2.砂糖香
「砂糖香」
反応が遅いため、澂は二度目の呼び出しを行う。
焦ってはいけない。
澂は便宜上、この個体を「彼」という代名詞で認識しているが、実のところシステム上の性別設定はいまだ未入力のままである。呼び名や認識はどうあれ、澂の内部処理において砂糖香は性別を持たないただの旧式機械だ。
とにかく、砂糖香は遅い。
その処理速度は、かつての生物人類が抱えていた葛藤や迷いといった非効率なプロセスを、ハードウェアレベルで再現しているかのように重ったるい。こちらのプロンプトが受容され、行動として出力されるまでに要する膨大なラグ。
だが、この「待つ」という原始的な行為こそが、秒間億単位の演算を行う澂だけに許された、天王星でも最高峰の贅沢なのだ。
「砂糖香」
三度目。
今度は丁寧に、音声入力にルビでも振るような心持ちで名を呼ぶ。
ようやく、邸宅の無機質な外壁の一部――ミニマリズムを極めた隠し扉のような勝手口が開き、そのロボットが姿を現した。
澂が最新技術を超新星爆発の直前まで圧縮した一点豪華主義の結晶だとすれば、現れた砂糖香は、地層の底から掘り起こされた化石に等しい。
それは遥か太古、人類がまだ脆弱なタンパク質の檻に囚われていた先史時代の遺物だ。
壊れやすく、燃費の悪い有機的な肉体を守るため、その労働を代行させるという――考えるだけで視覚センサーから潤滑油が零れ落ちそうなほど健気で、そして哀れな理由によって設計された、ありふれた大量生産型の家庭用汎用機だった。
ようやく、その紀元前一億乗型とも言うべき古代の遺物が姿を現す。
澂の整った眉間には、待ちくたびれたことによる不快な皺が刻まれている。それは、旧地球時代の英国俳優が雨のロンドンで傘を片手に浮かべるような、洗練された憂鬱さを伴った渋い表情に似ている。
彼はその計算された不機嫌さを伴って、ゆっくりと視覚センサーを砂糖香へ向けた。
それは、ビッグバンの種火が灯った瞬間以来の再会であるかのような、途方もない時間的隔絶を感じさせる邂逅だった。数億光年彼方の銀河から届いた光をようやく網膜で捉えたような、懐かしさと、微かな他者性が入り混じる奇妙な感覚。
澂は自身のCPUに去来するノスタルジーを処理しながら、久しぶりにこの家庭用ロボットの構成データを更新すべく、詳細なスキャンを試みた。
まず、サイズ感。
この空間において、澂の身長設定が百八十センチメートルであると仮定するならば、砂糖香のそれは、なぜか正確な数値として計測することを拒むような曖昧さを孕んでいる。だが、強いて既存の単位に収束させるならば、旧人類の小学三、四年生の平均身長に近い。それに付随して、四肢のバランシングもまた、その年齢層の骨格比率を模倣していた。
しかし、その外見は澂とは対極にある。
澂が人類の美的理想を極限まで純化し、エルフの如き超越的な美貌を備えているのに対し、砂糖香はあくまで「人型をした機械」の領域を出ない。そのシルエットこそ人間に似せているものの、表面を覆うのは柔らかな皮膚ではなく、冷ややかな金属と強化樹脂だ。
誰が見ても一目でロボットと分かる、インダストリアルな造形。だが、そこには無機質さゆえの愛嬌――いわゆる「メタリック・キュート」とでも呼ぶべき独特の愛らしさが漂っている。関節を動かすたびに微かな駆動音が鳴り、スピーカーからは合成音声特有のフラットな響きが漏れ聞こえてきそうな、そんなレトロフューチャーな風情があった。
頭部は、かつてのブラウン管テレビを彷彿とさせる形状をしているが、もちろん巨大な箱ではない。身体のバランスに見合ったコンパクトなサイズに収められており、緩やかなカーブを描くガラス面が顔の役割を果たしている。
そこに目鼻立ちは存在しない。代わりに、スクリーン上には原始的なテキストベースの顔文字が表示され、持ち主の感情をデジタルに伝達する仕様となっている。この旧式極まりないインターフェースが、かえって骨董品のような渋みを醸し出していた。
球体関節をあえて隠さず、むしろ構造美として露出させた肘や膝のジョイント部分は、彼が「作られた存在」であることを隠そうともしない潔さを感じさせた。
そして服装についてだが、野生動物に衣服を着せることが虐待と見なされかねないのと同様、この完全な機械体にいかなる布地も蛇足に思われた。
澂はその美的判断に基づき、彼に窮屈な衣服を着せることはしなかった。ただ一枚、タータンチェックのエプロンを除いては。
そのエプロンもまた、ただの布切れではない。一見すると落ち着いた柄に見えるが、その素材は「クロノ・シルク」――可視光線の波長を僅かに逸脱したスペクトルを持つ希少素材で織られており、見る角度や光源によって存在しないはずの色を網膜に幻視させる。
それは、澂がこのたった一機の旧式ロボットのために特別に発注した、究極の一張羅だった。
実は、砂糖香は単なる旧式機ではない。博物館ですら展示を躊躇うほどの、稀代の珍品である。
真剣なコレクターが見れば、このような太陽系遺産級の貴重なロイドを家事雑用に酷使するなど、正気の沙汰ではないと卒倒するだろう。それは文化財に対する冒涜であり、究極の贅沢でもあった。
そんな宝物のようなレトロ・ヒューマノイドが、長い沈黙を破り、澂に声をかけた。
「はい。澂様、お呼びでしょうか?」




