第6話:キャンバスに描く色
第6話:キャンバスに描く色
「一理に達すれば、万法に通ず」
グラウンドに立ち、一条湊は野村克也が遺したその言葉を反芻していた。一つの真理を極めれば、すべての物事に通じる。湊にとっての「一理」とは、十年間壁を叩き続けた指先の感覚だ。
今日は、聖隷高校野球部内での紅白戦。一軍昇格をかけた、湊にとって負けられない「試験」である。
「おい、一条。今日はセカンドじゃねえ、マウンドだ。5回から2イニング、投げさせてやる」
鬼塚監督の声に、湊の心臓が大きく跳ねた。
右投げ両打ち、背番号なし。膝下までストッキングを伸ばしたオールドスタイルに、真っ黒な「レッドスター」のスパイク。異質な風貌の湊がマウンドへ向かうと、部員たちから失笑が漏れる。
「出たよ、腕の振りだけ新幹線の『自転車ピッチャー』」
「セカンド守らせりゃザルだし、大人しく美術部で絵でも描いてりゃいいのにな」
湊は何も言わず、深く被った帽子のツバを直した。視界が狭まり、マウンドと打席、そして捕手・佐伯誠二のミットだけが鮮明に浮かび上がる。
美術部で養った観察力と、入部してから頭に叩き込んだデータが、湊の脳内で一つのフィルターを生成した。
(……見える。打者の『色』が)
第一打者、二塁手の猿渡駆が打席に入る。
湊の目には、彼が「緑」に映った。
(「緑」……神経質型。狙い球を絞り込み、外れると迷うタイプ。まずは迷わせる)
湊のフォームは、メジャーの快速球右腕ティム・リンスカムそのものだ。180センチの体を極限までしならせ、地面を叩くようなステップから右腕が爆発的に振られる。
シュッ!
ムチのような鋭い破裂音。打者の脳は「150キロ」を覚悟する。
だが、放たれたのは120キロのストレート。しかし、それはただの120キロではない。
(ラプソードで記録した2400rpm……。ホップ成分を最大化させる!)
高めに投じられた白球が、バッターの手元で浮き上がった。駆のバットがその下を空切る。
「ストライク!」
「なっ……なんだ、今の。もっと遅いと思ってたのに……」
駆の顔に戸惑いの色が浮かぶ。「緑」の色彩が濁り、迷いが生じる。湊はすぐさま次のキャンバスを描いた。
(次は、目線を上げさせる)
同じ腕の振り。リリースの瞬間、湊の長い指がボールの回転を完全に殺した。
「パラシュートチェンジ」。
山なりの軌道を描き、打者の視界の中でボールが一時停止したように錯覚させる魔球。
「うわっ!」
駆の体が仰け反り崩れる。大きく外れた空振り。
湊は確信していた。今の自分には三振が必要だ。フィールディングがボロボロな自分にとって、打球を前に飛ばさせることは「リスク」でしかない。
(僕は不器用だ。エラーもする。カバーも忘れる。だから……バットに当てさせなければいい)
三球目。仕上げは低めのストレート。
意図的にスピンの軸を少し傾け、打者の目には「ボール」に見える低さから、ストライクゾーンの底へ突き刺す。
「……ストライク! バッターアウト!」
見逃し三振。駆は呆然と立ち尽くした。
「一条……お前、今のたった三球で、駆の思考を完封したな」
捕手の佐伯が、返球しながらマスク越しにニヤリと笑った。
「……まだ、これからだよ。」
二番打者、蔵敷。聖隷の次期主将。
湊の眼前に現れたのは、燃え盛るような「黄」の色彩だった。
(「黄」……豪快型。パワーでねじ伏せるタイプ。低めの緩急で崩す!)
蔵敷は湊の120キロを舐めていない。先程の猿渡への投球を凝視し、タイミングを合わせに来ている。
初球。湊は「サークルチェンジ」を選択した。
パラシュートチェンジが「浮いて止まる」球なら、サークルチェンジは「沈んで逃げる」球だ。
ドゴォッ!
蔵敷の剛腕が空気を切り裂く。シンカーのように滑り落ちる軌道に、強打者のバットは届かない。
(サークルチェンジは空振りを取る。パラシュートチェンジは目線を狂わせる。そして、2400rpmのストレートが、すべてを『速く』見せる)
「……いい球投げるじゃねえか、美術部!」
蔵敷が不敵に笑う。湊の背筋に冷たい汗が流れた。
湊は再びセットポジションに入った。フィールディングの未熟さを、投球の「デザイン」で補う。
紅白戦のグラウンド。
120キロの「遅すぎる新幹線」が、ついに猛者たちの五感を侵食し始めていた。




