第11話:聖隷の頂、三つの壁
第11話:聖隷の頂、三つの壁
グラウンドの半分を占める内野ノックのエリアは、言葉通り「戦場」だった。
二年生の洗礼を耐え抜き、本球場へと戻った湊の視界に、圧倒的な威圧感を持つ集団が飛び込んでくる。
聖隷高校の根幹を支える、三年生レギュラー陣だ。
「バント練習、一箇所空けるぞ。一条、入れ」
短く、しかし拒絶を許さない声が響く。二塁手の清田謙介だ。
送りバント成功率100%を誇る「バントの神」。整然と整えられたユニフォーム、無駄のない所作。湊のダイナミックなフォームは無駄なようにも見える。最も異質を嫌うの筆頭だ。
「……はい」
湊がケージに入ると、清田は冷徹な眼差しで湊の構えを射抜いた。
「一条。お前の野球は『個』が強すぎる。組織の和を乱すフォーム、無意味なパフォーマンス……。バント一球にすら、お前というエゴが透けて見えるんだよ」
コンッ、と清田が手本を見せる。打球は死んだように勢いを失い、ライン際ギリギリに静止した。
「組織はリーダーの力量以上に伸びない。そして、歯車になれない人間は組織を壊す。それを忘れるな」
清田の「バント道」に圧倒されている湊の肩に、ふわりと大きな手が置かれた。
「まあまあ、清田。そう堅いこと言うなよ」
右翼手の桐生政長だ。
聖隷の「太陽」と称される男。イチローを彷彿とさせるレーザービームでライトを守る守備の名手だ。
桐生は湊の泥だらけの顔を見て、眩しそうに目を細めた。
「いい目だ、一条。バックホームのスピン、あれは芸術だったよ。鬼塚監督が惚れ込むのも分かる。……お前、自分の影を追いかけてるだろ?」
「僕の……影?」
「ああ。届かない場所にいる自分に、必死で手を伸ばしてる。その『あがき』こそが、停滞したこのチームに必要な光かもしれないな」
桐生はそう言って、湊の帽子を軽く叩いた。
だが、その穏やかな空気を切り裂くように、バックネット裏から凄まじい「音」が響いた。
――ドォォン!!
捕手、黒田一のミットが、エース豊田の150キロを捕らえた音だ。
微動だにしないフレーミング。二塁送球1.8秒を誇る「要塞」。
黒田は湊を一度も見ようとせず、豊田にボールを投げ返しながら吐き捨てた。
「桐生、光だの何だの甘いことを言うな。俺は、あんな『遅い球』しか投げられない奴を投手とは認めない。正捕手として、あんなスピンだけの球を受けるつもりも、受ける必要もない」
その言葉に、マウンド上の豊田零司が静かに頷く。
エースの絶対的な「美学」。
「マウンドは神聖な場所だ。俺の後に立つなら、それ相応の資格を示せ。……掃除しろと言ったはずだぞ、美術部」
豊田の放つ150キロの火力が、グラウンドの空気を焦がす。
三塁を守る熊田剛志がフルスイングでそれに応じ、遊撃手の山倉大智が予測守備で打球を平然と処理する。
これが、聖隷高校が誇る「完成された野球」だった。
「……凄い」
湊は、その完成度の高さに息を呑んだ。
自分の122キロが、いかに異物で、いかに未熟か。
だが、その圧倒的な「武」の輪の中から、一人だけ湊に視線を送る者がいた。
センターの定位置。
飛鳥斗真。
背中を向けたまま、後方の打球をノーバウンドで捕球する。
彼は一度も言葉を発しなかったが、湊が履いている『レッドスター』の泥の付き方をじっと見つめていた。その無言の視線には、蔑みも賞賛もなく、ただ「観察」という名の承認だけが含まれていた。
練習の終わり。
湊はベンチの隅で、アイシング用の氷嚢を手にしていた。
そこへ、足を引きずりながらも鋭い眼光を失っていない椛島隆士が近づいてきた。
「……聞いたぞ、一条。二年生の洗礼を耐えたらしいな」
「椛島先輩……」
「清田や黒田は厳しい。だが、あいつらはあいつらなりに『聖隷の正義』を守ろうとしてる。……お前は、その正義を塗り替えるつもりか?」
湊は、氷嚢を握りしめた。
指先は岩のように硬いマメで覆われ、感覚が麻痺し始めている。
「……塗り替えるなんて、そんな大それたことは。ただ……」
湊は顔を上げ、今は無人となったマウンドを見つめた。
モノクロだった景色に、今、三年生たちの色彩が混ざり合っている。
清田の潔癖な白。桐生の温かな橙。黒田の鉄のような黒。豊田の烈火のような赤。
「不器用な僕には、これしかないんです。彼らが気づかない『微差』に命を宿して、一歩ずつ進むしか……」
椛島は、湊の言葉にフッと鼻で笑った。
「『本当の強さとは、どん底を見て、そこからはい上がってきた人間が持っている』ってきいたことあるか。……お前のどん底は、まだ浅いぞ、一条」
その時、救急箱を持った仁衣菜が駆け寄ってきた。
「ちょっと! 椛島先輩、あんまり一条をいじめないでください! こいつ、もう限界なんですから」
「……フン。甘やかすなよ、マネージャー」
椛島が去り、仁衣菜が湊の手を乱暴に、しかし丁寧にアイシングし始める。
「……あんた、本当にバカね。あんな怪物たちに喧嘩売るような真似して」
「喧嘩なんて売ってないよ、浅倉さん。ただ、無視されるよりはいい。非難されるのは、一歩前に進んだ証拠だって、田尾さんも言ってたから」
湊は、仁衣菜の差し出す氷嚢の冷たさに耐えながら、心の中で野村の言葉を反芻した。
――「無視、賞賛、非難。」
今はまだ、無視と非難の間。
だが、その痛みこそが、120キロの「火の玉」を完成させるための唯一の苗床になる。
「……いつもアイシングありがとう。」
「……別にお礼なんていいから。あんたたちが壊れないようにするのが、私の仕事じゃないから」
仁衣菜の不機嫌そうな吊り目の奥に、微かな信頼の光が宿る。
聖隷高校のグラウンドを夜の帳が包む。
三年生という名の巨大な壁の向こう側で、湊のリミッターは、さらに深い場所へと沈み込み、次なる爆発の瞬間を待っていた。




