第16話:言霊のアーチ
第16話:言霊のアーチ
四回表。マウンドの風間誠が放つ「静寂」の包囲網に、白組の打線が再び挑む。
先頭打者は三番、一塁手の片山鉄男。ベンチプレス200キロの怪力を誇る男が、地響きを立てるような足取りで打席に入る。
(……一発だ。一発で、この嫌な空気を叩き潰す)
片山の思考は極めて単純だった。打者分類における「黄(パワー型)」。その純粋な破壊衝動に対し、風間は無機質な視線を向ける。
一球目。内角を抉るシュート。片山の巨体が僅かにのけぞる。
二球目。外角低め、糸を引くような138キロの直球。
風間のリリースには、やはり「色」がない。打者が踏み込むためのきっかけを、その無音の動作が奪い去る。
三球目。逃げていくスライダーに片山のバットが空を切った。
「――っらあ!」
吠えながら振り抜いたスイングは、風間の術理にコンマ数秒、正確に遅らされていた。どん詰まりの三塁ゴロ。
一死。
風間の「無色透明」なピッチングは、依然として白組の主砲たちを無力化し続けていた。
次打者の四番・蔵敷徹。
「念ずれば花開く」――。その言葉を部室に貼った張本人が、泥だらけのユニフォームで打席に立つ。
(風間、お前の投球は確かに凄い。だがな、理屈だけで野球ができると思うなよ!)
蔵敷は、風間の「無音」を自らの「咆哮」で上書きするように、打席で激しく足場を固める。
初球、空振り。二球目、ファウル。三球目、外角の際どい球を見送る。
風間が眉一つ動かさず、境界線の一ミリ外側に「撒き餌」を置くが、蔵敷は食らいついた。
四球、五球、六球。
すべてファウル。
蔵敷の泥臭い執念が、風間の精密なプログラムに微かな「熱」を帯びさせていく。
(……しつこいな。なら、これで終わりだ)
七球目。風間が「完璧な正解」として選択した、内閣低めへのフォークボール。
だが、その一球。
粘りに粘った蔵敷の「気」が、風間の指先に僅かな狂いを生じさせたのか。
白球が、意図したよりも僅かに、指一本分だけ高く浮いた。
――ガギィィィン!!
乾いた破裂音がグラウンドに響き渡る。
蔵敷のフルスイングが、風間の「無」を力で捻じ伏せた。
打球は高々と舞い上がり、美しい放物線を描いてレフトフェンスを越えていく。
「しゃあぁぁぁ!!」
ダイヤモンドを一周する蔵敷の咆哮が、沈滞していた白組ベンチを爆発させた。
3対2。
点差は1点。そして、それ以上の「何か」が、今この瞬間に動いた。
(……色彩が、戻ってきた)
湊はベンチの最前列で息を呑む。
風間の周囲を包んでいた無機質なグレーが剥がれ落ち、蔵敷の情熱が撒き散らした鮮やかな「赤」がグラウンドを浸食していく。
「不器用な人間は、器用な人間が気づかない細部に命を宿す」。
蔵敷の泥臭い粘りが、精密機械の歯車を一瞬だけ狂わせたのだ。
風間は帽子を深く被り直し、一度だけ大きく息を吐いた。
その目は、まだ死んでいない。
五番・柳楽人に対し、風間は再び「静寂」を取り戻すべく腕を振る。
柳もまた、蔵敷の作った流れに乗ろうと食らいつくが、立て直した風間のスライダーの前に中飛に倒れた。二死。
だが、白組の攻勢は止まらない。
六番・猿渡勇。湊の守備の師匠であり、地味な反復練習を愛する職人が、風間の「無音のリリース」をじっと見据える。
(……指先だ。指先が離れる瞬間だけ、僅かに空気が震える)
職人の眼が、魔術の種を見抜く。
勇は初球、風間のシュートを逆らわずに右方向へ流し打った。
山倉の横を抜けるライト前ヒット。二死一塁。
続く七番・乾慎太郎。
「粘りの極致」を信条とする乾に対し、風間はこれ以上の失点を拒むように、この日最速の142キロをインコースに突き刺した。
乾、見逃し三振。
さらに追加点こそならなかったが、白組は確実に「王者」の喉元に手をかけていた。
「……よし、行くぞ。鳴海、準備はいいな」
鬼塚監督の鋭い声が飛ぶ。
白組のマウンドに向かうのは、武闘派・鳴海聖。
「風間。お上品なピッチングじゃ、こいつらの熱は抑えきれなかったな。」
鳴海はそのまま、マウンドへと駆け上がっていく。
白組ベンチには、先ほどまでの絶望感はない。
「勝てる」――。
根拠のない予感が、確信へと変わりつつあった。
湊は、その盛り上がるベンチの熱狂の端で、静かに右手の感覚を確かめていた。
喧騒が、熱気が、白組ベンチを完全に支配していた。
蔵敷の放った一撃は、単なる2点差への追撃ではない。無敵の術理を誇る風間の「静寂」を、白組の誰もが「理屈の外側」で破壊できると証明してしまったのだ。
その熱狂の渦中で、湊だけが冷たい汗を感じていた。
右手の指先。岩のように硬いマメが、泥にまみれたグラブの中で脈打っている。
(勝てる……? 本当に……?)
これまでの自分なら、まず抱くことのない傲慢な予感。だが、それが現実味を帯びるほどに、心臓の鼓動は早まり、喉の奥がカラカラに乾いていく。
「無視、賞賛、非難」。
野村克也の言葉が、湊の脳裏をよぎる。中学時代、誰からも期待されず、美術部の隅で石膏像を見つめていた自分。もし、ここで本当に逆転の筋書きが用意されているのだとしたら、その幕引きを演じるのは、自分という「異能の不器用」なのだろうか。
耐えきれず、湊はベンチのパイプ椅子に腰掛ける鬼塚監督のもとへ歩み寄った。
「……監督」
「なんだ、一条。鳴海の気迫に気圧されたか?」
鬼塚は、マウンドで咆哮を上げる鳴海から目を離さずに言った。
湊は、震える声を必死に抑えて問いかける。
「どうして、僕が最後なんですか。……氷室も望月さんも、そして鳴海も、みんな僕よりずっと『実績』がある。僕みたいな、120キロそこそこしか出ない未完成品を、一番最後に持ってくるのは……」
それは、湊の本心だった。
自分はまだ、泥の中にいる。磨ききれていない。150キロの腕の振りから122キロしか出せないこの歪な体は、あまりにも不安定だ。
鬼塚が初めて、湊の方を向いた。
サングラスの奥、鋭い眼光が和らぎ、唇の端がニヤリと釣り上がる。
「お前、自分の球をなんだと思っている」
「……リミッターのかかった、呪われた球です」
「バカ言え」
鬼塚は、まるで最高の宝物を見せつけるような、悪戯っ子のような笑顔を浮かべた。
「『火の玉ストレート』は、 ――抑えしかないだろ。九回、あるいは絶体絶命の窮地。相手が一番焦り、一番の勝負どころに、お前のあの浮き上がる異形をぶち込んでやるんだ。公式戦でもないのに怖じ気づいたか?……打者の脳がショートする瞬間を、特等席で見せてくれよ」
「っ……!」
湊の思考が真っ白に染まる。
呪縛だと思っていた自分の武器を、監督は「火の玉」と呼んだ。かつての名投手が背負った、あの聖域の名前を。
動揺で指先が震える。誇らしさと、それ以上の重圧が湊を襲った。
「さあ、見ろ。お前にバトンを繋ぐために、猛獣が牙を剥いているぞ」
視線をグラウンドに戻せば、マウンドの鳴海聖が凄まじい殺気を放っていた。
鳴海は構わず、全身のバネを爆発させるように大きく振りかぶった。
「一条! 見てろ! これが『力』だあぁぁ!!」




