第23話:色彩の帰還
第23話:色彩の帰還
バックネット裏。金網に指を食い込ませ、獣のような目でマウンドを射抜く男がいた。
白組先発、氷室零。
145キロの「棒球」をレギュラー陣に滅多打ちにされ、マウンドを引きずり下ろされた男。湊の持つ「2400回転」という異能に激しい嫉妬を燃やし、誰よりもその指先を凝視し続けてきた男だ。
「……おい! 一条、佐伯!!」
氷室の怒号が、静まり返ったグラウンドに突き刺さる。
湊は、泥を拭ったばかりの顔を強張らせ、ネット裏を振り返った。
「お前たち、なぜ気付かないんだ!? 先輩たちのプレッシャーに押し潰されて、目が節穴になってるのかよ! 単純なことだろ!」
「氷室……何が言いたいんだ」
佐伯が眼鏡のブリッジを押し上げ、鋭く問い返す。氷室は金網を激しく揺らし、湊の右腕を指差した。
「一条! お前の身体、いつもより開いてんだよ! ステップした左足が外側に逃げて、腕の角度がいつもより寝てんだよ!」
「……え?」
湊の思考が一瞬、停止する。
「いいか、よく思い出せ。お前が三年のレギュラー陣と初めて合流して、ボコボコに打たれた時だ。あの時も今と同じ、腕が傾いてたんだよ!」
脳裏に、あの日の光景がフラッシュバックする。
底なし沼に飲み込まれるような感覚。
あの時、自分の腕はどうなっていた?
「――結城さん!」
佐伯の声に、ベンチ裏でハイスピードカメラの映像を解析していた結城陽葵が飛び出した。彼女はタブレットを片手に、狂ったように画面をスクロールさせる。
「今、確認するわ! ……三年生との初対戦データと、さっきの飛鳥さんへの一球……」
陽葵の指が止まる。その瞳が、驚愕に見開かれた。
「……本当だわ。湊くん、身体の開きが通常より早い。そのせいでリリースポイントが外側にズレて、腕の角度が斜めに傾いてる……!」
「角度が……傾いている?」
湊の問いに、陽葵が震える声でデータを読み上げる。
「いつもの凑くんの回転軸は、地面に対してほぼ水平……3度から5度。だから重力に逆らって浮き上がる。でも、今は……軸が『20度』も傾いてる! これじゃジャイロ成分が混ざって、ただの『シュート回転する遅い球』にしかならない!」
衝撃が、湊の全身を駆け巡った。
122キロの火の玉を支えていたのは、精密な「回転軸」だった。それが、無意識の恐怖――三年生という巨大な壁に対する防衛本能によって、コンマ数秒早く身体を開かせていた。
湊は、泥の付いた右手を凝視した。
自分では完璧に腕を振っているつもりだった。だが、心のリミッターが、無意識に「当てられたくない」と身体を逃がしていたのだ。
「……氷室!本当にありがとう!」
湊の呟きに、ネット裏の氷室はフンと鼻を鳴らした。
「勘違いするなよ。俺は、お前が無様に打たれるのが我慢ならないだけだ。やるなら、お前の最高の球で負けやがれ!」
「……負けるつもりはないよ」
湊の瞳に、再び強烈な「色彩」が宿る。
無死満塁。絶体絶命のピンチ。
打席には三番、右翼手の桐生政長。聖隷の「太陽」と呼ばれる、隙のない天才。
「湊。修正できるか?」
佐伯がミットを叩き、湊の胸元へ詰め寄る。
「……やるしかない。左足の踏み込み、あと一足分だけインコースへ。身体の壁を作って、真上から……耳をこするぐらいの角度で、叩きつける!いつも通りだ!」
「よし。来い。お前の『本物』を見せつけてやれ」
内野陣がそれぞれのポジションへ散る。
マウンドに残されたのは、一人の不器用な投手と、彼を信じる相棒。
湊はセットポジションに入り、深く帽子を被り直した。ユニフォームの泥は、もはや勲章にさえ見えた。
(……これが、僕が10年かけて壁と対話して手に入れた……聖隷の武器だ)
湊が振りかぶる。
逃げようとする心を、野村克也の言葉で叩き伏せる。
『覚悟にまさる決断なし。』
踏み出した左足が、グラウンドの土を深く抉った。身体は開かない。極限まで溜めたパワーを、垂直に振り下ろされる右腕へと伝える。
シュッッ!!
これまで以上の破裂音が響く。
放たれた白球は、打者・桐生の目元へ向かって一直線に突き進み――ベースの手前で、物理法則をあざ笑うかのように、グワリと上方へ跳ね上がった。
「――っ!?」
天才・桐生のバットが、空を斬る。
ミットが、乾いた爆音を奏でた。
「ストライイク!!」
紅組ベンチが、静まり返る。
黒田一が、立ち上がらんばかりの勢いでマウンドを凝視した。
そこには、泥まみれの顔で、獣のような咆哮を上げる一条湊の姿があった。
「……戻ってきたな。火の玉が」
佐伯が不敵に笑い、ボールを突き返した。




