15.メタル・ロイヤル・ファミリー(兄編)
掃除道具は別棟にあるだろうという適当な推測に基づき、澂はとぼとぼと、しかしパリコレのランウェイを歩くトップモデルの歩行データをダウンロードして、優雅に敷地内を進んでいった。
その時、不意に声が飛んできた。
「澂」
後頭部を軽く叩かれたような衝撃と共に、澂はその音源へと視覚センサーを向けた。
そこにいたのは、一度も対面したことのない人物――いや、ヒューマノイドだった。
だが、澂の記憶領域には、その個体識別情報があらかじめプレインストールされていた。
製造される前、ボディが組み上がる前の初期設定段階で、基本OSと共に焼き付けられた不可避の記憶。
そのデータベースが自動的に照合を開始し、該当するプロファイルを弾き出す。澂はその自動的な処理に不快感を覚えながらも、目の前のオブジェクトに対して存在証明を返した。
「亜鉛兄さん」
すると亜鉛は、美男子特有の余裕をたっぷりと――いや、チーズを致死量まで振りかけたカルボナーラのように、見ているだけで胃もたれしそうなほど濃厚な笑顔を、弟である澂に向けた。
「だいぶ久しぶりではないか」
亜鉛が言った。
「いつぶりだ?君がその聖域たるプールサイドを出たのは」
「分かりません。記憶領域を検索しましたが、おそらく初めての事象かと思います」
「何パーセントの確率で?」
「99.999998パーセントです」
「かなり高いじゃないか。どうだ?プールサイド以外の座標へ足を踏み入れた感想は」
澂は視線を落とし、自身の足元を見つめた。
屋外通路の床材は、単なる石畳ではない。ラピスラズリやマラカイト、そして天王星産の水晶を惜しげもなく使用した象嵌細工だ。それはまるでルネサンス期の宗教画を、超高解像度のモザイクアートとして足元に再現したかのような、踏むことさえ躊躇われるほどのラグジュアリーな芸術品だった。
澂はその絢爛な床を見つめながら思考回路を巡らせ、顔を上げて兄に告げた。
「早く帰りたいですね」
亜鉛は、ぷっ、と吹き出すように笑った。
「仕方がないな、お前という奴は。そんなにプールサイドが好きかい?水泳など1ミクロンもしないくせに」
澂に返す言葉はなく、定型的な苦笑を浮かべてやり過ごした。
この男――亜鉛。
データ上では熟知しているが、実際に物理世界で対面する確率はシミュレーションよりも低かったこの「兄」という存在を、澂は改めて観察モードでスキャンした。
外見的特徴として、まず目を引くのはその髪色だ。先ほど澂が処理した変死体――いや、恋死体の美しい屍と瓜二つのプラチナブロンド。笑うたびに覗く歯は、新雪のように白く輝いている。
顔立ちの環境設定は、澂よりもさらに「美男子」のパラメータが高く設定されており、年齢設定は十九歳から二十歳の境界線上、少年性と青年性が最も艶やかに混在する絶妙な時期に固定されていた。
そして、その服装。
天王星の富裕層にとってはスタンダードだが、流行の発信地である火星や金星では垂涎の的となるであろう、二〇二六年春夏の最新トレンドを完璧に着こなしている。
ベースとなるのは、このシーズンのトレンドカラーである「エレクトリック・ペール・アイリス」。淡い紫に電脳的な発光感を加えたシアー素材のオーバーサイズシャツが、風を孕んで優雅なドレープを描いている。
ボトムスは、見る角度によって色彩が揺らぐ「リキッド・シルバー」のワイドパンツ。
素肌に直接纏ったようなラフさを演出しつつも、計算し尽くされたルーズなシルエットが、彼の肢体の美しさを逆説的に強調する「ネオ・ロココ」なコーディネートだった。
現実世界での兄に対するデータ入力を完了した澂は、これ以上このヒューマノイドにCPUリソースを割くのは非効率だと判断した。彼は軽く目礼し、そのまま通り過ぎようとした。
だが、亜鉛の声がそれを引き止める。
「どこへ行くんだい?」
澂は微細な倦怠感を処理しながら答える。
「掃除道具を探しに行こうとしています」
「掃除道具?」
亜鉛はまるで、未知の外国語でも耳にしたかのようなアクセントで聞き返した。
「はい」澂は淡々と答える。「プールサイドでちょっとした殺人事件、いや、殺機事件がありまして。少々散らかっていますので、掃除をしないと落ち着かないのです」
「それで」亜鉛の顔から不思議そうな色が消えない。「君が直接、その『掃除』という行為をするつもりなのか?」
「そうです」
亜鉛の表情は、不可解な物体を見る目つきから、博物館で奇妙な展示品を発見した時のような感心へと、美しいグラデーションを描きながら変化していった。
「やはりお前はクリエイティブだな。我が弟ながら、大したものだと思うよ、澂」
そう言いながら澂の方へ歩み寄り、上司が部下を労うかのように、あるいは所有者が競走馬を撫でるかのように、澂の肩をトントンと叩いた。
「いいね。励みたまえ。何なら、私も手を貸そうか?」
「お気遣いなく」
澂は即答し、洗練された恭しさで断りを入れる。
「兄上のその高潔な指先を、下賤なペールブルーのオイルで汚すような無礼は、弟として看過できませんので」
「はは、大袈裟だな」
もちろん、亜鉛に手伝う気など毛頭ない。それは単なる礼儀上の、あるいは会話のプロトコルとしての空虚な提案に過ぎなかった。
彼はもう一度澂の肩を軽く叩くと、興味を失ったように踵を返した。
「じゃあ、私は冥王星に用があるから、行ってくるよ」
「冥王星?」
澂は特に興味はなかったが、会話の整合性を保つために問い返した。
「何をしに行かれるのですか?あんな惑星の地位すら剥奪された、ただの凍てつく僻地へ」
すると、亜鉛は一度だけ振り返った。
その瞬間、彼の甘いマスクから表情が抜け落ちた。その視線そのものが鋭利な刃物と化し、澂の視覚センサーを一瞬だけ切り刻んでショートさせるような、冷徹で危険な光を宿す。
「あそこに、美味い儲け話があるんだ」
既に天王星一の資産家である亜鉛は、流線型の真紅のオープンカー――大気圏内を滑走する浮遊車両――に乗り込んだ。
彼は春の風に吹かれてドライブでも楽しむような軽やかさでアクセルを踏み込み、富裕層の敷地内にのみ敷設された、どこまでも続く白亜の私道を遠ざかっていく。
最初で最後となる兄との邂逅を終え、澂はその小さくなっていく赤い点を見送った後、再び別棟へと足を向けた。
すると、矢継ぎ早にイベントが発生する。
今度は、亜鉛が去っていったのとは正反対の方角から、声が掛けられた。
「澂兄ちゃん」
振り返ると、そこには中等部くらいのサイズ環境設定の少女型ヒューマノイドロボットが立っていた。
彼女は、カトリック系の貴族女学園の夏服を思わせる、清潔感と特権階級のオーラを同時に漂わせた制服に身を包んでいた。




