第18話:深淵のカーブ
第18話:深淵のカーブ
五回表、白組の攻撃。
マウンドに立つ二番手左腕・筧翼の周囲には、吸い込まれるような「濃紺」の静寂が広がっていた。
それは、先ほどまで鳴海が撒き散らしていた爆音の余熱を、一瞬で凍りつかせるような冷徹な色だ。
先頭打者は八番、捕手の佐伯誠二。
眼鏡の奥の瞳を凝らし、筧のリリースポイントに焦点を合わせる。
「(……っしゃ、佐伯! ぶちかませぇ……っ!)」
ベンチの隅で、膝を抱えた鳴海が、血管を浮き上がらせながら掠れた小声で念を送る。その姿は、大型犬が吠えるのを必死に堪えているようで、仁衣菜と陽葵の口元を微かに緩ませていた。
筧が静かに右足を上げる。
フォームに淀みはない。しなやかで「ボールが指先に最後までかかっている」リリースの美しさ。
放たれた一球目は、空を割るような軌道を描き、打者の目線より遥か上から急激に重力を思い出した。
(――浮いた!?)
佐伯の視界から、白球が一瞬消える。
ど真ん中から、ワンバウンドしそうなほど低めへ。垂直に近い角度で自由落下する「ドロップカーブ」。
佐伯は必死にバットを止めたが、判定はストライク。
(……理屈じゃないな、これは。弄ばれている感覚だ)
二球目。筧の腕が先ほどより僅かに鋭く振られる。
佐伯はカーブを警戒し、重心を沈めた。だが、飛んできたのは135キロの直球。カーブの残像が脳裏にある佐伯には、それが150キロを超えているように錯覚した。
詰まった。
佐伯の「青(理論型)」の予測が、緩急という暴力に粉砕される。
三球目、再び落差の大きいカーブを引っかけ、力ない投ゴロに倒れた。一死。
「(……あぁっ、クソぉ……惜しいぞ佐伯……っ!)」
ネクストバッターズサークルでブンブンバットを振りながら、小声で悶絶する。
九番・鳴海が闘志剥き出しで打席に入る。
「(……っしゃあああ! 俺の番だぁぁ!!)」
打席に入った瞬間、鬼塚監督の「静かにしろ」という厳命は、鳴海の沸騰した脳内から綺麗さっぱり消し飛んでいた。
バットを猛烈な勢いで振り回し、捕手の黒田を威嚇するように鼻息を荒くする。
「おらぁぁ! 筧さん、本気で来いよぉ!!」
静寂を切り裂く絶叫がグラウンドに帰ってきた。
ベンチでは、鬼塚監督が深いため息をつき、指の間からマウンドを見るようにして片手で顔を覆っている。
「……あいつ、3歩歩いたら忘れるのか?」
呆れ果てた監督の横で、仁衣菜と陽葵は肩を震わせていた。
「ふふっ、1分も持たなかったね……。でも、あれが鳴海くんだよ」
「本当、単純……。」
マウンド上の筧は、そんな喧騒をどこ吹く風と受け流し、静かに第一球を投じた。
外角、逃げるようなスライダー。
「どらぁぁぁ!!」
鳴海は体がちぎれんばかりのフルスイングを見せる。
――ガギィィィン!!
凄まじい打球音が響くが、打球はバックネットを直撃する特大のファウル。
「っしゃあ! タイミングは合ってるぞオラァ!!」
一球ごとに吠え、マウンドの筧を指差す。
だが、その直後、鳴海はふとベンチからの「冷気」を察知した。鬼塚監督の、氷のような眼光が自分を貫いていることに気づいたのだ。
(やべっ、怒られる……!)
鳴海は急にしおらしくなり、口を一文字に結んで、今度は小刻みに体を震わせながら構え直した。気合を入れ直すというより、叫びたい衝動を筋肉の震えで相殺しているようにも見える。
二球目。
筧は、あえてストライクゾーンの真ん中に緩いカーブを放り込んだ。
打たせて取る。深淵の誘い。
「ぬぉぉぉりゃあぁぁ!!」
我慢が限界に達した鳴海のバットが、荒々しく空を切る――かに見えた。
しかし、そのスイングには、理論を凌駕する「勢い」があった。
芯を外され、形は崩れながらも、丸太のような腕力だけで白球をライト前へと叩き落とす。
「(……よっしゃあぁぁ!!)」
一塁ベースに駆け込み、鳴海は叫びたい口を必死に手で押さえながら、顔を真っ赤にしてガッツポーズを作った。その必死すぎる「無言の歓喜」に、紅組の野手陣からも失笑と失笑が混じった声が漏れる。
一死一塁。一番・猿渡駆が打席へ。
駆の足は「暴力」だ。一度転がせばセーフになる。
筧はセットポジションから、一塁の鳴海をチラリとも見ない。その無視が、逆に走者を金縛りにあわせる。
初球。
駆はセーフティバントを試みるが、筧のカーブはバットの上を嘲笑うように通過した。
二球目、三球目。
筧は一切、同じ軌道のカーブを投げない。ブレーキの効いたスローカーブ、手元で滑るスラッターに近いカーブ。
「七色のカーブ」という異名は伊達ではなかった。
(……速い。いや、遅すぎるのか!?)
駆の「赤(直感型)」が狂わされる。最後は内角の真っ直ぐに手が出ず、見逃し三振。
二死一塁。
打席には二番、杉浦光希。
「動体視力の怪物」が、筧の深い「濃紺」のオーラをじっと見つめる。
杉浦にとって、筧のカーブは他者よりはっきりと「見えている」。
(一回転、二回転……。さっきのとは、縫い目の向きが違う)
杉浦は、筧が投じた二種類目のカーブ――回転軸が僅かに傾いた、逃げていく軌道の球を完全に見切った。
バットを最短距離で出し、三遊間を鮮やかに破るレフト前ヒット。
「(……光希ぃ! 最高だぞ光希ぃ……!!)」
二死一、二塁。チャンスが拡大する。
マウンドの筧は、ヒットを二本浴びても顔色一つ変えない。
むしろ、獲物を深淵に誘い込むような、不敵な笑みを浮かべ、ギアを上げる。
三番・片山鉄男。
ベンチプレス200キロの「黄(パワー型)」が、鼻息荒く打席に入る。
(一発だ。一発で、全部ひっくり返してやる……!)
片山の思考は極めて単純だった。
筧は、その単純さを嘲笑うかのように、一球目から「消える魔球」を投じた。
天高く舞い上がった白球が、片山の頭上から降ってくるような錯覚。
スカッ。
フルスイングの衝撃波が砂煙を上げる。
二球目、さらに緩いカーブ。片山は体勢を崩しながらも強引に振りに行くが、空振り。
湊は筧の投球を食い入るように見つめていた。
筧は、片山の「剛」を、徹底した「柔」でいなしている。
三球目。
筧が選択したのは、この日最も腕を振った、外角低めへのストレートだった。
カーブを意識させられ、腰が引けていた片山のバットは、完全に空を切った。
三振。チェンジ。
「……あぁぁぁ……っ!!」
鳴海が二塁ベース付近で、ついに我慢の限界を迎えたように膝を突き、無声の叫びを天に捧げた。




