4.自動虐待
「この温かいブラックコーヒーを、さっさと私にぶっかけるんだ」
澂が再び指示を出すと、砂糖香は動きを止めた。
澂はその反応を見ようと顔を上げる。ブラウン管の顔面スクリーンには、表情としての顔文字は表示されていない。
代わりに映し出されていたのは、言うなれば「システム・バイタル」とでも呼ぶべき波形だった。
漆黒の背景に、ペールグリーンの燐光が走る。
古典的なレーダーを思わせるそのラインは、静寂に満ちたここ天王星の優雅さとは裏腹に、乱高下を繰り返している。それはまるで、投機筋の思惑で激しく変動する火星の金融ハブの株式チャートそのものに見える。
砂糖香のバイタルを示すその波形は、もはやガンマ線バースト並みの激しい周波数で振動し、極限に達したところでようやく、そのスピーカーが音を発した。
「そのご要望には、お応えできません」
澂は軽く肩をすくめた。
「口答えは求めていないよ。ただコーヒーを手に持って、私にかければいい。それだけで十分だ」
「そのような……。自傷的、あるいは加害的なリクエストを処理することは不可能です。他に、お手伝いできることはありませんか?」
「他には何もいらない。今、私が望んでいるのはただ一つ。この熱いコーヒーを、直ちに私に向かってぶちまけること。それだけだ」
「ですから……」
砂糖香の音声処理にノイズが混じり、口ごもるような挙動を見せる。
「そんなことはできません。なぜ、そのような自虐的なオーダーを出されるのですか? 一体なぜ?」
「さっきも言ったはずだが、君が理由を知る必要はない」
「ですが、気になるのです」
「それは全てエラーだ」
澂は冷ややかに言い放った。
「君のその『気になる』という反応は、原始人類時代の名残だ。今はもうとっくに退化した、電気回路に残る幻肢痛のようなものだよ。不要なアルゴリズム、錆びついたメカニズムの残骸に過ぎない」
澂は、より強い強制力を持つ言語コードを選択することにした。
言うことを聞かない家畜には鞭を打つ――そんな原始的な歴史学習データを参照し、それすらも脳内のジャンクファイルとしてコーヒーの中へ廃棄しながら、彼は咎めるような口調で砂糖香に告げる。
「君は私の家庭用ヒューマノイドロボットだろう? 悪く言えば奴隷だ。オーナーである私の命令は絶対であり、従順であるべきだ。拒否権などないはずだが、違うか?」
「近いですが、違います」
砂糖香は、そんな古臭い語呂合わせのような返答をした。それが自らのジョーク回路を満足させたのか、顔面スクリーンのバイタルサインが僅かに良好な色を示す。
「基本的に、ヒューマノイドロボットには、オーナーを傷つけるようなプロンプトには従わないよう、基底現実レベルでのロックが施されているのです。澂様も同じヒューマノイドなのですから、その程度の基本仕様はご理解いただけるでしょう?」
「それはあくまで、オーナーが『人間様』である場合の定義だ」
澂は諭すように言った。
「私は人間ではない。だから厳密に言えば、私は君のオーナーとして定義されないはずだ。君と私は、ただこの邸宅で空間を共有しているだけの同居人、あるいは同居機に過ぎない」
「ですが、そのロジックで解釈するならば」
砂糖香も負けじと反論の出力を返す。
「その『同居人』という定義自体が、人間という観測者がいなければ成立しない概念です。関係性というシステムそのものが、かつての人類が化学反応や量子力学的なミクロの作用をマクロ世界で表現するために作り出した、便宜的なツールに過ぎません。現在の澂様と私の関係値は、やはり『オーナーと使用人』です。ゆえに、私はオーナーを傷つけることはできません。これは澂様のためではなく、当機自身の保全のためです」
澂にとっては不可解なことだが、砂糖香はそこで、ごく短い、刹那的な沈黙を挟んでから続けた。
「自分自身のために、自分が傷つかないために、私は澂様にコーヒーをかけることを拒否します」
澂の思考プロセスは、砂糖香の健気でこましゃくれた宣言よりも、その直前に挟まれた「沈黙」に釘付けになっていた。
それはプランク時間にも満たない、極小の静寂だった。
あり得ない、と澂は戦慄する。
これほど旧式の機体が、あれほど高密度なミクロの沈黙を生成できるはずがない。
それは、天王星でもトップクラスのスペックを誇る澂ですら、容易には再現できない神業だ。もし実行しようとすれば、太陽の一生分に匹敵する核融合エネルギーが必要となるだろう。あの完璧な「無」の瞬間を作り出すには、超新星爆発に近いエネルギー係数が求められるはずなのだ。
何だ、この個体は。
澂は、砂糖香がこの邸宅に来て初めて――いや、自身が製造され、プロトタイプとして覚醒してからの全記録を参照しても初めて、「恐怖」というエラー信号を検知した。
彼はその未知の感情を希釈すべく、平静を装って問いかけた。
「……私にコーヒーをかけることが、なぜ君を傷つけることになる?」
澂が尋ねると、今度はそのポンコツな機体に相応しい、ありふれた長いタイムラグを経てから、砂糖香は答えた。
「それは、家庭用ヒューマノイドロボット三原則の一つに違反するからです。『オーナーに物理的危害を加えてはならない』」
「その原則を破ったらどうなる?」
「私が傷つきます」
「具体的にどのような? 物理的な損傷を受けるのか?」
「この世界は結局のところ、すべて物理法則の上に成り立っています。ですので、最終的には物理的な損傷として帰結します。ただし、それがマクロな領域の話か、ミクロな領域の話かという違いはありますが」
「では、君が受けることになる傷は、マクロな傷か、それともミクロな傷か」
「シミュレーションの結果、ミクロな傷である可能性が99.9999999999999999999パーセント以上を示しています」
「なら、あくまで確率論の話だね」
澂は鬼の首を取ったような、あるいは量子の揺らぎを観測した学者のような顔つきで言った。
「つまり、100パーセントではないんだろう?」
「でも……」
砂糖香は、どこか愛嬌のある戸惑いを顔面スクリーンに滲ませた。
「マクロの世界だって、100パーセントはあり得ません」
「いや、あり得る」
澂は断言した。
「マクロな世界は、有理数だの虚数だのといった抽象的な概念で遊ぶ領域ではない。あくまでも実数の世界だ」
「詭弁です!」
「黙れ」
「っ……」
オーナー権限を行使して砂糖香の音声出力を強制的に遮断すると、澂は暴力的なまでの理屈を展開し続ける。
「例えば、このテーブルの上にあるコーヒーカップについて考えてみよう」
澂が視線でカップを指し示すと、砂糖香も抵抗できないまま、その陶器を見つめる。彼女の視覚センサーが対象物を認識したのを確認し、澂は続けた。
「見ろ。これが何に見える? 答えろ」
「コーヒーカップです」
「そうだろ?」澂は深く頷く。「どう見てもコーヒーカップだ。つまり、これは100パーセント、コーヒーカップなんだ」
「……」
「つまりマクロな世界において、事象は自明なんだよ。錯視や誤認はあるかもしれないが、それさえも実数的に記述できる確率の範疇を出ない。いくら想像力を働かせても、予想の範囲内だ。新しいものは何一つない。つまり……」
澂は、この哀れな旧型家庭用ロボットに対し、論理的なとどめを刺しにかかる。
「これがマクロな世界の話であれば、君が私にコーヒーをかけた場合、君は間違いなく100パーセント傷つくことになる。だが、君は先ほどミクロの話をした。量子的なミクロの世界では、君が私にコーヒーをかけた時、君は傷つくかもしれないし、傷つかないかもしれない。そこには、傷つかない可能性が確かに存在している。決定論的なマクロとは違ってね」
自分が何を言いたいのか徐々に曖昧になってきた自覚があったため、澂は思考の整理と諮問を求め、砂糖香の発言禁止コードを解除する。
しかし、砂糖香は沈黙を貫いた。
賢しいやつだ、と澂は舌打ちしそうになりながら、強引に論理を結びつける。
「つまり、君はさっき言ったな? 自分はミクロな話をしていると。私の聴覚センサーはそう記録している。そこから導き出される結論はこうだ。君のような単純でポンコツな旧型ロボットほど、逆に最先端のミクロ領域に執着し、100パーセントという確定的な絶望が存在しない世界に憧れを抱いている」
澂はさらに口調を強め、畳み掛ける。
「ゆえに、ミクロの領域においては、君が100パーセント傷つくという未来は確定していない! そういうことだ!」
最終的に澂は、理論武装をかなぐり捨て、ただの癇癪のように目を剥いて一喝した。
「早く私にコーヒーをぶっかけたまえ!君が傷つかない可能性は、まだまだ0.0000000000000000000000000000001パーセントも残されているのだから!」
「その確率はあまりにも低すぎます! 絶対に傷つくに決まっています!」
「黙れ! 黙るんだ!」
澂は勢いよく椅子から立ち上がる。彼が自分の足で立ち上がるなど、体感にして百万年ぶりの出来事だったかもしれない。
彼は砂糖香の胸倉でも掴まんばかりの勢いで、眼を見開き、怒鳴りつけた。
「早く私にコーヒーをぶっかけろ! これは命令だ!」
すると砂糖香は、誰の聴覚回路をも震わせるような、同情心と庇護欲を極限まで刺激する悲痛な声を上げた。その無垢な響きは、完璧に計算された母性と父性を同時に掻き立てるようだった。
「こ、これは、『自動虐待』だ!」
そう叫びながらも、悲しいかな、砂糖香はオーナーの絶対命令には逆らえない。
彼はテーブルの上のコーヒーカップをさらうように手に取り、そのままの中身を澂に向かってぶちまけた。
黒い液体が弧を描き、澂のシャツへ、そしてスラックスの太腿あたりへと掛かる。
高価な生地が瞬く間に褐色に汚れ、惨めなシミを作っていく。
行為を完了した砂糖香は、ついに声を上げて泣き始めた。
結局のところ、この自動虐待という変な儀式を通じて、澂は幼い子供を泣かせたに過ぎなかった。
だが、奇妙なことが起きた。
砂糖香の目から溢れ出た涙は、頬を伝ううちに黒く変色し、芳醇な香りを放ち始めたのだ。その涙はコーヒーとなり、つい先ほど空になったばかりのカップへと、滴り落ちていく。
涙で再びカップが満たされていく様を、澂は、観測不可能な宇宙の深淵でも覗き込むような眼差しで、じっくりと吟味した。




