第27話:微差は大差なり
第27話:微差は大差なり
グラウンドを包む夕闇が深まり、照明のない聖隷高校のバックネット裏に置かれたベンチは、もはや影の塊のようだった。
スコアボードに並ぶのは「3-3」の数字。
九回表。白組、最後の攻撃。
「九番、一条」
湊はヘルメットの紐を締め直した。
右打席に向かう足取りには、先ほどまでの激闘による疲労感と、それ以上の高揚感が混在していた。
マウンドには、聖隷の絶対的守護神、不動広人が静かに佇んでいる。
先ほど湊が三振に仕留めたばかりの男だ。だが、不動の纏う「白」のオーラには、動揺の欠片も見当たらない。むしろ、無機質な透明度は増し、マウンドを中心とした円盤状の絶対領域を形成している。
湊はバットを短く持ち、重心を低く構えた。
不動の投球動作は、一切の無駄を削ぎ落とした静寂の結晶だ。
シャッ!
視界に飛び込んできたのは、湊の「火の玉」とは正反対の、重厚な質量を伴った145キロの直球。
「ストライク!」
速い。だが、湊の脳はリミッターによって常に150キロ超の腕振りをシミュレートし続けている。眼が慣れている。
二球目。不動の指先が、ボールを上から叩き潰すように離れた。
落差のあるフォーク。ストライクゾーンから消える軌道に、湊のバットが止まる。
「ボール!」
(耐えた……。でも、次だ。不動さんの本質は、この沈黙の中にある)
三球目、不動の瞳に僅かな光が宿った。
放たれたのは、一球目よりも回転数を抑え、打者の手元で「お辞儀」をする重いストレート。
湊は、美術部時代に一本の線を引く時のように、全神経をミートポイントへ集中させた。
ガツッ!
感触は悪くない。だが、不動の球威が湊のスイングを上回り押し負ける。
打球は力なく一塁側のファウルゾーンへ転がる。
「……あ。……クソっ……」
湊は、一塁ベース付近に落ちた打球を、歯を食いしばって見つめた。
追い込まれた。四球目、不動は再びフォークを選択。
今度は低めの境界線から、さらにベース板を叩くほどの鋭い落下。
湊のバットは空を切り、三振に倒れた。
「アウト!」
一死。
湊は唇を噛みながらベンチへ戻る。通り過ぎる際、不動と目が合った。
不動は無言のまま、僅かに顎を引いた。それは、マウンドを守る者同士の、静かなる「返礼」のようだった。
「気にするな、湊。次は俺が道を作る」
打席に向かうのは、一番・猿渡駆。
猿渡のオーラは「赤」。それも、いつもの苛立ちを伴った色ではない。
獲物を狙う猟犬のような、純粋な加速の意志だ。
不動の初球、外角の直球を猿渡が迷わず叩く。
打球は三遊間を鋭く破り、左前安打。
「よっしゃあ! 行け、駆!」
ベンチの蔵敷が声を枯らす。
続く二番、杉浦光希。
「動体視力の怪物」は、不動のフォークを、まるで静止画をめくるように見極めた。
カウント2ボール、1ストライク。
「(不動さんの指……リリースの瞬間、フォークの時は中指がわずかに遅れる。……見える。これなら)」
杉浦は、最短距離でバットを振り抜いた。
芸術的な右打ち。一塁走者の猿渡は、打った瞬間にスタートを切っていた。
打球は一・二塁間を突破。猿渡は二塁を蹴り、一気に三塁へ。
一死一、三塁。
白組、絶好の勝ち越しチャンス。
打席には、この試合、精神的支柱としてチームを支えてきた三番・蔵敷徹。
「蔵敷さん、頼みます!」
ベンチで湊が祈るように叫ぶ。
だが、紅組の守備陣もまた、聖隷の誇りを背負っている。
捕手の黒田一が、一歩も動かない構えで不動をリードする。
「……蔵敷、お前のような熱血野郎は、その熱量を逃してやれば終わりだ」
不動の初球、内角を抉るスライダー。
蔵敷が強引に振り抜くも、詰まった打球は三塁正面へのゴロ。
三塁走者の猿渡は、本塁への突入を自重せざるを得ない。
ボテボテの打球に、蔵敷は必死のヘッドスライディングを見せるが、一塁で刺される。
「アウト!」
二死。走者は二、三塁へと進んだが、アウトカウントが重くのしかかる。
ここで迎えるは、四番・左翼手、鳴海聖。
「しゃあああ!! 不動さん、あんたを打てば俺がこの試合のヒーローっしょ!」
鳴海が叫びながら打席に入る。鳴海のオーラは「緑」。
普段はうるさいほど元気で自信満々だが、その本質は極めて神経質で繊細だ。湊の「器用貧乏」を誰よりも声高に蔑みながら、実は誰よりも「一打の価値」にその細い神経を震わせている。
「見てろよ一条! 本物の四番の仕事ってやつをな!」
鳴海はバットをこれでもかと小刻みに揺らし、不動を挑発するように睨みつける。
初球、不動の剛速球が唸りを上げる。
ドシュッ!!
「ぬわっ!? あぶねぇ!」
鳴海はインコース高めを抉る球に、叫びながらフルスイング。しかしバットは空を切る。
二球目、フォーク。鳴海は「うおおお!」と声を上げながら強引にバットを止め、僅かに外れるボールを見送った。
「湊くん……不動さんのフォーク、回転数が微妙に上がってる。……不動さんは、一条くんに触発されて、今この瞬間に『進化』してるわ」
ベンチで陽葵がタブレットを見つめ、声を震わせた。
湊は、マウンドの不動を「観察」した。
無色透明だったオーラに、ほんの僅かな「熱」が混じり始めている。
(『微差が大差になる』。……不動さんのこの僅かな変調が、チャンスになるのか、それとも僕たちを絶望させるのか……)
三球目。
鳴海が「ぶっ飛ばす!」と咆哮し、不動が始動する。
投じられたのは、この試合で一度も見せていなかった「縦のカーブ」だった。
「なっ……嘘だろ!?」
虚を突かれ、鳴海の饒舌な体が、無様に泳ぐ。
キィィィィィン!
打球はフラフラと二塁手の頭上を越え、右前に落ちるかと思われた――。
しかし。
「……甘い」
右翼手・桐生政長。
「聖隷の光」と呼ばれる男が、まるで打球の行方を知っていたかのように、猛然と前へ突っ込む。
滑り込みながら、グラブの先で白球を掬い上げた。
「アウト! チェンジ!!」
歓声と悲鳴が交錯する中、鳴海は「嘘だろぉぉぉ!」と叫び声を上げながら一塁ベース手前で膝をついた。
依然の同点のまま、九回表が終了した。
湊は、ベンチへ戻ってくる鳴海たちの泥だらけの背中を見つめた。鳴海は戻ってきてもなお「今の捕るかよ桐生さん! ヤバいって!」と騒いでいるが、その肩は激しく震えている。
湊は、自分の右腕に触れた。
「湊」
佐伯が、レガースを装着しながら隣に立った。
「ここは絶対に抑えないとな。」
「わかってる。九回裏。……打順は、九番からか…」
赤組の攻撃。
(九番・飛鳥さん、一番・山倉さん、二番・清田さん、三番・桐生さん……。
そして、四番にはエース・豊田さんが控えている。クリーンナップまで絶対に回したくない。早めに勝負を決めなければ…。)
湊は、帽子を深く被り直した。
「火の玉」に残された弾数は、もうそれほど多くはない。
だが、湊の視界には、夕闇を突き破るような鮮やかな色彩が、これまでにない解像度で浮かび上がっていた。
「……行こう。微差を、僕たちの勝利という『大差』に変えるために」
最終回裏、聖隷高校の歴史を塗り替えるための最後のマウンド。
一条湊の「リミッター・ハイ」が、極限の熱量を帯びて加速する。




