第29話:念ずれば花開く
第29話:念ずれば花開く
グラウンドを包むのは、夕闇と、そして重い静寂だった。
紅白戦終了の合図が響いた後、選手たちは誰一人として声を上げない。
スコアボードに刻まれた「4-3」の数字。
九回裏、二死一三塁。一条湊が投じた渾身の「火の玉」が、エース豊田のバットに弾き返され、マウンドで膝を突いた湊の姿。
その光景が、全員の脳裏に焼き付いていた。
「……集合だ」
鬼塚監督の声が、湿り気を帯びた空気を切り裂く。
ホームベース付近に、泥にまみれた24名の部員たちが並んだ。
湊の隣では、相棒の佐伯が悔しさに奥歯を噛み締め、マネージャーの仁衣菜が震える手でアイシング用の氷嚢を握りしめている。
鬼塚は、結城陽葵から手渡された一冊のレポートに目を落とした。
それは、聖隷高校野球部が抱える「弱点」と「希望」を、陽葵が緻密なデータ解析で洗い出した魂の記録だ。
「いいか。今回の紅白戦、俺が見たのは単なる勝敗じゃない。お前たちの『覚悟』だ」
鬼塚の視線が、まずは三年生たちを射抜く。
「豊田。お前の厳しさがこのチームを研いだ。お前から発せられる言葉はどれも、誰よりもマウンドを聖域と考えている証だ。お前に、背番号1を託す。聖隷のエースとして、その矜持を見せろ」
「はいっ!」
豊田の太い声が響く。続いて黒田に2番、鉄壁の守備陣に次々と番号が配られていく。
だが、その輪の中に、未だ番号を呼ばれず、唇を噛む二年生たちがいた。
「鳴海。……評価は『うるさいからC』だそうだ」
鬼塚が陽葵のレポートを読み上げると、わずかに緊張が緩む。
「だがな、お前のその無根拠な自信が、追い詰められたチームの救いになることもある。背番号18。ベンチで誰よりも吠えろ。それがお前の戦いだ。」
そして。
最後に残った一枚の布を手に、鬼塚は湊の前に立った。
湊は、泥だらけの顔を上げられない。サヨナラ打を浴びた瞬間の、グラブを弾かれたあの重い衝撃が、まだ右手に残っている。
「一条湊」
名前を呼ばれ、湊の肩がびくりと跳ねた。
「お前は、この紅白戦で負けた。エースの壁に跳ね返され、泥の中に沈んだ。……だがな、一条。お前の120キロの球には、150キロの投手には一生かかっても手に入れられない『狂気』が宿っている」
鬼塚は、湊の泥だらけの手を、力強く握りしめた。
「『念ずれば花開く』。お前の10年間の狂気と葛藤、その孤独な反復が、ようやく一つの形になろうとしている。準備を怠る者はピンチを招く、お前は地獄のような準備を乗り越えてここに立っている。しかし、まだまだ足りないものだらけだ。……この夏、全て乗り越え聖隷の歴史を、お前のスピンで塗り替えてみせろ」
差し出された白い布。
そこには、太く「20」の数字が踊っていた。
「……あ、ありがとうございます……っ!」
湊の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
10年間。誰にも認められず、暗闇で壁に向かって投げ続けた日々。
「才能がない」と断じられ、そして一度肩を壊し、脳にリミッターという枷をはめられた少年が、ついに「野球部員」として、一人の「投手」として肯定された瞬間だった。
傍らで、仁衣菜が声を殺して泣いていた。
鬼塚は、手元に残った最後の一枚、背番号「20」を一条湊に渡した後、その視線をまだ背番号を受け取っていない選手たちへと向けた。
そこには、一年の氷室、杉浦、片山、そして猿渡駆の姿があった。
鬼塚は、彼らの前に一歩踏み出し、あえて全員の目を見るようにして深く息を吐いた。
「……そして、氷室、杉浦、片山、猿渡。お前たち4人だが…」
監督の苦渋に満ちた表情に、4人の身体が強張る。
「正直に言う。この20枠の中に、お前たちを入れられなかったことが、監督としてこれほど悔しく、申し訳ないと思ったことはない。お前たちは、今の聖隷にとって間違いなく必要な『武器』だ」
鬼塚は、まず左腕をぶら下げた氷室の前に立った。
「氷室。お前の真っ直ぐは、うちの財産だ。今回は一条を選んだが、お前が腐らずにその球を磨き続ければ、秋には間違いなく主役になれる。俺に『選ばなかったのは間違いだった』と後悔させるほどに化けてみせろ」
次に、唇を噛み締め悔しさを滲ませる杉浦と、巨体を小さくしている片山を見る。
「杉浦、お前の『眼』は本物だ。片山、お前のパワーは県内でも五本の指に入る。お前たち2人には、データ班と協力して、対戦相手の癖を抜く『分析の目』と、選手たちのトレーニングの管理を、結城と一緒に徹底してほしい。ベンチには入れなくても、お前たちの声と脳は、グラウンドで戦う9人と共にある」
最後に、泥だらけの猿渡駆へ視線を送った。
「駆。お前の足は、聖隷の戦術を根底から変える可能性を秘めている。兄の勇を追い越す準備を止めるな。……お前たち4人には、この夏、スタンドからの『最強のバックアップ』
を頼みたい。お前たちが外から試合をどう見るか。それが夏の勝敗を左右する」
鬼塚は、一人ひとりの肩を強く叩いた。
「『未熟者にスランプはない。失敗と書いて、せいちょう(成長)と読む』。野村さんの言葉だ。今の悔しさを、成長という名のガソリンに変えろ。お前たちがスタンドから送る声援と分析が、一条の『20』を、豊田の『1』を支えるんだ。いいか、全員で戦うぞ」
「……はいっ!!」
4人の咆哮が、夕闇のグラウンドに響き渡った。悔し涙を拭うその瞳には、すでに次の戦いを見据えた鋭い光が宿っている。
鬼塚は、陽葵が作ったレポートをぎゅっと握りしめた。
尖った才能を持つ24名。選ばれた20名と、その背中を支える4名。
「よし、解散! 夏の予選まで、あと一歩の努力を惜しむな!」
鬼塚の号令で、選手たちが動き出す。
背番号を手にした者たちが、次々と湊の肩を叩いていく。
「湊、アイシング始めるわよ。あんたの腕、ちゃんと労りなさい」
仁衣菜がいつものツンとした態度で、けれどこれまでで一番優しい手つきで湊の右腕を包み込む。
夜の帳が下りたグラウンド。
湊は、手の中の「20」をじっと見つめていた。
(野村さん。本当の強さは、どん底を見て、そこから這い上がってきた人間が持っているもの……そうですよね?)
リミッターはまだ、脳の奥深くで重く沈んでいる。
けれど、湊の心には、2400rpmの回転にも負けない、熱い「火」が静かに、そして激しく灯っていた。
泥の中で咲く花は、どこよりも強く、美しい。
聖隷高校野球部、背番号20。
一条湊の、本当の夏が、今ここから始まろうとしていた。




