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リミッター・ハイ  作者: あめたす


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第5話:壁の向こうの対話者

第5話:壁の向こうの対話者


「努力は大切である。が、それだけでは大きな成果が得られるとは限らない。肝心なのは、正しい努力をしているかどうかだ」


夜の庭。一条湊は、僅かな灯りに照らされたコンクリートの壁に向かい、その言葉を反芻していた。

練習試合での失態。セカンドゴロをトンネルしたあの感触が、まだ右手に嫌な痺れとして残っている。バックホームで走者を刺した「スピン」は確かに武器になったが、野球はそれだけで勝てるほど甘くない。


(……正しい努力。僕が今までやってきたことは、本当に正しかったんだろうか)


美術部で培った、対象を細部まで観察する癖。それが仇となり、自分の不器用さばかりが解像度高く見えてしまう。


「パシッ」


投げ込まれた白球が、壁の決まった位置を正確に叩く。中学時代から数万回、数十万回と繰り返してきた孤独な音だ。


「……相変わらず、変な球を投げる坊主だ」


暗闇から不意にかけられた声に、湊の肩がびくりと跳ねた。

振り返ると、そこには散歩の途中らしい小柄な老人が立っていた。名を田尾という。近所に住む、自称「万年野村信者」の老人だ。


「……田尾さん。まだ起きてたんですか」


「ワシの辞書に妥協はないんでな。寝る前の散歩を欠かしたら、それこそ死ぬ時だと思っとる。それより坊主、今日の試合はどうだった」


湊は視線を落とし、真っ黒なレッドスターの先で地面をなぞった。


「代走で一点取って、バックホームで一人刺しました。でも……正面のゴロを、エラーしました。フィールディングも、カバーリングも、何もかも素人以下で。……監督には『次の展開を視ていた』と褒められましたが、結局は身体がついていかなかったんです」


田尾は「ふむ」と鼻を鳴らし、湊が投げ続けてきた壁の「凹み」を指差した。


「お前さんは、10年かけてこの壁を削ってきた。その集中力はプロ並みだ。だがな、野球の神様は『一生懸命』だけじゃ振り向いてくれん。お前さんが今やっておるのは、『投げたいところに投げる』練習か? それとも『打者を打ち取る』練習か?」 


「それは……」


湊は答えに詰まった。

壁当ては、孤独な対話だ。壁は打席に立たない。バントもしてこないし、盗塁の構えも見せない。


「『どうするか』を考えない人に、『どうなるか』は見えない。野村さんはそう言った。お前さんは、自分の『制限』という欠点を知っている。ならば、それをどうやって『勝つための駒』にするか、もっと具体的に考えにゃならん」 


田尾は懐から、古びた一冊のノートを取り出した。表紙には「野村ノート・写し」と書かれている。


「いいか、坊主。お前さんの球は、腕の振りに比べて異常に遅い。これは本来なら『欠陥』だ。だが、見方を変えれば『打者のタイミングを破壊する最強の罠』になる」


田尾が地面に枝で図を描き始める。


「打者は、お前さんのダイナミックなフォームを見て、脳内で『150キロ』の準備を強制される。しかし、放たれた球は120キロだ。この30キロのギャップを埋めるために、打者の脳は無理やりブレーキをかける。……その瞬間に、お前さんは何を投げる?」


「……変化球、ですか」


「そうだ。だが、ただの変化球じゃない。お前さんの手先なら、『回転軸』を自在に操れるはずだ。同じストレートでも、わざとスピンを減らして沈ませる。あるいは、パラシュートチェンジを山なりではなく、低めに突き刺す。……『文武を兼ね備えてこそ無敵』。頭を使え、湊。お前さんは、マウンドというキャンバスに、打者が絶望する絶景を描く絵描きになれ」


湊の瞳に、小さな火が灯った。

今まで、リミッターは「自分を縛る鎖」だと思っていた。

だが、もしこれが「誰にも真似できない独特のテンポ」を生むための装置だとしたら。


「田尾さん……僕、もう一度、ピッチングの『構成』を組み直してみます。ストレートを『速く見せる』ための、正しい努力を」


「はは、その意気だ。殴られた方は忘れていても、殴られた痛みは忘れない……お前さんに恥をかかせた打者どもを、今度はその『変な魔球』で震え上がらせてやれ」


田尾が去った後、湊は再び壁に向き合った。

今度は、ただ投げるのではない。

打席に強打者が立っていると想定する。

彼らのスイングスピードを、彼らの視線を、色彩としてイメージする。


(リミッターがかかる瞬間、僕の身体は『一定の出力』で固定される。……なら、その安定した出力を逆手に取れば、リリースの瞬間まで球種を完璧に隠せるはずだ)


湊の右腕が、しなやかに、そして鋭く振られた。

今までの「全力」とは違う、理論という芯が通ったフォーム。

放たれた一球は、壁の手前でクイッと不規則に変化し、湊のイメージ通りの色彩でターゲットを射抜いた。


「……見えた」


夜の静寂の中、湊の独り言が響く。

足元を支えるのは、汚れひとつないレッドスター。

膝下まで伸ばしたオールドスタイル。

そして、人差し指と中指の、岩のように硬いマメ。

明日からの練習は、今までとは違う。


「できないなら、できるまで練習しなさい。プロなんだから当たり前ではないか」


湊の耳に、野村克也の厳しい、けれど温かい声が聞こえた気がした。

壁の向こうに、甲子園の、そしてプロのマウンドの景色が、少しずつ、けれど確実に広がり始めていた。

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