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5.変死体

 ワンワン、と。

 隣で泣きじゃくる砂糖香の声が響く。

 夕暮れの空中邸宅はあまりに静かで、その静寂自体が一種の轟音となって鼓膜を圧迫するほどだった。だが、砂糖香の情けない泣き声が、その圧力を相殺するノイズキャンセリングの役割を果たしている。

 澂は目を閉じ、その鳴き声をBGMとして楽しむことができる。

 ヒートアップしたアクチュエーターに、潤滑油の代わりにコーヒーを注ぎ込んで冷却する――そんなイメージで内面の昂りを鎮め、彼は再びデッキチェアに身を沈めた。


 彼は空中にドローンを一機射出し、自身の視覚センサーをリンクさせた。

 上空からの俯瞰視点。

 ターコイズブルーのプールサイド、白いデッキチェア、そしてコーヒーをぶちまけられ、絶妙な褐色の模様を描く衣服を纏った自分自身。

 それらすべてが一つのモダンアートとして構成されている。

 そこに響く砂糖香の鳴き声は、少し単調になりかけていたこの絵画に不可欠なアクセントになってくれる。まるでモナ・リザに最後に描き足された背景のような、あるいは静的な庭園の池に絵の具を一滴垂らしたような。

 澂は金に飽かせて絵画を始めた老人のような、あるいは初心者のような微かなときめきを感じながら、この完成された情景にひたすら浸る。


 ふと、砂糖香の泣き声が止んだ。


 澂のCPUを、瞬間的な苛立ちが駆け巡る。

 せっかくの没入感を削ぐな。

 この空間に不可欠だったBGMが唐突に切断されたことへの不快感。彼は永遠に閉じていたかった瞼を、億劫そうにこじ開けた。

 視線をやると、砂糖香の顔面モニターは一点を凝視していた。

 プールの方角だ。

 澂はもう一度「自動虐待」を命じたい衝動を抑え、砂糖香が作り出した沈黙への敬意を2パーセントほど払いながら、彼の視線の先へと自身の視覚センサーを向けてみる。


 プールの上に、一つのボディが浮いていた。


 うつ伏せの状態だった。

 前面を水没させ、背中だけを水面に見せている。

 それはまるで、撹拌かくはん不足のバターコーヒーのようで。

 溶けきれなかったバターの塊が、黒い液面をどんぶらと漂っているような、視覚的にあまりよろしくない油の浮遊感。

 その物体は白いガウンを一枚纏っているだけだった。水面に顔を隠しているため個体識別は不可能だが、長く広がる髪の毛から推測するに、女性型の環境設定を持つヒューマノイドロボットだろう。


 その水死体めいたボディは、ピクリとも動かなかった。

 いや、厳密には動いているのかもしれない。だがそれは 10^{-20} メートル毎秒という、限りなくゼロに収束する速度だった。量子力学的な観測なしには「止まっている」としか表現しようのない静的なスピードで、プールの真ん中を浮遊していた。


「砂糖香」

 澂は自身の家庭用ロボットに尋ねる。

「あれは、客人か?」

「違います」

 砂糖香は即答した。

「変死体ですね」

「……変死体って、何だ?」


 澂は「変死体」という言葉の語義的、あるいは意味論的な定義を知ってはいたが、それを実感として「分かる」気にはなれない。

 だからこそ、既知の情報であっても未知のバグを探るように問いかけたのだが、それに対し砂糖香は、先程までの情緒的な泣き真似モードから一転、百科事典データベースに直結した学術的なトーンで回答を出力した。


「変死体とは、医学的または法医学的に見て、死因が明らかでない死体の総称です。主に犯罪性、あるいは事故性の疑いがある遺体を指し、行政解剖や司法解剖の対象として処理されるのが一般的と定義されています」


 既に知っている情報を再確認したところで、理解の解像度が上がるはずもない。

 澂は再び椅子から立ち上がりたい衝動に駆られたが、それを理性――あるいはプログラムされた美学――で抑え込んだ。

 つい先ほど立ち上がったばかりだぞ。

 高貴な存在であるほど、動作は最小限でなければならない。そんな出所不明の迷信じみたコードが彼の中でバグを起こしているのだが、本人はそれに気づいていない。

 この優雅なヒューマノイドとしての生活、いや「電活エレクトロ・ライフ」において、そのバグは何の障害にもならず、むしろ彼の怠惰を正当化する哲学として機能している。


 彼は直接その不快なオブジェクトを網膜に映すことを拒み、依然として上空にホバリングさせていたドローンのカメラ映像を通じて観察を続けた。

 垂直に見下ろした画面の中で、その変死体は「大の字」に広がっていた。

 それはまるで、バタフライの最中に時空ごと凍りついたかのようなポーズだった。激しい動作の一瞬を切り取ったまま完全に静止しているため、写真よりも静的でありながら、動画よりも躍動して見える。その矛盾した視覚情報は、澂のGPUに奇妙な共感覚的エラーを引き起こさせるほど強烈だった。

 澂はこの不快なパラドックスを解消すべく、複雑な状況を単純化するプロセスの亡霊に憑かれたように指示を出した。


「砂糖香。あれを救い上げろ」

「できません」

「なぜだ?」

「当機は製造からかなりの年月を経過しており、IPX規格等の防水防塵機能は実装されておりません。プールに入れば即座に回路がショートし、私まで第二の変死体となってしまいます」

「それは駄目だな」澂は呟いた。「流石に、私のプールに変死体を二つ並べる趣味はない」

「でしょ?」

「それでもやれ」

「ええ?」

 砂糖香がスピーカーから素っ頓狂な抗議音を漏らす。

「どうやってですか?」


 澂の超高性能CPUは、0.00000000000000001秒の間に一兆個もの解決策を算出していたが、砂糖香の貧弱な演算能力では、一秒という永遠に近い時間を費やしても一つとして思い浮かばないことは明白だった。

 澂は慈悲深く、その中の一つを提示してやる。


「釣ればいいじゃないか」

「なるほど」


 砂糖香は想像力こそ貧困だが、与えられたプロンプトを解釈し実行する処理能力には長けている。彼は即座に邸宅内へと姿を消し――そして澂の体感時間にして約三年後、ようやく一本の釣竿を携えて戻ってきた。


「遅い。なぜ三年もかかったんだ」

 澂は即座に詰問した。

「待ちくたびれて、天王星の自転軸が五度ずれたぞ」

「ええい、大袈裟な」

 砂糖香が呆れたように茶化す。

「たかが三年程度で、惑星の軸はブレませんよ。天王星の赤道傾斜角は約98度。ほぼ横倒しの状態で安定して回転しています。ジャイロ効果によってその回転軸の向きは保持されるため、数年単位で角度が変わることは物理的にあり得ません」

「……お前は『冗談』という概念の定義ファイルを持っていないのか?」


 澂はやれやれと首を横に振った。

 視線を上げると、そこには箒を抱えるメイドのように、うやうやしく釣竿を構える砂糖香の姿がある。その光景を、澂はドローンのカメラ越しではなく、自身の眼球のアクチュエーターを駆動させ、直接その視覚センサーで捉える。


 ジンは視覚センサーからデータパケットを送信し、砂糖香が抱える釣竿の仕様スペックを瞬時に書き換えた。

 無骨な標準モデルのデータを、彼女の小さく可愛らしい両手に馴染むよう、より原始的で愛嬌のあるフォルムへと仮想的にダウングレードさせる。

 だが、その先端に付ける餌だけは妥協しなかった。

 土星の衛星タイタン、その深海に生息するという全長一千キロメートルの巨大魚類「ギガ・シャーク」。その希少なキャビアを一粒、惜しげもなく釣り針に装着させる。

「じゃあ、あの変死体を釣り上げろ」


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