20.
潮風が白い帆をはためかせている。遠くに浮かぶ帆船の徴を見て、イーズは階段を駆け降りた。外で客人と話しているイーダッドに報告する。
「父さん、昼には荷が着きそうだよ。船が見えた」
「港で積み下ろしを見守れ。分かっているな、三番倉庫だぞ」
「了解。どうぞごゆっくり」
イーズは客人にかるく会釈すると、また中へと引っ込んだ。軒先にかけられた、黒いうろこ型の看板がゆれる。ニールゲンを出て三年。イーダッドたち一行は港町で交易を営む商会を起こしていた。
「イーズ、港へ行くの?」
手籠に必要なものを詰め込んでいると、台所から、黒髪の女性が顔を出した。母親のキールだ。手に提げた包みをふる。
「お弁当持っていきなさい。積み下ろしの確認をしていたら、どうせ夕方まで戻れないでしょう」
「ありがと。シグルドは? さっきまで下にいたよね?」
「バルクさんとお散歩に行ったわよ。途中で会うんじゃない?」
イーズがもう一度父親の前を通ると、分厚い書類の束を押しつけられた。
「船が港に着くまで、帳簿の確認」
「……はーい」
イーズは手籠に書類を押し込んだ。そこにキールが、さらに小さな紙袋を追加する。
「ついでにこれ、ヴォーダンさんのところに」
「いつもの薬だね」
南海の港町は、今日もよく晴れ、太陽がまぶしかった。黄土色の建物が建ち並び、ところどころで、金に塗られた丸屋根が光っている。中庭にはためく洗濯物や、野菜を洗う女性の姿など、生活が身近に感じられる光景を楽しみながら、イーズはほこりっぽい石畳を踏んだ。
「ヴォーダン夫人、こんにちは!」
紫色の花で飾られた窓の下で、イーズは元気よく声を張り上げた。いつも通り髪を後ろにひっつめ、一分の隙もなく身なりをととのえている老婦人――アニーが顔を出す。
「これ、今月分の薬です。おいていきますね。そのかっこう、暑くありません? 倒れないでくださいね」
「私はあなたのその格好の方にこそ、めまいがいたします。よくお似合いですけれどね」
「でしょう?」
イーズはアニーの嫌味をさらりと流した。平民と何ら変わりない、麻でできた動きやすい簡素な服をつまむ。ますますアニーは気難しい顔をし、かまわれることを迷惑そうにしたが、イーズは気にしない。
「どうぞ遊びに来なさいっていったのは、夫人ですよ? この湿布薬、どうです? 効いてます?」
「悪くはありません」
「いい腕しているでしょう、この薬師。金のうろこのついた仮面をかぶっているから、初対面の人にはまずびっくりされるらしいですけれど」
「なんです、その怪しい外見は」
「顔面に傷があるそうですよ。それを治すために、薬師になったらしくて。住んでいる村の人たちには『金の竜』ってあだ名で親しまれているそうです」
イーズは出てきた女中に渡すと、じゃあ、とかろやかに踵を返した。まるで懲りていない様子に、アニーが目じりを上げる。
「さっさと城へ帰りなさい、この不良皇妃」
「夫人こそ、レギンの子供を見に行ってあげてくださいよ!」
イーズは負けじといい返し、坂道を下った。港に近づくにつれ、潮のかおりが強くなる。波止場で、もじゃもじゃ頭の男が幼児に髪を引っ張られ、四苦八苦している姿に出会った。
「ごめんね、バルク。シグルドはその髪の毛がお気に入りみたいで」
「血は争えないんですかネ。初対面の時、陛下にも何かといじられたことを思い出しますヨ」
「もじゃー!」
イーズが肩からおろすと、幼児は泣きながら抵抗したが、そのうち、緑竜と一緒に駆けだした。ニールゲン脱出の際、くっついてきた緑竜の子供だ。今はハルミット家の番犬兼シグルドの遊び相手として活躍している。
「船が見えたって知らせに行こうと思っていたんですケド。もう気づいたんですネ」
「目、いいから。もう帰ってくるなんて、早いよね」
「そりゃジュールマーレンの新型船を、さらに改良した最新式の帆船ですからネ。
毎度、イーダッド様の急な転身にはびっくりしますヨ。ティルギスの騎馬隊を有効利用して、ティルギスを草原の覇者にしたかと思えば、ニールゲンを相手取って謀略めぐらせて、今度はそれを忘れたように海に進出ですカラ。
ついていくのは大変ですケド、毎日が刺激的ですヨ」
「よかったの? バルクはたまたま竜の姿だった父さんを見ちゃって、命が惜しかったら協力しろって、無理やり部下にされたんでしょ? 国に帰りたくない?」
「いいんすヨ。オイラ、故郷を嫌いなわけじゃないですケド、変化がないのは退屈で。イロイロなものを見たいんデス」
バルクは人夫を呼び集めると、倉庫を開けた。中のものは荷車に積んで売る準備をととのえ、倉庫は荷を収納する準備をはじめる。扱う荷数は多量で、それを運ぶ人の数も多く、イーダッドの仕事の順調ぶりがあらわれていた。
「ずっと計画していたような順調ぶりだね。父さん、前からここで何かしようって目をつけてたのかな?」
「だと思いますヨ。交易拠点としてちょうどいいのに、海賊がはびこっているのが惜しいって、昔、残念そうにしてましたカラ」
「そう。お嬢様たちは運がいいですよ。海賊がいなくなったころにはじめたんですから」
「本当に。旦那様たちいらした頃から減って」
「海賊たちは黒い怪物にやられたとかいっていたらしいですけどねえ」
雑談を聞きつけ、倉庫番や人夫が口をはさむ。二人は急に黙りこんだ。
二人は知っている。黒い怪物の正体は、オーレックとイーダッドだということを。商売をはじめるにあたり、二人が資金稼ぎを兼ねて海賊掃討をしたのだ。この辺りにはびこっていた海賊たちは一晩ごとに一つずつ数を減らし、十日ほどで殲滅された。
「最後の方は海賊さんたちが気の毒だったね……」
「黒竜親子が組んだら怖いもんナシですからネー……」
クワバラクワバラ、と二人は最近小耳にはさんだ異国の災難よけの言葉を唱えた。帳簿を確認したり、食事をとったり、シグルドと遊びながら、船が着くのを待ち受ける。
「ただいま、イーズ! シグルドにバルクもか。出迎えご苦労!」
着岸するなり、船首から黒髪の美女が桟橋に飛び降りた。駆け寄ってきた曾孫を抱きしめ、イーズにもキスをする。
「おかえりなさい、オーレック。順調だった?」
「途中、少々嵐がきつかったけどね。順調だったよ。さあ、皆! 荷を下ろすよ! 早く早く。まずは一人十個荷を背負って飛び降りてこい」
「無茶いわないでくださいよ、船長! そんなことできるのは船長だけです!」
水夫たちが怒鳴る。笑いながら。美人で気風の良いオーレックの人気は高い。他の船の水夫たちからも好かれるほどだ。オーレックが帰ってきたのを見ると、そこかしこから水夫たち集まってきて、荷降ろしを手伝いはじめた。
「悪いなあ、皆。タダで働いてもらって」
「我らが女王様のためならこのくらい。お安いご用ですよ」
「うれしいね。みんな、愛しているよ」
オーレックの投げキス一つで、荷降ろしは驚異的な速さで終えられた。荷降ろしの間、水夫たちが進んでなった人間椅子に悠然と腰かけ、商売敵のはずの他の船長が運んできた食事を優雅にとっているオーレックから、イーズはあえて目をそむけた。
「かあさま、ぼくもあそこにすわっていい?」
「おいでおいで、シグルド。おばあちゃんと一緒におやつにしよう」
「シグルド、見ちゃダメ。あれが普通になっちゃダメ」
イーズは息子の視界から、必死にオーレックの姿を隠した。オーレックに平々凡々というのは、どうやら不可能なことらしい、と最近イーズは思いはじめている。
「立ち寄った港で、レギンと会ったぞ」
倉庫に鍵をかけ、帰途についたとき、オーレックが思い出したように言った。
「赤竜にこき使われて忙しいって愚痴をこぼしていたが、元気そうだったよ。生き生きしていた」
「そう。よかった」
「おまえの行方を聞かれたから、知らないってとぼけておいたが。大丈夫だったかなー。私は嘘が上手じゃないし、あいつは察しがいいから。赤竜に知られなきゃいいんだが」
「大丈夫じゃない? 別れた後、私はシグと銀竜として会った。シグは最初から最後まで、私が銀竜だって信じていた。レギンたちにとっては不可解な去り方だっただろうけれど、シグにとっては納得だから、探すようなことはないよ」
「そうだよな。大丈夫だよな」
家につくと、煙突から炊事の煙が上がっていた。肉の焼けるいい匂いが外にまでただよってくる。オーレックは上機嫌で扉をくぐった。出迎えた愛息子に、両腕を広げる。
「ただいま、イーダッド」
「おかえりなさいませ、母上。おつかれさまでした」
「おまえは相変わらず堅苦しいなあー」
オーレックは熱い抱擁とキスの嵐を息子にふらせた。長い間離れ離れだったせいか、オーレックの息子に対する愛情表現は熱烈だ。イーダッドの方は、淡々と受け入れているだけで、眉一つ動かさないが。対照的な親子だった。
「母さん、食事の用意、手伝おうか?」
「お願いできる? お義母様がもどっていらしたからには、台所は戦場だもの」
キールはギラリとナイフを光らせた。イーダッドもオーレックも大喰らいなのだ。何十人分という量を用意しておかなければ、溶解炉のような竜たちの胃袋は満たせない。
「まさか父さんが竜だったとはねえ。びっくりしたけれど、納得だったわ。
道理でイルマもヒーリットも――ああ、アルカもだけど――よく食べること。食事の用意が大変だった。
ま、でも、皆、自分が食べる分はキッチリとってきたけどね。っていうか、取らせたけどね」
「兄さんとヒーリットはわかるけど、アルカもだったんだ?」
「そうよ。あの子は自分が食べるために料理をよく覚えてくれたから、助かったけど。おかげですぐ嫁に行ったし」
「そうなんスか。姫サンは食べる量、普通ですけどネ」
二人でも大変だろうと手伝いに入ったバルクが、ふしぎそうにした。羊の腸を洗いながら、何とはなしに軽口をたたく。
「アルカちゃんの方が兄弟らしいっすネ――なーんて」
「ええ、そうよ。本当はあの子がうちの子なの」
イーズの手から鍋が落ちた。バルクもたらいをひっくり返す。
「本当はあなたがアルカで、アルカがイーズなのよ。あなたたち、もともと生まれて半年で入れ替わっていたのよ」
落とした鍋を拾うことも忘れ、イーズは立ち尽くした。酒を取りに来たイーダッドとオーレックも、戸口で固まる。
「じょ――冗談だよね?」
「父さんはともかく、私がこんなたちの悪い冗談を言ったことがある?」
キールはナイフをおくと、手を洗った。硬直している一同に、居住まいを正す。
「あなたのお母さんは、あなたを産んですぐに亡くなった。私とあなたのお母さんは仲が良かったから、私は自分の産んだ子供と一緒にあなたの面倒を見ていたの。
あなたが生まれたとき、アデカ王とお父さんは遠征中だった。家に帰ってきたら、似たような年頃の赤子が二人いる。お父さん、当然、どっちが自分の子供か分からないでしょう? 自分になついてきた方を自分の子供だって勘違いしたのよ」
「……ちょっと待って。だからって、それでずっと!? すぐいうでしょでしょ!? 普通!」
「いうつもりだったわよ。でも、私が勘違いに気づいた時には、お父さん、あなたに名前つけて、将来は皇妃にするなんてはりきって、ものすごくかわいがってて。
困ってアデカ王にご相談したら、子供は一度捨てて拾われた方がよく育つっていうから、養女として預かってほしいって頼まれたのよ」
「で、ずっと父さんに黙ってたの?」
「黙っていようっていたのはアデカ王よ。ちょうど、遠征中に何か喧嘩したのね。
“俺はあいつのことを親友だって思っているのに、あいつは俺に絶対何か隠し事してる。だから俺も一つ隠しごと作ってやる! 人を信頼しないとどうなるか教えてやる!”ってぷりぷり怒っていたわ」
イーズはもはや言葉もなかった。衝撃的すぎて、言葉が出ない。
「だから、あなたがニールゲンの皇妃として嫁がされることを、アデカ王は許可したのよ。本当の孫だから」
「その時にも、言わなかったの?」
「だって、自分の子供じゃなかったって知ったら、父さん、やる気失くすかもしれないでしょ?」
イーズは口をとがらせた。それはそうだが、納得はできない。
「あなたまで黙っていたのは、悪かったと思っているわ。本当はお父さんが死んだときにいうつもりだったんだけど、あなたがお父さんの後を継いで頑張るっていうから、言わない方がいいと思って黙っていたのよ」
はたで聞いていたオーレックが驚きあきれていた。イーダッドの感情は読めない。能面のような顔面を凍らせている。
「ごめんなさいね。あなた」
イーダッドの返事はない。台所にはぐつぐつと鍋の沸騰する音がするだけだ。キールは身体の前で両手を重ね、静かにつづけた。
「少し前に、私たちの居場所を知らせるために、アデカ王にお手紙をお出ししたわ。この子はアデカ王の宝物だもの。お返ししなくては」
ふたが落ちるほどに、鍋の湯が沸いた。イーダッドの感情に、かまどの炎が反応しているのだ。イーズは身を固くしたが、キールは落ち着いていた。
「怒っているのね。でも、おあいこよ。あなただって、私たちをだましていた。自分の復讐のために利用しようとしていた。あなたにとっては、ティルギスも私もこの子も、ずっと道具だったのでしょう?」
キールは相手が顔をしかめるほど、夫の高い鼻をつまんだ。したり顔で、唇を三日月形に形作る。
「ねえ、あなた。ようやく分かったと思うから、聞くわ。娘をよそにやる父親の気持ちは、いかが?」
「……最悪だ」
妻の指をふりほどき、イーダッドはため息を吐いた。深く肩を落とす。
「おまえにまで担がれていたとは思わなかった」
「責められるいわれはないわよ。あなたが何かを隠しているのは私も知っていたわ。私もずっと怒っていたの。だから、アデカ王の話に乗ったのよ。
ああ、すっきりした。このくらいのどんでん返しをしてやらなくちゃ、気が済まないと思っていたの。でなければ、熟年離婚? どっちがよかった?」
「……」
「イーダッド様、しばらくは奥サンの言う通りにした方がいいっスよ」
「さすがはおまえの妻だな。ゼロ距離で大砲ぶっ放してくれる」
バルクもオーレックもイーダッドの肩に手を置きつつ、キールの味方をした。イーズはまだ呆然としていて、言葉が出ない。意識のないまま鍋を拾う。
「突然、ごめんなさいね。いつ言おう、いつ言おうって、ずっと悩んでいたの。でももうすぐ、アデカ王もお見えになるから。黙っているわけにもいかないと思って」
キールはイーズの肩を抱いた。不器用に、イーズの頬にキスをする。
キールらしくない愛情表現に、イーズは正気に返った。頬をおさえて、泣かないよう唇をかみしめる。これは最大限の愛情表現なのだ。それでも娘だと思っているという、養母の。
「あら? シグルドは? 庭に出てっていない?」
「本当だ。探してくる」
「しばらく散歩していらっしゃい。準備は大丈夫だから」
気持ちを落ち着けてきなさいという、キールの気遣いだろう。イーズは前掛けを外して、庭に出た。シグルドは通りで、緑竜としゃがんでいた。イーズに呼ばれると、手に何か持って走ってくる。
「何か拾ったの?」
「うろこ。道におちてたの」
シグルドは明るい茶褐色の目をかがやかせて、うろこを見せびらかした。変わったうろこだった。魚のうろこにしては大きく分厚く、月の光を集めたようなうつくしい銀色をしている。
「あの人があるいたあとに、おちてたの」
小さな指が、通りのずっと先を指す。りっぱな門構えの建物を曲がって、銀の髪が消えるのが見えた。イーズはシグルドを連れ、通りに出た。早足に角を曲がるが、だれもいない。
「中に、入って行ったのかな」
立派な門柱のあるこの建物は、町の集会所だ。表の看板に、とくに何か催し物があるとは書いてないが、鍵は外されていた。扉を押し、中をのぞき見る。
日はかたむき、室内は茜色に染まっていた。何列もならんだ長椅子に人は見当たらなかったが、緑竜がくうと鼻を鳴らすと、最前列にはだれかが寝ていたらしい、人影があらわれた。
「――銀竜?」
茜色の日差しに髪をさらに赤く染めて、イーズと同じ年頃の青年が問う。イーズは息が止まった。
「なんだ、またその姿か。分かりやすくていいが」
長い足をふって勢いをつけ、赤髪の青年が立ち上がる。全身を見れば見るほど、相手はよく見知った人物――シグラッドだった。
「どうして」
「どうしてって、おまえがいったんだろう。竜王祭のとき、去り際に、三年後のこの日に港町アンカラの集会所で――って。ようやく大事な話とやらが聞けるのか?」
イーズは何から説明したものか困って、口をぱくつかせた。無造作に距離を詰めてくるシグラッドの姿が信じられなくて、うまく言葉が出ない。
すると、ようやく、シグラッドが相手の様子がおかしいことに気がついた。まじまじと、上から下まで相手を観察し、横に自分に良く似た目の色の子供を見つけ、きょとんとする。我が目を疑っていた。
「まさか……本物の?」
イーズはもう隠すことも逃げることも嘘をつく必要もない。ただ真実を述べればよかった。
「そう。本物のアルカ」
うす闇の空で、銀の竜が星々と戯れるように、楽しげに空を泳ぎまわっていた。
これで完結です。後の話は番外となります。
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