第31話:前夜、境界線の静寂
第31話:前夜、境界線の静寂
夏の匂いがした。
湿り気を帯びた夜風。遠くで鳴く羽虫の音。
神奈川県大会開幕を翌日に控えた夜。
湊は、自宅の庭で一人、使い古されたボールの感触を確かめていた。
目の前には、10年間向き合い続けてきた「壁さん」がいる。
無数の球痕。剥げた塗料。中央付近は湊が放ち続けた「祈り」の数だけ、ボール状に凹んでいる。
「……明日だ。明日、行ってくるよ」
湊は、手にした白い背番号「20」を、壁の凹みにそっと立てかけた。
この凹みは、湊の挫折の歴史だ。
一向に上がらない球速。父からの冷たい視線。脳が勝手に筋肉を止める「リミッター」の絶望。そのすべてを、この壁だけが受け止めてくれた。
「センスがないなりに、準備だけは整えたつもりだ」
自嘲気味に呟いたその時、背後で網戸が開く音がした。
「……まだやってるのか」
父、健造だった。
元社会人野球のスター選手。その体躯は、今なお湊に巨大な影を落とす。
「……最終チェックだよ」
「ふん。120キロそこそこの球を投げるのに、そんな大層な儀式が必要か。お前のようなタイプは、一度捕まったら終わりだ。わかってるんだろうな」
相変わらずの突き放すような物言い。
だが、今の湊には見える。父が履いているサンダルの先が、わずかにマウンドの方向を向いていることを。美術部で培った観察眼は、父の言葉の裏にある「焦燥」を捉えていた。
「わかってるよ。だから、一球も無駄にはしない。……僕の120キロが、父さんの常識を壊すところ、見ててよ」
健造は鼻で笑い、何も言わずに家の中へ消えた。
入れ替わるように、母、佳代がお盆を持って現れる。
「湊、冷たい麦茶。それと……これ、明日持っていきなさい」
手渡されたのは、新しいスポーツタオルと、小さな御守りだった。
「お父さん、ああ見えてあんたの試合のトーナメント表、毎日眺めてるのよ。……頑張らなくていいから。あんたが信じてきたものだけ、置いてきなさい」
「……ありがとう、母さん」
佳代の温かい手が湊の肩を叩く。その掌から伝わる温度が、マウンドで孤独になる湊の心を、静かに、強く繋ぎ止めた。
自室に戻り、ベッドに横たわると、スマートフォンの通知が騒がしく鳴った。
画面には三つの名前。
『結城 陽葵 明日のスタジアム、湿度は60%予報。ボールのホップ成分が最大化する環境です。湊くんの「2450rpm」なら、空気さえ味方にできる。……データのことは、私が全部引き受けるから。安心して暴れてきて』
『浅倉 仁衣菜 明日、あんたが少しでも顔色変えたら即交代させるからね。アイシングもサポーターも完璧に準備したわ。……変なところで無理して、泣きそうな顔で帰ってきたら承知しないんだから!』
『織部 翠 明日のマウンド、楽しみにしてるね。これまでの思い、全部晴らしてきて。湊が「ストレート」でスタジアムを黙らせる瞬間、特等席で見てるよ。』
三者三様の、しかし熱いエール。
陽葵の論理。仁衣菜の献身。翠の共鳴。
湊は短く「わかった。ありがとう」とだけ返し、画面を閉じた。
まだ、高揚で心臓がうるさい。
湊は再び庭へ出た。最後にもう一度だけ、空気に触れたかった。
「……いい面構えになったのう」
生垣の向こうから、枯れ枝のような声がした。
近所に住む老人、田尾さんだ。野村克也を信奉する、湊の「隠れ師匠」。
「田尾さん、夜風は体に障りますよ」
「カカッ。明日、死に場所を見つけにいく若造に言われたくないわ。……湊よ。野村さんは言った。『念ずれば花開く』とな」
田尾さんは、古びたラジオの音を小さく絞った。
「だがな、ただ念ずるだけでは花は開かん。その下にどれだけの『理』を積み上げたかだ。お前の指先のマメ、お前のスパイクの汚れ……。準備を怠る者にチャンスは来んが、お前は地獄を見てきた。……自信を持って、無視してこい」
「……無視?」
「ああ。150キロを求める世間の常識を、親父の呪縛を、観客の嘲笑を……すべて、お前の狂気で黙らせてこい」
田尾さんはそれだけ言うと、杖を突いて闇の中に消えていった。
沈黙が戻る。
湊は、暗闇の中で右腕を振り抜いた。
「シュッ!」
ボールは持っていない。だが、指先には確かに、2400回を超える旋回を感じる「糸」が掛かっていた。
122キロの炎。
それは、弱者が強者を喰らうための、静かなる狂気。
空には、明日を約束するような満天の星。
一条湊の、長い夜が明ける。




