第2話:センスという名の怪物
第2話:センスという名の怪物
「プロとは、積み重ねを大切にすること、意識することこそ、プロとしての基本理念である」
野村克也が残したその言葉を、一条湊はマウンドを降りる一歩一歩に刻んでいた。
主将の蔵敷を三振に仕留めた衝撃は、聖隷高校野球部を支配する空気を一変させていた。だが、湊自身の心に満足感はない。あるのは、右肩の奥で軋む「錠」の感覚と、拭いきれない過去の残像だけだ。
「……湊、ナイスボール。期待通り、いや、期待以上だ」
ベンチに戻る湊を、捕手の佐伯が迎えた。小柄な身体に似合わない太い声。メガネの奥の瞳は、親友の快挙に歓喜しつつも、その危うさを冷静に観察している。
「ありがとう、佐伯。でも、今のじゃまだ足りない」
「分かってるよ。お前の脳が勝手にブレーキをかける『122キロの壁』……。身体は150キロを出そうとしてるのに、エンジンだけが空回りしてる状態だ。お前のフォームは、自分を壊しかねないほどダイナミックだからな」
湊は黙って、膝下まで出したストッキングを整えた。
自分にはセンスがない。
その「事実」を突きつけられたのは、10歳のあの日だった。
回想――。
庭で父・健造とキャッチボールをしていた。
父はかつて社会人野球で名を馳せた名選手であり、湊にとっての野球そのものだった。
だが、湊は幼い頃から、全力の出し方がわからなかった。100の力を持っている自覚はあるのに、50以上の力を出そうとすると、身体が恐怖で固まってしまう。
「湊、もっと腕を振れ! センスってのは、身体を爆発させる勇気のことだぞ」
「……やってるよ、父さん。でも、なんだか怖いんだ」
「怖い? 自分の身体が信じられないのか? ……ハハッ、冗談だよ。お前は俺よりセンスがないな。上手くはなれないかもしれないが、まあ、楽しくやれればいいさ」
父は笑っていた。悪気など微塵もない、ただの「感想」として放たれた言葉。
だが、それは湊の心に、消えない焼印を押した。
その後、湊は狂ったように壁当てに没頭した。
父を見返したい。センスがないなら、量で凌駕する。
スピードを上げるため、硬球に水を染み込ませ、重くして投げ続けた。幼い関節が悲鳴を上げているのも無視して。
結果、待っていたのは「肩の破壊」だった。
激痛と共に崩れ落ちた湊の脳に、その時、最強の「防衛本能」が刻まれた。
『投球動作において、フルパワーを出すな。さもなくば死ぬ』
肩が完治した後も、投球に関する出力だけは、脳が強制的にシャットアウトするようになった。
「おい、一条! ちょっと来い」
鬼塚監督の鋭い声が、湊を現実へと引き戻した。
湊は一礼して、監督の前に立った。鬼塚はかつてプロのスカウトだった男だ。その眼光は、選手の骨の髄まで見透かすと言われている。
「さっきのホップ、意図してやったのか?」
「はい。回転軸を垂直に近づけ、手首のしなりを最後まで残しました。球速は出せませんが、回転数なら勝負できると計算しています」
「計算、か。お前、美術部で何をしていた?」
「……絵を描いていました。色彩のレイヤーを重ねるように、一球ごとに『意味』を重ねる方法を考えていました」
鬼塚はニヤリと笑った。
「面白い。だがな、一条。投手にはフィールディングという仕事もある。お前、セカンドに回れ」
「えっ、ピッチャーじゃないんですか?」
「今のままじゃマウンドには置けん。牽制もカバーリングも素人以下だ。肩が弱くても脚はある。二塁で動きを覚えろ。お前のバックホームの『スピン』、マウンドじゃなく内野からならリミッターがかからんかもしれんからな」
湊は戸惑いながらも、セカンドの守備位置に就いた。
守備などやったことがない。案の定、フィールディングはボロボロだった。
正面のゴロをトンネルし、ダブルプレーのトスを暴投する。周囲の部員たちから失笑が漏れる。
「なんだよ、投げるだけか?」
「腕の振りは新幹線なのに、守備はリヤカーだな」
野次が飛ぶ。
だが、湊は諦めなかった。
セカンドからバックホームへの返球。その時だけは、不思議と肩の錠が少しだけ緩む気がした。
湊が放った送球は、低い弾道から地面を這うように伸び、ノーバウンドでキャッチャーのミットに突き刺さった。
「……今の、見たか?」
控えの氷室が呟く。
「球速は120キロそこそこだろうが、失速してない。まるでボールがリニアみたいに磁力を使ってるみたいだ」
夕暮れ時。練習が一段落した頃、湊は一人でグラウンドの隅にいた。
手元には、ボロボロになるまで読み込んだ一冊の本。ダルビッシュ有の『変化球バイブル』。
そして、中学時代の自分を支えた、野球ゲームの育成データが詰まったノート。
(ゲームのデータは、育てれば必ず強くなる。僕の身体だって、同じはずだ。脳がリミッターをかけるなら、その『枠』の中で、世界一複雑な回路を作ればいい)
湊は、長く繊細な指先でボールを弄ぶ。
人差し指と中指の幅、親指の位置。ミリ単位の調整で、ボールの回転軸は姿を変える。
憧れの藤川球児は「火の玉」一本でも勝負できた。
だが、自分にはそれができない。なら、その対極へ行く。
「湊、まだやるのか?」
陽が落ち始めた頃、佐伯がブルペンに現れた。
「一本、受けてくれないか。試したい球があるんだ」
「いいよ。お前の『狂気』に付き合うのは慣れてるから」
湊はマウンドに立ち、ティム・リンスカム譲りのダイナミックなフォームを始動させた。
左足を高く上げ、身体を捻じ切るようにして腕を振る。
だが、リリースのとき、湊は薬指と小指でボールを「抜いた」。
サークルチェンジのような握り。だが極限までスピンが殺され真上にリリースされた。
放たれた球は、ストレートと同じ腕の振りでありながら、途中で空気に押し潰されたように急減速した。
イーファスピッチのように山なりの軌道を描き、打者の手元で「止まる」ような錯覚を与える。
――パラシュートチェンジ。
「……うわっ!?」
佐伯が悲鳴を上げ、ミットを突き出した。
ボールは佐伯の想像よりも遥か上に放たれベース付近で急落下しミットに収まった。
「……消えた。陽が落ちて暗くなったせいもあるけどボールがミットに収まるまで見失ってたよ」
「これなら、120キロのストレートを150キロに見せられるかもしれない」
湊は自分の指先を見つめた。
身体の底に眠る、出せないはずの150キロのエネルギー。
それが、120キロの球速に「変化」と「回転」として圧縮され、爆発を待っている。
遠くの校舎の屋上で、鬼塚監督がその様子を見ていた。
傍らには、マネージャーの結城陽葵がハイスピードカメラを抱えて立っている。
「監督。あの一条くんの球……データが異常です。120キロのエネルギー量じゃない。彼、自分の中に『核爆弾』を抱えたまま、それを小出しにしているような……」
「ああ。あいつは自分の『欠点』を、誰よりも理解している」
鬼塚は、ポケットから使い古されたメモ帳を取り出した。
そこには、野村克也の言葉が記されている。
「 自分のセールスポイントは何か、その裏側にある欠点は何か。それを自覚しなければ、一流への道は歩けない」
「一条湊は、自分が『センスのない弱者』だと自覚している。だからこそ、最強になれる可能性があるんだ」
聖隷高校のグラウンドに、夜の帳が降りる。
湊は真っ黒なレッドスターの紐を締め直した。
明日からは、フィールディングの猛練習だ。恥をかき、泥にまみれ、笑われる。
だが、その恥ずかしさに比例して、自分は進歩する。
(見ていてよ、父さん。僕の野球は、ここからなんだ)
120キロの火の玉が、暗闇の中で静かに、しかし熱く燃えていた。




