第8話:恥辱の澱
第8話:恥辱の澱
「……しまっ……!」
一条湊の指先から放たれた渾身のストレートが、意図しない放物線を描いた。
ドゴォォォン!!
凄まじい破壊音が、静まり返ったグラウンドに炸裂する。
打席にいたのは、本来ベンチで膝を休めているはずの3年生、椛島隆士。怪我で走れないはずの「怪物」が、代打として強引に割り込んできた初球だった。
打球はレフトスタンドを遥かに越え、校舎の壁面に直撃した。
湊の武器である2400rpmのバックスピンが、椛島の怪力によって「飛距離」へと変換されたのだ。
「……センスがねえな。浮き上がる直球? 悪くわねえが軌道が読めりゃあ、ただの絶好球だ」
椛島は吐き捨てるように言い、引き揚げていく。
湊の喉の奥が、熱い。
美術部時代、真っ白なキャンバスに墨汁をぶちまけられたような、取り返しのつかない屈辱。
(「黄」……いや、あの人は「黒」だ。僕の色彩設計が、通じない……!)
動揺は、毒のように全身へ回る。
続いて打席に入ったのは、1番・中堅手の飛鳥。
湊は焦った。早くストライクを取りたい。その「欲」が、緻密な指先の感覚を狂わせる。
——審判の右手が、鋭く横に振られた。
「ボーク! ランナーなしだが、投球無効!」
静寂。そして、ベンチの1軍メンバーから失笑が漏れる。
「なんだあいつ、ダンスでも踊ってんのか?」
「フォームだけ立派で、中身はガタガタじゃねえか」
耳が熱い。視界が歪む。
(恥ずかしい。逃げたい。マウンドが、底なし沼みたいに僕を飲み込もうとしている……!)
続く投球。牽制の真似事。
足がもつれる。一塁への送球が、誰もいないベンチへと転がっていく。
失策。暴投。
120キロの「魔球」を投げていた少年は、今やただの「守備のできない素人」に成り下がっていた。
「そこまでだ。ピッチャー、交代」
鬼塚監督の冷徹な声が響く。
湊は、マウンドの土を一度も踏みしめることなく、逃げるようにベンチへ戻った。
交代したエース・豊田が、すれ違いざまに囁く。
「……マウンドが汚れたな。掃除しとけよ、美術部」
ベンチの端。湊は泥だらけのユニフォームを見つめ、拳を握りしめた。
爪が手の平に食い込む。
その時、マネージャーの浅倉が、無言でアイシング用の氷嚢を差し出した。
冷たい。
あまりの冷たさに、思考の熱がわずかに引いていく。
浅倉と一緒に湊の元に駆け寄ってきた結城が俯く湊を覗き込みながら励ます。
「湊くん。データは嘘をつかないわ。でも、きみの心は、まだ過去の『恥』に縛られている」
湊は、部室の壁に貼られた野村克也の言葉を、脳裏に刻みつけた。
人間は、恥ずかしさという思いに比例して進歩するものだ。
(……そうだ。僕は、今、死ぬほど恥ずかしい。この泥の匂いも、笑い声も、全部、僕の進歩の糧にしてやる……!)
湊は視線を上げた。
試合は終わり、夕闇がグラウンドを包み始めている。
部員たちが引き揚げる中、湊は一人、暗くなったグラウンドの端の壁へと向かった。
シュッ……。
シュッ……。
投球動作ではない。
バント処理のステップ。一塁への送球。牽制の足運び。
動作を染み込ませるように身体を「ゆっくり」動かす。
それは、投球練習よりも遥かに苦痛で、地味な反復だった。
一時間。二時間。
暗闇の中で、湊の「レッドスター」が土を噛む音だけが響く。
「……一条」
背後から、低く重い声がした。
鬼塚監督だった。彼は腕を組み、湊の「無様な」特訓をじっと見つめていた。
「お前の球は、確かに異質だ。だが、野球は『投げるだけ』のスポーツじゃない」
湊は動きを止めず、荒い息をつきながら答えた。
「……分かっています。僕は、下手くそです。センスも、ありません」
「ほう。なら、どうする?」
「……できるまで、やるだけです。野村さんが言っていました。プロなら当たり前だって」
鬼塚の口角が、わずかに上がった。
彼は一枚のプリントを湊に差し出す。
「明日から、練習メニューを変える。お前は投球練習の半分を削り、この『異能プログラム』をこなせ」
湊が受け取った紙には、投球フォームを維持したまま「動作スピードだけを変動させる」という、再現性を重視する現代のセオリーとはかけ離れたメニューが並んでいた。
「リミッターを外すな。その『枷』を、相手を欺くための『扉』に変えろ。……明日、監督室に来い。お前の『デザイン』の続きを聞かせてやる」
監督が去った後、湊は再び壁に向かった。
空は深い藍色。
暗闇の中、121km/hの「静かな火の玉」が、夜風を切り裂いた。




