ」
レギンはまじまじと、アルカを頭の先から足の先まで入念に眺めた。やおらまじめな顔になる。
「……本当に、本当に本当の本物だよね?」
「竜のお姿になって、空に飛んで行ったりなさいませんよね?」
念を押したのは、シャールだ。ばっさり髪を切って、男装姿がさらに似合うようになっていた。
「大丈夫大丈夫。今は、ちゃんと本物。ちがったのは、竜王祭の時だけだから。安心して」
もう自分の目が信じられない、と不安になっている二人に、アルカはうなずいてみせた。息子が馬車が降りるのを手伝う。
「それで、こっちがシグルド君か。話には聞いていたけれど、シグラッドそっくり。これはだれも出自にケチのつけようがないね。出所が確かすぎる」
レギンはシグルドの前にしゃがみ、ほほ笑んだ。
「こんにちは。シグルド皇子。僕はレギンだよ。君のお父上の――」
「おにいさま。よろしくです、レギンおじさま」
幼い甥が血縁関係を正確に把握していたので、レギンは眉をあげた。
「すごいね。先にアルカから聞いてた?」
「まえに、ははうえたちが、おしろのはなしをたくさんしていました。シャール、たいし、ローラ、マギー、エイデ―-」
シグルドはその場に集まっている顔ぶれをながめて、名前を言い当てていく。大人たちは目を丸くした。
「会ってもないのに。特徴と名前をよく憶えていたんだね」
「陛下に似て、聡明なお子ですな。将来がなんと楽しみな」
ゼレイアは満面の笑みを浮かべ、皇子の前にひざまずいた。
「シグルド皇子、わたくしの名前は知っておいでかな?」
「ゲボク」
アルカは無邪気にいう息子に凍り付いた。
「オーレックおばあさまが、むかしはわたしのかわいいゲボクだったっていってました」
「ハイ。まさしくその通りでございます、皇子。今は皇子の父上の下僕めでございます。どうぞお見知りおきを」
「シグルド! それは忘れて、これからはパッセン将軍ってお呼びして!」
アルカは必死で息子に言い聞かせたが、ゼレイアは気を悪くするでもなく皇子を肩車して、周囲に見せびらかした。アルカも順に旧知の人々と言葉を交わす。
「シグラッド、手紙で頼まれていたこと、手配しておいたよ。シグルド君の乳母、侍女、教育係、住まい、護衛。慣例通りだと、幼少期は妃妾の棟ってことになってるけど、それでよかった?」
「いい。手間かけたな」
「急な話だったから、人材選びが大変だったけど、こんなめでたい仕事ならね。やりがいがあるよ。
ああ、そうだ、アルカは? 君の隣でよかったよね?」
「それでいい」
異議を唱えたのはアルカだ。思わず、えっ、と声を上げる。レギンの注意がむけられた。
「私はシグルドと一緒だと思っていたんだけど……。シグルド一人じゃ心配だし」
「大丈夫だよ、アルカ。さっき言った通り、シグルド君の世話をする人間はそろえてあるし、遊び相手だって連れてくる。
もちろん、アルカが会いたいときは、会う時間が設けられるから、安心して」
今まで子供と一緒にいるのが当たり前だったアルカは、会える時間を設けるというレギンのいいようにおどろいた。
だが、レギンにしろシグラッドにしろ、ニールゲン側の人々は、それが常識という風情だ。レギンの妻のローラも、娘がどこかへ行きそうになっていても、乳母に任せて気にしない。アルカが一体何をとまどっているのかと、ふしぎそうだ。
やがてレギンが、気づいて気を回した。
「そっか、ずっと一緒だったんだもんね。不安だよね。いいんだよ、日中、ずっとシグルド君といて全然かまわないからね。アルカの好きにして大丈夫。急に環境が変わるから、とまどうよね。
寝るのも一緒がいいの?」
オーレックとキールとともに、シグルドと同じ部屋で寝ていたアルカは、できれば同じ部屋で寝泊まりしたかったが、それはあきらめた。シグルドも新しい環境に慣れなければいけない。
「部屋はシグルドと一緒でなくてかまわないんだけど、私も妃妾の棟で寝泊まりしていいかな? 本宮で暮らすのはちょっと。まだ皇妃でも何でもないのに、ずうずうしいっていうか」
「そう? お世継ぎのシグルド皇子の母親ってだけで、資格は十分だと思うけど」
「ううん。けじめはちゃんとつけないと」
アルカは両手を握りあわせた。
自分でもいいわけじみていると感じたが、シグラッドとはまだ距離を置いていたかった。
アンカラを旅立つ前にした喧嘩は、いまだにアルカの中で尾を引いていた。
シグラッドは言い争いなどなかったような態度で接してくるが、アルカとしてはうやむやに終わらせたくなかった。距離を置くのは、自分への戒めだ。
アルカとて、シグラッドに甘い言葉をささやかれ、大事に抱き寄せられれば、いさかいを忘れたくなる。
「アルカは律儀だね。どうする? シグラッド」
「分かった。私がそっちに通う。政務が終わったら、毎日行くから」
シグラッドはアルカを抱き寄せて、額にかるくキスをした。
レギンが胸をなでおろす。
「アルカがもどってきて、一安心だよ。これでシグラッドも、ちゃんと食べて寝て休むね。おかげで僕らもやっと休める」
「なんなら一年くらい休んでやろうか?」
「やめて。極端すぎるんだよ、君は」
シグラッドとレギンは、政務のために本宮へと去っていった。
「では、アルカ殿下、シグルド皇子。どうぞこちらへ」
乳母が歩み寄ってきて、さっそくシグルドの手を取った。なんて愛らしい、と頬をほころばせる。その場にいたシグルドの侍女たちも、口々にかわいいと褒めた。
「歩いてる。かわいい!」
「笑ったわ。かわいい!」
「きょろきょろしてる。かわいい!」
もはや息をしているだけでカワイイ、という雰囲気だ。シグラッド似の万人受けする容姿は、しっかり周囲の心をつかんでいた。
「お部屋についたら、まずは湯あみをして、お着替えをしましょうね、シグルド様」
乳母の言葉に、アルカは意見を差しはさんだ。
「あの。シグルド、水に浸かるのが嫌いで。すごくぐずるので、私が」
「そんな。アルカ殿下のお手を煩わせるなんて、とんでもない。殿下も長旅でお疲れでしょう。ゆっくり休んでいてくださいまし」
「私も汗を流したいから。シグルドと一緒に入りたくて」
乳母と侍女は、口を押えた。おどろきに。
「いけません、アルカ殿下。異性とともに汗を流すなんて。はしたない!」
「はし――?」
親子ですけど、という反論を、アルカは飲みこんだ。
ここはもう、アンカラの市街地ではないのだということを、否応なしに実感させられた。おとなしく身を引く。息子の常識がニールゲン側とちがってしまっては困る。
「じゃあ、シグルド。またあとでね」
「はい、ははうえ」
明るく元気よく、ばいばーいと手をふって、シグルドは侍女たちと部屋に入っていった。シグルドが聞き訳が良いことも、すんなり新しい環境に慣れてくれることもありがたいのだが、アルカはフクザツな心境になった。
「……シャールは、子供どうしたの? 息子が生まれたんだよね」
「最初から乳母に任せていますよ。すぐに仕事に復帰するつもりでしたし」
「やっぱりそういうものなんだね」
「私も違和感ありましたけどね。何事も慣れですよ、慣れ。
アルカ様も皇妃になられたら、公務がありますから、乳母に任せざるを得なくなると思いますよ」
「そうだよね。慣れなくちゃね」
与えられた部屋は、以前、アルカが妃妾の棟で使っていた部屋と同じだった。
しかしながら。ただいま、という気にはなれないアルカだった。




