第3話:2400rpmの咆哮
第3話:2400rpmの咆哮
「自分のセールスポイントは何か、その裏側にある欠点は何か。それを自覚しなければ、一流への道は歩けない」
かつて野村克也が説いたその真理を、一条湊は身をもって体感していた。
彼の最大の欠点は、122キロという「球速の壁」だ。そしてその裏側にあるセールスポイントこそが、異常なまでの「スピン量」と、それによって生み出される「錯覚」だった。
翌朝、聖隷高校野球部の部室。
マネージャーの結城陽葵は、一台のノートパソコンと向き合っていた。画面には、昨日撮影された湊の投球フォームと、測定器『ラプソード』が弾き出した無機質な数字の羅列が映し出されている。
「……信じられない。こんな数字、高校生どころかプロでも一握りよ」
陽葵の独り言に、隣でプロテインをシェイクしていた捕手の佐伯が顔を寄せた。
「数値が出たのか。湊の『火の玉』の正体が」
「ええ。見て、このストレートの回転数。2400rpm(回転/分)を超えてる。しかも回転軸がほぼ垂直……ジャイロ成分が極限まで削ぎ落とされた、純粋なバックスピン。これが150キロなら『藤川球児の再来』で済むけど、問題はこれが120キロそこそこで起きていることよ」
陽葵がマウスを操作し、弾道のシミュレーションを表示する。
通常の120キロのストレートは、重力に負けてわずかに沈む。だが、湊の球は強烈な浮力(マグヌス効果)によって、計算上の落下地点よりも数センチ上を通過する。
「打者の脳は120キロの球なら『ここを通る』と予測してバットを出す。でも実際にはボールが落ちてこない。だから、昨日みたいに主将のバットが空を切るのよ。……これ、物理学的に言えば『止まって見えるのに当たらない球』だわ」
「核爆弾を小出しにしてる、か。監督の言った通りだな」
佐伯が苦笑した。その時、部室の扉が開き、湊が入ってきた。
足元にはいつもの通り、真っ黒なレッドスター。そしてその足元からは、朝の自主練習でついた泥の匂いが漂っている。
「おはよう。……陽葵さん、僕のデータ、出ましたか?」
「……一条くん。あなた、自分の右腕がどれだけ異常か自覚してる?」
陽葵が画面を湊に向ける。湊は無機質な数値を、美術部時代に覚えた色彩の調和を分析するように静かに見つめた。
「……やっぱり、122キロですね。何度投げても、ここが限界だ」
湊の視線は回転数ではなく、最高球速の欄に固定されていた。
150キロを投げる身体能力を持ちながら、脳が強制的にシャットアウトする「呪い」。
それを「異常な才能」と呼ぶ陽葵に対し、湊は自嘲気味に口角を上げた。
「センスがない、っていうのは、こういうことなんです。普通なら、努力すれば球速は上がる。でも僕は、どれだけ体を鍛えても、150キロの腕の振りで120キロしか投げられない。……燃費が最悪のエンジンなんですよ」
「未熟者に、スランプはないんだっけか」
佐伯が湊の肩を叩く。
「湊、お前がその『欠点』を呪うなら、俺たちがそれを『武器』に変えてやる。……陽葵、あいつのパラシュートチェンジのデータも見せてやれ」
陽葵が別のファイルを展開する。
そこには、昨日佐伯が驚愕したあの魔球の軌道が記録されていた。
腕の振りはストレートと全く同じ。しかし、リリースされた瞬間に回転数は200rpm以下まで激減する。
「ストレートは2400回転、パラシュートチェンジは200回転。その差、12倍。同じフォームから放たれたら、打者の脳はバグを起こしてフリーズするわ」
湊はそのグラフを見つめながら、ふと自分の指先を見た。
人差し指と中指の指先だけが、連日の壁当てで岩のように硬くなっている。
中学時代、ゲームの数値を育てるように、自分の指先の感覚をミリ単位で研ぎ澄ませてきた。
ストレートの時は縫い目に指を食い込ませ、パラシュートの時は薬指と小指で優しく空気を逃がす。
「……これを、もっと自由に操れるようになりたい」
「なら、実戦で試すしかないわね。一条くん、今日の午後のシート打撃、監督があなたをマウンドへ上げるって言ってたわよ」
午後のグラウンド。
昨日の蔵敷との勝負を見ていた部員たちの視線は、昨日よりも鋭く、そしてどこか懐疑的だった。
「120キロなんて、タイミングを一度合わせりゃただの棒球だろ」
「昨日は蔵敷さんが油断しただけだ。次はそうはいかねえ」
そんな声を背に、湊は再びマウンドに立った。
相手は、俊足巧打の柳。湊が憧れたセンターの現レギュラーだ。
湊はセットポジションに入る。ピッチングプレートの右端に、右足を置く。
(クロスファイア……にはならないけど、右端から投げる角度が欲しい。この『122キロ』という限定された世界で、打者を惑わすための……レイヤーを重ねるんだ)
第1球。湊はリンスカムばりのダイナミックなフォームから、ストレートを投げ込んだ。
柳のバットが反応する。だが、昨日と同じ「加速する錯覚」に、柳はかろうじてファウルで逃げる。
「……重い。120キロの音じゃないぞ、今のは」
柳がバットを握り直す。
湊の第2球。全く同じ、腕がちぎれんばかりのフルスイング。
柳は「ストレートだ」と確信し、最短距離でバットを振り出した。
だが。
ボールは柳の手前で、ふわりと浮き上がったかと思うと、物理法則を無視したように「ブレーキ」がかかり、真下に沈んだ。
「ッ!?……しまっ……!」
柳のバットは空を切った。遅すぎる。あまりにも球が来ない。
パラシュートチェンジ。
捕手の佐伯が、低く構えたミットを動かさずにキャッチした。
「……ストライク!」
審判代わりの部員が声を上げる。
湊はマウンド上で、野村克也が愛した言葉を胸の中で反芻していた。
(弱者でも、方法論次第、考え方次第で強者を倒せる……。それが野球だ)
湊はさらに指先の意識を集中させる。
150キロを投げられない絶望から生まれた「正しい努力」の積み重ねが、マウンド上で形になっていく。
打席の柳は、額に汗を浮かべていた。
「……化け物かよ。腕の振りは新幹線なのに、来る球は自転車……いや、消える魔術だ」
その様子を、バックネット裏で見つめる影があった。
湊の父、一条健造だ。彼は息子の投球を黙って見つめていた。
かつて自分が「センスがない」と断じた息子が、自分には想像もつかなかった理論と執念で、エリート打者を翻弄している。
(……湊。お前、まだそんな『壁』に当たって、あがいてたのか)
健造の表情に、微かな驚きと、それ以上の複雑な色が混じる。
湊は父の視線に気づかない。ただ、目の前のバッターを「どう料理するか」だけを考えていた。
「自分の投げるボールに、明確な意思を伝えろ」
湊の放った3球目。
それは昨日よりもさらに回転軸を意識した、2400rpmの咆哮。
「火の玉」がキャッチャーミットを激しく鳴らし、柳の膝を折らせた。
マウンド上の湊の目には、かつて美術部で描いた、どんな絵画よりも鮮やかな勝利の色彩が見えていた。
(リミッターは外れない。でも、僕は……この限界の中で、最強になってみせる)
湊の右腕が、夕陽を浴びて鈍く光った。
それは、かつて肩を壊したあの日から、一歩一歩積み重ねてきた「プロの意地」の輝きだった。
「リミッター・ハイ」
それは、限界を超えられない者の、限界を超えた反撃の咆哮だ。




