第26話:執念の赤、冷徹の青
第26話:執念の赤、冷徹の青
放たれた白球が、打者・椛島隆士の膝元で鋭くホップする。
122キロ。
それは数字だけを見れば、高校野球では「遅い」部類に入る。しかし、150キロを投じると錯覚させる腕の振りから放たれる2400回転の強烈なスピンは、空気の壁を切り裂き、重力を嘲笑うかのように浮き上がった。
「――っ!」
椛島のバットが、ボールの下を一閃する。空振り。
膝の故障を抱え、下半身の粘りがきかないはずの椛島が、その一球の威力にわずかに目を見開いた。
(……この感覚。これなんだ)
マウンド上の湊は、肩で激しく息をしながらも、次の一球を投じるために「レッドスター」の真っ黒なスパイクで土を噛む。
藤川球児に憧れ、学校から帰れば日没まで、週末は食事の時間以外すべてを壁当てに捧げた10年間。脳が『壊れる』と悲鳴を上げ、リミッターがどれだけ球速を抑え込もうとも、指先の感覚と前腕の筋肉だけは僕の意志を裏切らない。美術部のデッサンで感覚が研ぎ澄まされた指の腹が、ボールの縫い目を「掴む」のではなく「刻む」ように捉えていた。
「二球目、行くぞ湊!」
捕手・佐伯誠二のミットが、外角の境界線、そのわずか数ミリ外側にセットされる。
湊は再び150キロのフルスイングで腕を振った。
だが、放たれたのは打者の手元でブレーキが効き、ふわりと沈む「サークルチェンジ」だ。
椛島の体が、ほんの数センチだけ前に突っ込む。最強の打者ゆえの、本能的な「反応」が、湊の緩急の罠に嵌まった。
キィィィィィン!
片手一本で拾った打球が、バックネットへ高く舞い上がる。ファウル。
追い込んだ。
「……いい度胸だ、一条」
椛島がヘルメットを直し、土を払う。その瞳に宿るオーラは、不屈の「紫」。
「お前がその120キロを命懸けで投げているのは伝わる……だが、俺もこのバット1本に、野球人生のすべてを宿しているんだよ!」
三球目。佐伯が選んだのは、あえてのど真ん中、高めのストレートだった。
小細工はいらない。今の湊なら、この「壁」を正面から突き破れる。相棒の信頼が、ミットの構えから伝わってくる。
(限界を感じてから、本当の戦いが始まる――。椛島さん、あんたが教えてくれた『絶望』を、今ここで『成長』に書き換える!)
リリースの瞬間、湊の視界からすべての雑音が消えた。
黄金に輝く一筋の軌道。
ドォォォォォン!!
ミットが爆ぜるような音が、静まり返ったグラウンドに響き渡った。
椛島のフルスイングが、火の玉の残像を切り裂く。
「ストライク! バッターアウト!!」
一死。聖隷最強の強打者を、正面突破のストレートで仕留めた。
椛島は、一度だけ悔しそうに天を仰いだが、ベンチへ戻る際、すれ違いざまに小さく呟いた。
「……ナイスボールだ、湊」
その言葉は、湊の胸に深く刺さった。認められた。だが、浸っている時間はない。
続く七番、捕手、黒田一。
聖隷の「要塞」であり、湊の投球を「ピッチャーと認めない」と拒絶し続けてきた男が、冷徹な「青」のオーラを纏って打席に入る。
「……一条。お前の『122キロ』、もう飽きたぞ」
黒田の言葉は刃のように冷たかった。
初球。湊は全力のストレートを投げ込む。
だが、黒田のバットは迷いなく最短距離で出された。
ガツッ!
右翼方向への鋭いファウル。
「……150キロの腕の振り、か。確かにお前のリリース直前の『左肩の開き』……それが120キロのタイミングを教えてくれているぞ」
湊の心臓が、早鐘を打つ。
器用な者は、不器用な者が必死に隠している「綻び」を一瞬で見抜く。
一球投げるごとに、黒田という精密機械に「湊の投球」というプログラムが解析されていく恐怖。
二球目、三球目。湊は変化球を混ぜて対抗する。パラシュートチェンジ、サークルチェンジ。しかし黒田は、ピクリとも動かずにボールを見送った。
(全部見えているのか……。僕がいつ、どのタイミングで、どの球種を投げるのかを。……でも、だからこそ、思考に隙が生まれる)
四球目。
湊の美術部仕込みの観察眼が、黒田の「青」の奥に、ほんの一筋の「濁り」を捉えた。
それは、確信から来る「傲慢」の色だ。
「もう解析は終わった。次は必ずストレートで来る」という、黒田の知性が導き出した完璧な予測。
(『固定観念は罪、先入観は悪』――。黒田さん、その優秀すぎる頭脳が導きだした答えに、あえて乗ってやる!)
佐伯のサインは、内角高め。渾身のストレート。
湊は、リリース時にいつもより指先を強く押し込み、ボールの回転軸を垂直に近づけた。
122キロ。速度は変わらない。だが、今日一番の「浮き上がる」軌道。
シュッッ!!
黒田のバットが、ボールの僅か下で空を切った。
解析されたはずのタイミング。だが、想定したホップ量よりもさらに数センチ上を、白球が通過していく。
「ストライク! バッターアウト!!」
審判の声に、黒田は微動だにせず立ち尽くした。
解析能力という「最強の武器」が、湊の「執念の一押し」に、わずかに届かなかったのだ。
自らの解析能力を過信した「器用の傲慢」が、湊の「不器用の執念」に撃ち抜かれた瞬間だった。
二死。
マウンドに漂う空気は、もはや練習試合のそれではない。
次に打席に入ったのは、八番・投手、不動広人。
不動のオーラは「白」。無色透明。
どんなピンチでも揺るがない「大魔神」に対し、湊は「変化球を意識させる配球」から入り、最後は真っ向勝負を選んだ。
初球、パラシュートチェンジ。低めいっぱいに決まり。ストライク。
二球目、118キロのツーシーム。不動はこれを冷静に見送る。ボール。
三球目、外角低めに沈むサークルチェンジ。不動のバットが止まる。ストライク。
そして四球目。
湊の右腕は、熱を持って脈打っている。岩のようなマメが、皮膚を突き破らんばかりに自己主張する。
佐伯が力強く、拳を叩くようにミットを構えた。
ドシュッッ!!
これまでで最も鋭い破裂音が響く。
122キロ。
不動のバットが、火の玉の勢いに押し込まれるように空を切った。
「バッターアウト! チェンジ!!」
湊はマウンドで膝をつき、大きく肩を揺らした。
わずか九球とはいかなかったが、全てストレートによる三者連続三振。
ベンチに戻る際、陽葵が次の回のデータの準備をしながら微笑んだ。
「湊くん……完璧なデータ無視ね。今の三振、解析不能よ!」
仁衣菜は何も言わず、湊の状態を確認すると、新しいテーピングを丁寧に、慈しむように肩に貼り直した。その手が、微かに震えていた。
試合はついに、九回。スコアは3対3。同点のまま最終回へと突入する。




