第24話:下克上の軌道
第24話:下克上の軌道
グラウンドに、「シュッ!」という鋭い破裂音が戻ってきた。
無死満塁。打席には、聖隷の「光」を象徴する三番・桐生政長。
先ほどの初球、桐生のバットを通過した白球は、ベース直前で重力を拒絶し、上へと突き抜けた。その軌道の残像を、ベンチの誰もが凝視している。
(……この音だ。僕が10年間、独りきりの壁当てで聞き続けてきた、僕だけの心音)
湊は、レッドスターのスパイクでマウンドを強く蹴る。
視界には、桐生の纏う「青(技巧派)」のオーラが鮮明に浮かんでいた。桐生は驚きを微塵も見せず、ただ楽しそうに目を細めている。
「……一条、いい球だ。だが、その『火の玉』、俺の線で断ち切ってやるよ」
桐生がバットを最短距離で出す構えを見せる。湊は、相棒・佐伯と視線を交わした。
先程と同じ腕の振り。
だが、放たれた球は100キロにも満たない。
桐生は完璧に「火の玉」を待っていた。
しかし佐伯のミットが要求したのは、外角低め、地を這うようなサークルチェンジだった。
身体の軸が、わずかに浮き上がった球の幻影を追って浮き上がる。
「――っ!?」
空を斬る音。桐生の腰が砕ける。ボールはベース直前でふわりと失速し、佐伯のミットに吸い込まれた。
「ストライイク!!」
追い込んだ。美術部で培った観察眼が、桐生の足元に走る僅かな動揺を捉える。
三球目。
指先の岩のようなマメが、白球の縫い目に強烈な摩擦を与える。2400回転の衝撃が、桐生の静止した世界を破壊した。
ベース付近でホップするストレート。桐生のバットは、その「下」を空しく通過した。
「三振ッ!!」
無死満塁から一つ目のアウト。しかし、聖隷高校の本当の「壁」は、ここからだった。
「バッター、四番、豊田」
マウンドへ向かってくるオーラは、煮え立つような「赤(直感型)」と、重苦しい「黒」が混ざり合った異様な威圧感。
エース、豊田零司。
「俺の後にマウンドに立つな、汚れる」と湊を突き放した張本人だ。
豊田は無言で打席に入ると、湊を射抜くような鋭い視線を向けた。
(……怖い。でも、それ以上に……胸が熱い)
湊の指先が、悦びに震えていた。
初球。湊は「逃げ」を完全に捨てた。150キロの腕の振りから繰り出される、今日最高の122キロ。
ガツッ!
豊田が初球からフルスイングで応じる。凄まじい衝撃音が響き、ボールがバックネットを直撃した。
(最高のストレートだったのに…)
豊田は無表情だが、その瞳には戦慄の色が走っていた。
(何だ、この球は……。120キロそこらのはずなのに、手元で重力が消えたかのように跳ね上がる。…こんな軌道あってたまるか)
二球目。
直球と同じ軌道。
カッ!
三塁側へのファウル。
豊田が強引にバットの芯を合わせたが、佐伯が要求したのはツーシーム。手元でカミソリのように鋭く外角へ逃げていた。
追い込んだ。湊の額から流れる脂汗が、マウンドの土に落ちて黒い点を作る。
高揚感が湊の背中を叩く。
三球目。佐伯は一切の小細工を捨てた。ミットをど真ん中に据える。
だが、そのサインには「パラシュートチェンジ」の意図が含まれていた。
(豊田さんは、僕の『火の玉』を叩き潰すことしか考えていない。だから全てをぶつける!)
湊は、全力を超えた加速で腕を振った。豊田の動体視力が、湊の腕の振りに反応し、身体が自動的に「150キロ」のインパクトに合わせて起動する。
フワリ。
放たれた球は、山なりの軌道を描いた。
豊田のバットが、まだ球が空中にある間に、空しく一周した。
遅れて、球が佐伯のミットに収まる。
「……三振ッ!!」
「未熟なはずの男」が、聖隷のエースを、狂気と度胸で手玉に取った。
豊田は、バットを強く握りしめたまま、泥まみれの湊をじっと見つめ、静かにベンチへ引き上げた。
「……五番、熊田」
二死満塁。打席には、紅組の主砲・熊田剛志。
そのオーラは「黄(パワー型)」。一振りで戦局をひっくり返す破壊力。
湊の身体が重くなる。10年間の狂気的な積み重ねで培った持久力をもってしても、この緊張感の中での投球は、身体を削り取る。
(あと、一人……。)
初球、内角への「火の玉」。
熊田が吼えながら振るが、球のホップが勝り、空振り。
(……次は、サークルチェンジで目線を外して……最後は、もう一度『火の玉』だ!)
二球目、外角へ沈むサークルチェンジ。熊田は強引に合わせにいくが、タイミングが合わず、ボテボテのファウル。
三球目。湊の全神経が、右手の指先に集約される。
美術部の色彩世界が、モノクロから、目も眩むような黄金色へと塗り変わった。
シュッッ!!
本日、もっとも高く、もっとも鋭い破裂音。
カキィンッ!
熊田が意地で捉えた打球は、高く、高くレフトの空へと舞い上がった。
「……レフト! 鳴海さん!!」
湊はマウンドで天を仰いだ。
「っしゃーーー!来ーーい!!」
鳴海が落下点に入り、眼をギラつかせグラブを掲げる。
バシッ。
捕球音と共に、七回裏の猛攻は終了した。
無死満塁からの、無失点。
湊は膝から崩れ落ちそうになるのを堪え、泥だらけのレッドスターでマウンドを降りる。
バックネット裏で、氷室が金網から手を離し、小さく舌打ちをした。
ベンチに戻る湊の前に、一人の男が立ちはだかった。
黒田一。
「ピッチャーと認めない」と公言していた要塞が、湊の目を真正面から見据えた。
「……一条。今のイニングは合格だ。……だが、次の打席で俺が、お前の正体を完全に暴いてやる」
それは、最大の拒絶であり、初めての「対等な宣戦布告」だった。




