第49話:勝利という名の断絶
第49話:勝利という名の断絶
大和スタジアムの喧騒が、遠い幻聴のように耳の奥で鳴っていた。
三回戦突破。2-0という完封勝利。
スコアボードに刻まれたその数字は、聖隷高校という組織の「正しさ」を雄弁に物語っていた。
「お疲れ様でした」
整列を終え、引き揚げる通路。
湊が三年生の捕手・黒田の横を通り過ぎようとした、その時だった。
「一条」
足を止める。黒田の視線は、湊を捉えていなかった。ただ、自らの防具の砂を払う冷徹な横顔があった。
「お前の出番はなかったな。……それが答えだ。聖隷の野球に、お前のような『異端』は必要ねえ」
吐き捨てられた言葉。
湊は何も言い返さなかった。否定する言葉を持たなかったのではない。黒田の言う通り、今日の試合において、豊田、筧、不動の継投は完璧だった。
その「武」と「秩序」が勝利を呼び込んだことは、動かしようのない事実だった。
「……はい」
絞り出した返事は、熱気を帯びたコンクリートの壁に虚しく吸い込まれた。
三年生たちが笑い合い、勝利の美酒ならぬスポーツドリンクを酌み交わす。
その輪の中には、湊の背番号「20」が入る隙間など、最初から一ミリも存在していなかった。
「……不気味なほどの静けさだな」
通路の陰。カメラを構えた記者・真壁が、冷ややかにその光景を見つめていた。
勝ったはずのチーム。しかし、その内部で決定的な亀裂が、音を立てずに深まっている。
真壁のレンズが、汚れた指先を握りしめ、一人歩む湊の背中を追っていた。
帰宅。
一条家のリビングからは、父・健造の豪快な笑い声が聞こえてくる。
三回戦突破の報を聞き、機嫌が良いのだろう。
「湊! 見てたぞ、完封か! さすが豊田だ。あれこそがエースの投げっぷりよ!」
湊は曖昧に頷き、言葉を返さずに自室を通り抜け、庭へと向かった。
夕闇が迫る庭。
そこには、十年以上に渡って湊の狂気を受け止め続けてきた壁が立っている。
一歩。
リンスカムを模した、爆発的な歩幅で踏み込む。
リリース。
指先から放たれたボールが、夕闇を切り裂く。
ドシュッ。
乾いた音が響く。
納得はしていた。豊田さんの150キロ。筧さんの曲がり。不動さんのフォーク。
どれもが甲子園を狙うに相応しい、完成された「本物」だ。
それに比べて、自分の122キロは何だ。
ただの、バグ。
ただの、異端。
今日の試合、自分がマウンドに上がる理由は、一瞬たりとも存在しなかった。
それが、悔しい。
自分の信じてきた理論が、積み上げてきた指先の感覚が、完成された「正しさ」の前でゴミのように扱われたことが。
「……っ!」
二球目。三球目。
湊の腕が、鞭のようにしなる。
空気の抵抗を極限まで掴んだ白球が、壁の手前で「おかしな挙動」を見せる。
それは陽炎のようだった。
「……そこのきみー!そんな無茶しちゃいけませんよー!」
背後から、凛とした声が響いた。
振り返ると、そこには織部翠が立っていた。
「翠」
「三回戦、おめでとう。……今日は出番、なかったね」
翠は、湊が深く被った帽子のツバの下にある、澱んだ瞳を見逃さなかった。
湊は、再び壁に向き直る。
「……納得はしてるんだ。三年生たちは凄かった。一年の僕の出る幕なんて、やっぱりどこにもなかった」
「でも、悔しいんでしょ」
翠が歩み寄る。湊の手に握られたボールを、彼女はそっと覗き込んだ。
「きみの球に惚れたのは、あたしだけじゃないはずだよ」
翠の言葉に、湊の肩が微かに震えた。
「……昔、野村さんは言ったんだ。『正しい努力をしているか?』って」
湊の声は、地を這うように低かった。
「今日の勝利は『正しかった』。でも、僕の努力は、このチームの『正しさ』を壊すためのものにしかならない」
122キロ。
その天井は、もはや絶望の象徴ではない。
それは、既存のすべてを焼き尽くすための、火種。
夜の帳が下りる。
湊は翠の視線を振り切るように、再びボールを握り直した。
勝利は、断絶を生んだ。
だが、その断絶の深淵で、122キロの炎が、かつてないほど激しく、静かに、燃え上がり始めていた。
「……次は、横浜清稜だ」
湊の独白が、闇に溶ける。
聖隷高校、三回戦突破。
次なる戦いは聖隷の本当の試練の始まりだった。




