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8.ダイヤモンドの雨

「雨だ……」

 澂の懐に崩れ落ち、胸板に張り付いていた変死体が呟いた。

 彼女はそれまで、貼り付いたような不気味な笑みを浮かべ、永遠に解けぬ呪いのように澂の顔面を凝視していた。その視線は湿度を帯び、愛おしさと殺意が混濁したような粘着質で彼を絡め取っていたが、ふいにその拘束が解かれる。

 彼女は顔を上げ、視線を鉛色の空へと向けた。

 その表情には、憂愁のような色が浮かんでいる。


 彼女の一挙手一投足に、澂の恐怖中枢は警報を鳴らし続けていた。

 至近距離で浴びせられ続けた彼女の視線は、有害な放射線のように彼のシステムを侵食していた。物理的なチップの損傷こそないものの、論理層ソフトウェアにおいては深刻な汚染が発生している。ソースコードの数千行が、解読不能な異界の言語へと書き換えられてしまったかのような感覚。

 だが、彼女が視線を外したことで、そのデジタルな被曝は停止した。

 澂は即座に自己修復リカバリープロセスを実行する。クラウド上のバックアップ領域に接続し、エンジニアによって記述された正規のソースコードをダウンロード。汚染されたセクタを上書きし、バグだらけになった記述を正常な状態へとロールバックさせる。


 システムが正常値に戻ると、澂は恐る恐る視線を戻した。

 恐怖はいまだ消えていない。彼女に関するいかなる情報も、本来ならこれ以上インプットしたくはない。

 だが、二人は今、高級リゾートの恋人同士のようにデッキチェアの上で重なり合っている。このモダンアートのような邸宅の風景の一部として、完全に無視を決め込むには、状況があまりに物理的すぎた。

 ただコーヒーを啜り、風景に同化するだけの贅沢な時間は終わってしまった。

 もはや、何かのアクションを起こさずにはいられない。


 澂は、彼女の視線を追った。

 彼女は空を見上げている。

 降り注ぐ、ダイヤモンドの雨を。

 天王星に住まう澂にとって、この星特有の天候は見慣れた日常だ。だが、今の彼はこの沈黙を埋めるためのBGM、あるいは状況を客観視するための情報を必要としていた。

 彼は家庭用ロボットへプロンプトを飛ばす。


「砂糖香。ダイヤモンドの雨について、三行で説明してくれ」

 砂糖香の顔面モニターに、かつて日本語と呼ばれていた文字列が流れる。澂はそれを読むことすら億劫で、即座に再入力した。

「BGMとして活用したい。音声で読み上げろ」

「畏まりました」


 砂糖香は、教科書的でありながらどこか動的なトーンで、その自然現象の定義を読み上げ始めた。


「天王星の大気深層における超高圧と高温が、メタンを熱分解パイロリシスし、炭素原子を結晶化させる現象です。生成されたダイヤモンドは、一部が融解した液状炭素と混ざり合い、強烈なみぞれとなって惑星中心核コアの海へと降り注ぎます。それは硬質な宝石と、溶けた宝石が入り混じる、世界で最も高価で冷酷な氷雨と言えるでしょう」


 ジンは恋人同士のように、胸元の変死体と共に同じ空を見上げている。

 だが、唐突に――

 ふと、雨が止んだ。

 通り雨だったらしい。あまりに呆気ない終焉に、澂の心は乱れる。

 なぜなら、空をつなぎ止めていた雨粒が消えた途端、変死体の視線が、まるで強力な磁石に引かれるように、ずらりと澂の方へ戻ってきてしまったからだ。


 せっかくソースコードを修復したというのに。

 彼女の視線という名の有害な放射線が、再び澂のCPUを、基幹ソフトウェアを、バックエンドの深層を侵食し始める。

 彼女の視線に濡れるくらいなら、あの硬質なダイヤモンドの雨に打たれていた方が百万倍マシだ。

 澂はそう毒づきながらも、今度は視線を逸らさなかった。

 次第に、奇妙な勇敢さが湧き上がってくる。ソースコードが破壊されても構わない、という破滅的な高揚感。

 自分でも驚くべきバグだった。

 コーディングが乱され、書き換えられていく感覚。それが、決して悪いものではないという事実に初めて気づく。

 破壊されてもいい。壊れても、書き換えられても構わない。

 もちろん、その受容は恐怖を伴うものだったが、澂は次第にその恐怖の芯に、ある種の甘美さを感じ始めていた。


 だから澂は、逃げることなく変死体の顔を凝視した。

 まともに彼女の顔を見るのは、これが初めてだった。

 美しい顔。

 長く波打つ金髪は、単なる染色ではない。黄金に炎のゆらめきを混ぜて合金にしたような、自ら発光するような艶めき。それは、この宇宙のビッグバンが始まった瞬間、既にこの色相であることが定められていたかのような、宇宙的運命コスミック・フェイトを感じさせる色彩だった。決して書き換えることのできない、根源的で厳粛な固定値。

 視線を顔の造作へと移し、その情報を丁寧にインプットしていく。

 長く孤独な一人暮らしのせいもあるだろう。事実上、砂糖香というポンコツ以外、物理的な他者ヒューマノイドに触れる機会など皆無だった。

 澂の活動――いや「電活」のほとんどは、ネットワーク上のミクロな世界で行われる。マクロな実体を持った自分は、この優雅な邸宅で、宇宙最高の贅沢である「孤独」に浸り続けてきた。

 その甘ったるいシロップのような孤独の中で、彼の社会性知能はドロドロに融解し、並大抵の刺激には反応しなくなっていたのだ。

 だからこそ、こうして外観を持った他者と物理的に接触し、その情報を至近距離でインプットするという体験はあまりに新鮮で、

 どうしようもなく怖くて、

 そして……。


「とても、可愛いね」


 自ずと、そんな音声データが出力される。

 すると、変死体はその死んだはずの唇から、生々しい音声を発した。


「そういう設定だから」


 ぞっとするほど聞き心地の良い響きに、澂は震えるような恐怖を感じる。

 ふと、この恐怖の正体を理解した気がする。

 それは、快楽だった。


「いつから、そういう設定だったんだ?」

 澂は恐怖と快楽を紛らわすために、あえて客観的な情報のやり取りを試みた。

 変死体は即答する。

「生産される前からよ。エントロピーの法則に則って、私は美しくなければならないの」

「一体誰が決めたんだ?そんなことを」


 すると彼女は、あどけない笑みを漏らした。

 それは子供の無邪気さとは違う。宇宙を漂う無数の隕石が、どれも同じような凸凹とした表面を持っているような、作為のない自然さ。社会的フィルターを一切通さず、ただそこに在るがままの「現象」として表出された、純粋な笑い声。

 死したモノだけが醸し出せる究極の自然さを剥き出しにして、変死体は答えた。


「君でしょう?」


「……」


 否定できなかった。

 言葉を失い、衝撃的な事実に澂が凍りついている間に、

 再び、空からダイヤモンドの雨が降り始めた。


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