第30話:青い熱源
第30話:青い熱源
突き抜けるような、夏の青だった。
神奈川県立聖隷高校。グラウンドの隅で、一条湊は最後の一球を投げ終えた。
「シュッ!」
空気を切り裂く鋭い破裂音。
紅白戦から一ヶ月。湊の右腕は、もはや一ヶ月前とは別物に変貌していた。
「……よし。ストップ」
バックネット裏でハイスピードカメラを構えていた結城陽葵が、満足げに端末を叩く。
彼女の瞳が、データという名の「光」で輝いた。
「湊くん、見て。ストレートの平均回転数が2450rpmに到達。ホップ成分は……信じられない。現役時代の藤川球児さんを彷彿するレベルまで跳ね上がってる」
「……まだ、行けます」
湊は帽子を深く被り直し、自らの前腕を見つめた。
この一ヶ月、湊は「狂気」を飼い慣らそうとしていた。
放課後、照明の消えたグラウンドや、自宅の「壁さん」に投げ続けた、一万球を超える反復。
指先の皮膚は一度すべて剥がれ、岩のように硬いマメがその下から生還した。
「回転数だけじゃないよ、陽葵さん」
湊は、不敵な笑みを浮かべた。
指先の感覚だけで、縫い目にかける圧力を1ミリ単位で制御する。
「脳内リミッター」という枷を逆手に取り、脳が筋肉を止める瞬間の「揺らぎ」を、変化球のキレへと変換する技術。
「他にも、いくつか『武器』は用意してきました。……僕がこのチームの勝利の方程式になるために」
その言葉に、陽葵は息を呑んだ。
今の湊には、データですら完全には測りきれない「深淵」が宿っている。
「へえ、自信満々じゃねえか」
三塁側から、泥だらけの猿渡勇がノックバットを抱えて歩いてきた。
隣には、湊の女房役である佐伯誠二。
「湊、お前のフィールディング、だいぶマシになったな。……いや、マシどころか、打球への反応だけなら、うちのレギュラー内野手とタメ張れるレベルだ」
佐伯が珍しく素直に褒める。
実際、この一ヶ月の湊の練習は「投手」の枠を逸脱していた。
猿渡勇の峻烈なノック。
泥にまみれ、膝を擦りむき、それでも「あと一歩」を追い求めた結果。
湊の足元、赤星モデルの「レッドスター」は、すでに戦士の履物のように鋭い輝きを放っていた。
「『一理に達すれば、万法に通ず』。野村さんの教えです。投げることと守ること、走ることは、僕の中ではすべて繋がった」
湊の言葉に、佐伯がニヤリと笑う。
知力と狂気が、一つの肉体の中で結実しようとしていた。
「……で、あんた。いつからそこにいるわけ?」
鋭い声が、グラウンドの外から飛んだ。
マネージャーの浅倉仁衣菜が、腰に手を当ててフェンスの外を睨んでいる。
そこには、聖隷のユニフォームではない、女子野球の練習着に身を包んだ一人の少女が立っていた。
ショートカットに、意志の強そうな瞳。
織部翠。
湊の中学時代の同級生であり、今や女子野球界で注目を集める逸材だ。
「……湊」
翠の声が、夏の熱気の中で凛と響く。
湊が驚いて振り返る。
「翠? どうしてここに……」
「湊が背番号を手にしたって聞いたから。……見に来たの。湊の『火の玉』が、本物かどうか」
翠はフェンスを掴み、湊を真っ直ぐに見つめた。
中学時代、同じように「投手の理想像」に悩み、共に苦しんだ二人。
だが、今の湊から放たれるオーラは、翠の知るそれとは決定的に異なっていた。
「……あの頃より、いい目になったね。」
翠が少しだけ頬を染めて微笑む。
その瞬間、聖隷のグラウンドに「別の意味」での緊張が走った。
「ちょっと、湊くん。この方は……どちら様?」
陽葵が、笑顔のまま瞳の奥に「数学的殺気」を宿して湊に歩み寄る。
「湊、答えなさい。この女、誰」
仁衣菜は手に持っていたアイシング用の特大氷嚢を、メキメキと音を立てて握り潰している。
「あ、いや……中学の時の友達で……」
「『友達』? 湊、あんたそんな顔して友達に会ってたの?」
仁衣菜の吊り目が、さらに釣り上がる。
翠は翠で、湊を左右から包囲する二人の美女――冷静沈着なデータ分析官と、不機嫌そうな救護担当――を交互に見やり、面白そうに唇の端を上げた。
「へえ、湊。いい環境じゃない。でも残念ね。湊の『指先の感触』を一番知ってるのは、よく中学の頃、休み時間にキャッチボールしてた私よ」
「はあああぁぁぁ!?」
仁衣菜の絶叫がこだまする。
陽葵は静かに、高速で翠の「戦闘力」を計算し始めた。
「なるほど、先行研究(元カノ疑惑)ですか。興味深いデータですね。湊くん、今日の居残り練習は、私の徹底的な『ヒアリング』付きですよ?」
「……え、あの、陽葵さん? 仁衣菜? 翠?」
122キロの剛球で打者をねじ伏せるはずの男が、三人の少女の視線に射抜かれ、マウンドの上でかつてないピンチを迎えていた。
「……野村さん。こういう時、どうすればいいんですか……」
湊の心の叫びに、野村克也の名言は、まだ降りてこない。
グラウンドを赤く染める夕日。
青春の、そして決戦の熱が、最高潮に達しようとしていた。
「湊、覚悟して。明日の開会式、湊の投球、一球たりとも見逃さないから!」
翠の宣戦布告。
陽葵のデータ収集。
仁衣菜の献身。
三つの想いを背負い、背番号20は、明日、横浜スタジアムの土を踏む。




