第21話:泥まみれの宣戦布告
第21話:泥まみれの宣戦布告
六回裏の守備を終え、鳴海が咆哮しながらベンチへ戻ってきたその時だった。
鬼塚監督が、手元のメンバー表に太いサインペンで修正を加えながら、鋭い声を張り上げた。
「――守備変更だ! 三番・一塁の片山に代えて、蔵敷。蔵敷がファーストに入る。そして四番、鳴海。お前はそのままレフトの守備に就け。これで三番・蔵敷、四番・鳴海だ」
ベンチに活気が走る。片山はそのパワーこそ魅力だが、今の緊迫した展開では蔵敷の経験と気合、そして鳴海の「熱」をグラウンドに停滞させることが最優先だと監督は判断したのだ。
「しゃあ! 任せとけ、監督! 俺がこの試合、ひっくり返してやる!」
蔵敷が大木のような腕を叩き、鳴海が不敵に笑う。その狂乱の輪から少し離れた場所で、鬼塚は湊を指差した。
「九番、一条。……次は、お前の打席だ。」
湊は短く「はい」と答え、ヘルメットの紐を締めた。
七回表。聖隷高校グラウンドに、夕刻の長い影が伸び始める。
スコアは2対3。白組は1点を追う展開。
マウンドには、紅組の三番手としてマウンドに上がった「大魔神」不動広人が、岩のような無表情で立っていた。
「九番、ピッチャー、一条」
湊は静かに闘志を燃やし、左打席に向かう。
利き目の右目でしっかりと不動を捉える。不動の纏うオーラは、不気味なほど安定した「青(技巧派)」と「緑(神経質)」の混ざり合った色だ。
(……不動さんは、無駄な球を投げない。そして得意な外角低めのフォークを振らせたいなら……。初球。最も自信のあるストライクを取りに来る『真っ直ぐ』を狙う)
不動が振りかぶる。
初球。内角高め、力強い直球が唸りを上げた。湊はバットを最短距離で出す。ミート重視、腰を回しきらずに「当てる」ことだけに集中した。
――ボテッ。
鈍い音とともに、ボールは三塁線へと転がる。
湊は、走り出した。10年間、壁当てと一緒に日課にしてきた走り込みで鍛え続けた脚力が爆発する。
「サード、熊田! 前だ!」
黒田の声が響く。三塁手の熊田が猛然とチャージし、素手でボールを掴んで一塁へ送球する。
だが、湊の「レッドスター」が僅かに早くベースを駆け抜けた。
「セーフ!」
「やっぱり……足だけはあるな」
一塁ベース上で呼吸を整える湊に、一塁手の椛島が小さく笑いかけた。
続く一番・猿渡駆。不動のフォークに翻弄され、三球三振。
二番・杉浦光希。動体視力の怪物は、不動のフォークの「落ち際」を完璧に見極め、四球を選んで出塁。
一死一、二塁。一打同点のチャンス。
ここで白組の三番、一塁手に入った蔵敷徹。しかし、気合十分で振り抜いたスイングは、不動のフォークの「深淵」に空を切り、三振に倒れる。
二死一、二塁。バッターボックスには四番、鳴海聖。
「おらぁぁ! 一条、リードしてろよ! 俺が決めてやる!」
鳴海は、不動の無表情を力でこじ開けようとしていた。
カウント1ボール2ストライク。不動が投じた勝負のフォークが、僅かに真ん中へ浮く。鳴海が、バットを力任せに振り抜いた。
――パコォォン!
打球は鋭いライナーとなってセンター前へ。
「一条、行け! 回れ!」
三塁コーチャーの声を聞く前に、湊は加速していた。センターの飛鳥が猛然とチャージし、バックホームの体制に入る。
(……間に合わせる。この一点を絶対奪う!)
湊は、本塁への突入を決断した。
飛鳥からのレーザービームが、黒田のミットへ一直線に突き刺さるのと、湊がヘッドスライディングを仕掛けたのは、ほぼ同時だった。
「――っらあ!!」
土煙が舞う。
湊は、黒田の太い足の間を縫うように、右手をベースにねじ込んだ。
「セーフ!!」
3対3。ついに白組が同点に追いついた。地を這うような泥まみれの同点劇に、白組ベンチが沸き上がる。
湊は、ホームベース上で俯いたまま、ゆっくりと立ち上がった。
ユニフォームは泥で真っ黒になり、顔の半分以上がグラウンドの土で覆われている。鼻先からも土が滴り、目は充血していた。
目の前には、要塞のような黒田一が、ミットを叩きながら湊を見下ろしている。
「……黒田さん」
湊は、土だらけの顔を上げ、黒田を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、臆病な少年の影はない。マウンドという「領土」を奪い取ろうとする、獣の覚悟が宿っていた。
「……七回裏から、僕が投げます。……黒田さんに僕を、聖隷のピッチャーだと……認めさせてみせます」
静かな、だが逃げ場のない宣戦布告。
黒田は、一条湊のそのあまりに真剣な、そしてあまりに「不格好」な姿をじっと見つめていた。
土にまみれた顔。鼻の穴に土が詰まり、顎から泥が滴っているその顔で、大真面目に「認めさせる」と言い放つ後輩。
「……プッ……。ククッ……ハハハハハ! どうすれば鼻に土が入るんだよ!」
鉄面皮で知られる黒田が、ついに堪えきれずに吹き出した。
「お前……顔、酷いぞ。鏡見てこい」
「……え?」
「いいだろう。……そこまで言うなら、今からハンデを無くそう」
「…?ハンデ?」
黒田は、湊の泥だらけの頭をポンと叩くと、自軍のベンチへと歩き出した。
その背中に、確かな「期待」という熱を感じながら、湊は震える手でユニフォームの土を払った。
『人間は、恥ずかしさという思いに比例して進歩するものだ。』
野村の言葉が、湊の脳裏に深く刻まれる。恥をかき、泥を啜った分だけ、今、マウンドへと続く道は輝いて見えた。
「……湊くん! 顔、洗ってきなよ!」
仁衣菜が呆れた顔で駆け寄ってくる。その背後で、結城陽葵がハイスピードカメラのデータを握りしめ、力強く頷いた。
七回裏。
いよいよ、一条湊がマウンドに上がる。
対するは、聖隷の「青」の極致、一番・山倉大智。
122キロの火の玉が、ついに解き放たれようとしていた。




