第12話:静寂の魔神と、七色の残光
第12話:静寂の魔神と、七色の残光
夜の帳が下りた聖隷高校。
照明のないグラウンドは、完全な暗闇に沈む一歩手前だった。
三年生レギュラー陣の圧倒的な「武」が残した熱気が、まだ土の匂いとともに漂っている。
湊は一人、グラウンドの隅でネットスローを繰り返していた。
指先の感覚はない。あるのは、リリースの一瞬に込める「2400回転」の執念だけだ。
「……まだ、指先に迷いがあるな」
不意に背後から声をかけられ、湊の肩が跳ねた。
振り返ると、そこには影のように佇む男がいた。
不動 広人。
三年生、右投げの救援投手。
どんなピンチでも眉一つ動かさず、フォークボールだけで打者を絶望の淵に沈める「聖隷の大魔神」だ。
「不動先輩……。まだ残ってたんですか」
「調整だ。……投げてみろ」
不動は短い言葉とともに、湊の正面に立った。捕手役を買って出るわけではない。ただ、湊の背後から「投球の軌道」を見ようとしていた。
湊は呼吸を整える。
150キロの腕の振り。
脳が叫ぶ「止まれ」というリミッターの拒絶。
それを無理やり抑え込み、122キロの「火の玉」を放った。
――シュッ!!
空気を切り裂く鋭い破裂音。
ボールはネットに突き刺さり、不自然なほど高い位置で跳ねた。
「……スピンは一級品だ。だが、お前は打者の『呼吸』を殺せてない」
不動が無表情に告げる。
「敵は我に在り。マウンドで戦う前に、自分の中の恐怖と向き合いすぎている。……開き直れ。その瞬間に自分のすべてを出し切り、燃焼しろ。それができないなら、俺の後ろ(ブルペン)に座る資格はない」
不動の言葉は冷徹だったが、そこには湊を「投手」として数える、彼なりの厳格な物差しがあった。
そこへ、軽やかな足音とともに別の影が近づいてくる。
「不動くん、あまり一年生をいじめちゃダメだよ。彼は彼なりに、新しい『答え』を探してるんだから」
筧 翼。
左投げ。曲がりの大きい「七色のカーブ」を操る、聖隷の技巧派サウスポーだ。
筧は湊の横に並び、手首のスナップを軽く効かせながらボールを弄んだ。
「一条くん、君のピッチング。悪くないけど、少し『素直』すぎるかな。僕のカーブがなぜ打たれないか、わかる?」
「……回転の軸、でしょうか」
「正解。でも、もっと大事なのは『景色』だよ。打者の目線をどこへ誘導し、どこで裏切るか。一理に達すれば、万法に通ず。直球を活かすための変化球じゃない。変化球が直球を『速く』見せるんだ」
筧がふわりと放った球は、一度空中で止まったかと思うほど大きく弧を描き、湊の足元で鋭く沈んだ。
湊の「パラシュートチェンジ」とはまた違う、計算し尽くされた魔球の残光。
「……一理に達すれば、万法に通ず」
湊は、筧の残した言葉を脳内の美術用キャンバスに書き込んだ。
モノクロの闇の中で、不動のフォークは「無機質なグレー」、筧のカーブは「幻惑の紫」として色づいていく。
「……おーい! いつまでやってんだ!」
部室の方から、さらに大きな声が飛んできた。
三塁手のレギュラー、熊田剛志だ。
右打ちのパワーヒッター。豪快なスイングを信条とする男だ。
「一条! お前のフルスイング、あれは欲の塊だな! だが、欲があるうちはまだ伸びる。……明日、俺の打撃練習で投げてみろ。お前のその『浮き上がる球』、スタンドに叩き込んでやるからよ!」
「……はい! お願いします!」
熊田の豪快な笑い声が、夜の静寂を揺らした。
拒絶する黒田や豊田。
導く桐生や椛島。
そして、技術の深淵を見せる不動や筧、熊田。
聖隷高校三年生の、厚く、高い壁。
彼らは決して湊を「仲間」として手放しで歓迎しているわけではない。
だが、湊の狂気的な壁当てと、そこから生み出された「122キロの異質」が、完成されていたはずの彼らの野球に、小さな、しかし無視できない波紋を広げ始めていた。
「……『どうするか』を考えない人に、『どうなるか』は見えない」
湊は、独り言のように呟き、最後のネットスローに力を込めた。
その様子を、校舎の窓から見下ろす人影があった。
鬼塚監督だ。
「……不器用な奴ほど、細部に命を宿す。一条、お前がその『細部』で、三年生の完成された武を壊してみせろ」
闇の中で放たれた白球は、確かに。
打者の手元で加速するように、上へと跳ね上がった。




