13.恋死体
『次は、何が死体?』
澂が投げかけたテレパシーに対し、変死体はしばらくチェーンソー傘をじっくりと見つめてから、念波を返す。
『恋が、死体』
澂は首を横に振る。
『それは出来ない相談だ。君はもう死んでいる。変死体に恋はできない』
『じゃあ、変死体じゃなくて、恋死体になればいいの?』
『言葉遊びはやめろ。私は真剣だ。機能停止したヒューマノイドを抱くような悪趣味は持ち合わせていない』
拒絶された変死体は、うつむいた。
最初は手にしたチェーンソー傘を恨めしげに睨み、まるで「この傘のせいで断られた」と言わんばかりの表情を見せたが、それも束の間。
彼女の瞳の色が変貌した。
赤から、紫へ。
可視光線の波長が短くなり、振動数が極限まで高まった証拠。
彼女の瞳は、高エネルギーの濃密なバイオレットへと発光を始めた。
彼女は歩き出す。
片足を失った不安定な体勢を引きずりながら、澂の方へ。
その足取りは、よちよち歩きの赤子のようでもあり、酩酊者のようでもあり、あるいはパーツを欠損したまま無理やり稼働する産業機械のようでもあった。
彼女は唸りを上げるチェーンソー傘を両手で頭上に掲げ、降り注ぐダイヤモンドの雨を遮りながら近づいてくる。
澂の回路に緊張が走る。
それは回転刃に切り刻まれる恐怖ではない。
彼女が近づけば、その傘の範囲内に自分が取り込まれてしまう。せっかくのダイヤモンドの雨が遮断され、彼女と「相合傘」になることで、再び自分が濡れない状態に戻されてしまうことへの忌避感だ。
このまま座して待つわけにはいかない。
澂は冷静沈着にデッキチェアから立ち上がった。
そして、踵を返すように体の向きを変えると、迫り来る彼女とは逆方向へ向かって、歩き出した。
澂の歩みは緩慢だった。
素足だ。スリッパは、不本意ながらも破壊してしまった二体の残骸の下敷きになっている。
足裏に伝わるのは、プールサイドの硬質なタイルと、そこに広がるペールブルーの粘度。それは砂糖香と潮湖から流出した液状スパークであり、物理的な「死」の感触だった。
澂は、そのヌルリとした不快感をあえて意識しながら歩き続けた。
背後から、チェーンソーの駆動音が迫ってくる。
片足を失った変死体の方が、五体満足な自分よりも速い。澂は呆気にとられたが、かといって自身の脚部モーターを加速させる気にはなれなかった。
動機がない。
この美しくも退屈な邸宅に飾られて以来、彼は慢性的な動機不全症候群に陥っている。
ゆえに彼は、無気力に距離を詰められることを受け入れた。
変死体は追いつき、傘を「さ」した。
まるで包丁を突き立てるように、澂の頭上にその凶器を掲げる。
轟音を上げる回転刃の天蓋が彼の頭上を覆い、再び恩寵たるダイヤモンドの雨を遮断する。
澂のスピーカーから漏れたのは、苦痛に満ちた悲鳴でも、恐怖の喘ぎでもなかった。
それは天王星の青さをそのまま音にしたような、根源的な憂鬱を象徴する深いため息だった。
ため息は不可視の吐血となって、ぽつり、ぽつりと彼の口元からこぼれ落ちる。澂は重篤な結核患者のように口元を覆い、掌に溜まる絶望を幻視した。
変死体はさらに距離を詰め、チェーンソー傘を深く、より深く差し込んでくる。
雨脚は強まっていたが、この鉄壁の防御の下では、地面の跳ね返りさえ届かない。足元を濡らすことさえ許されない、完全なる乾燥地獄。
だから澂は、逃れる代わりに、彼女を抱きしめた。
自分に優しく傘を差してくれる彼女への、感謝なき抱擁。
その感触は、恋人を抱くそれとは程遠い。ただの「物体」を持ち上げる感覚に近い。
澂の両腕は、傘を支える彼女の優しさに呼応するように、腰から背中へ、そして首筋へと這い上がる。それは巨木の上で交尾、あるいは捕食のために絡み合う二匹の大蛇のように、滑らかで冷ややかだった。
腕が首に巻き付く。
澂はそのまま、力を込めた。
ぎゅっと。
ポキリ。
細長い焼き菓子を折ったような軽快な音が、チェーンソーの轟音の下で密やかに響く。
澂は、抑揚のないレチタティーヴォのように呟いた。
「これは首を絞めたんじゃない。ただ腕に力を込めただけだ。だって、君は最初から変死体なのだから」
澂の弁明めいた独白に、変死体は「もちろん」とでも言うように微笑んだ。
苦悶の色は一切ない。むしろ、その湿り気を帯びた、そして文字通り「絞めり気」のあるハグを、無抵抗に楽しんでいるようですらある。
澂はさらに力を込めた。
限界を超えた圧力が掛かる。
正確に、完璧に、この世のいかなる精密機器をもってしても計測不可能なほど厳密な90度の角度へと、変死体の首がへし折れた。
ボキリ、という音と共に。
それは骨が砕ける音というよりは、キンキンに冷えた缶ビールのプルタブをこじ開けた時の、あの爽快な開栓音に似ていた。
既に絞殺痕――あるいは考察痕が刻まれた彼女の首の皮膚素材が裂け、内部の金属骨格が露出する。
折れ曲がったパイプの断面から、プシュッという炭酸の弾ける音と共に、黄金色の液体が噴出される。
それは血液ではなく、明らかに「飲料」だった。
変死体は、自身の首から溢れ出すその液体をシャンパンシャワーのように撒き散らしながら、噴出孔を澂の方へと向け、嬉しそうに提案した。
「祝して、乾杯」
澂は訳が分からなくなり、問いただした。
「一体、何に対する祝いだ?」
すると変死体は、遥か彼方の天国の楽園から、この辺境の小さな青白い点(天王星)を見下ろす半眼の天使のように――そして今まさに、そこへ堕天しようとする愉悦に浸るように、笑いながら告げた。
「私が変死体から、『恋死体』になった記念だよ」
澂は、「変」という漢字と「恋」という漢字の形態的類似性について、プランク時間ほどの時間をかけて熟考した。その類似性を、チーズのようなツマミとしてじっくりと味わってみる。
彼は吸血鬼のように、変死体――いや、もはや恋死体となった彼女の首筋へと口を寄せた。
そして直角に折れた断面に唇を接続し、溢れ出すその祝杯を、ごくごくと喉を鳴らして飲み干した。




