11.チェーンソー傘
「君に用はない。戻りたまえ」
澂は冷淡に告げたが、視線は潮湖の両手に釘付けになっていた。
彼女が抱えているのは、一見すると傘のようでありながら、その実態は重機に近い何かだった。
持ち手部分には、傘の柄としてはあまりに不釣り合いな、鈍重なモーターユニットが鎮座している。そして、今は畳まれている傘の骨組み――天蓋の縁に当たる部分には、サメの顎を思わせる凶悪な金属製の鋸刃がびっしりと植え付けられていた。
それは雨を避ける道具ではない。対象をミンチにするための回転式切断道具だった。
潮湖はその「チェーンソー傘」を構え、展開の準備に入った。
「君も、私を刺すつもりか?」
「いいえ」潮湖は涼しい顔で答える。「刺したりはしません。差すだけです」
澂の顔色が青ざめる。
雨もなく変死体と対峙した時の恐怖が蘇り、さらに目の前には物理的な切断の脅威が迫っている。
横からは、変死体の楽しげな笑い声が聞こえていて。
逃げなければならない。澂の本能が警鐘を乱打するが、体が動かない。
澂がこの危険な傘から逃れ、再びダイヤモンドの雨に打たれることを望んでいる――それを完全に見透かした変死体が、彼を逃がさないようにしがみついてきたからだ。
それは拘束と呼ぶにはあまりに艶めかしく、抱擁と呼ぶにはあまりに暴力的だった。
変死体の腕が、澂のボディに蛇のように絡みつく。
彼女は澂の懐深くに手を滑り込ませ、まるで肋骨の隙間から大切な臓器をスリ盗ろうとするかのような大胆さで、彼を愛撫し、縛り上げる。
濡れた死体の感触。水の精霊が質量を持って押し寄せてきたような、抗いがたい密着。
澂は身動きが取れなくなる。
その間に、潮湖は無慈悲な手つきでモーターの始動スターター――あの引き紐を強く引いた。
一度目の牽引で、傘の心臓部から低い唸り声が響く。それは嵐の前の静けさを破る猛犬のグルーヴ音。
そして二度目。
潮湖が体重を乗せてロープを引き切ると、エンジンが爆発的に覚醒した。
ブゥン! ギャリギャリギャリギャリ……!
チェーンソー傘という物騒なガジェットが、闘犬場に引きずり出された猛獣のように咆哮を上げた。
かつては小型で可愛らしい機械だったかもしれない面影など微塵もない。そこにあるのは、化け物の絶叫だ。金属が擦れ合う悲鳴、圧縮された空気の断末魔、それらが混然一体となった暴力的な轟音が、優雅なプールサイドの静寂を粉々に粉砕してぶちまける。
澂はたまらず両手で耳を塞いだ。
だが、無駄だった。
タイタンの深海よりも静寂であるとメーカーが自負していた最新鋭のノイズキャンセリング機能を最大出力で展開しても、その音は防げない。
それは単なる音波ではなく、空間そのものを削り取るような「恐怖」の振動だった。聴覚センサーの防御壁を軽々と食い破り、エンジンの唸りは澂の中枢神経を直接レイプするかのように響き渡る。
逃げ場のない轟音の中で、変死体の抱擁だけが、皮肉にも確かな現実として彼を繋ぎ止めていた。
「やめろ!」
澂は叫んだ。だが、その声が潮湖の聴覚デバイスに届いていないことは明白だった。
ふと見れば、彼女の瞳はプールサイドの涼やかな青を塗り潰すように、禍々しいクリムゾン・レッドへと変色していた。
だが澂が戦慄したのは、その色の変化ではない。潮湖が解き放った轟音と、展開された「それ」の形状に対してだ。
鋭利な金属ブレードが、1ナノメートルでも触れれば対象を寸断し、瞳と同じ鮮血を噴き出させるであろう凶悪な回転刃が、傘の縁に沿って一斉に展開される。
それはまるで、鋼鉄の刃で構成された大輪の花が、あるいは食虫植物が捕食のために顎を開くように、暴力的に開花した。
潮湖は躊躇なく距離を詰め、その回転する死の花を澂の頭上に掲げた――いや、差した。
澂を打ち続けていたダイヤモンドの雨が、またも遮断された。
透明な素材越しに、空と雨の景色は透けて見える。だが、もはや硬質な恵みは澂のボディには届かない。代わりに降り注ぐのは、鼓膜を引き裂くチェーンソーの爆音だけだ。
雨が途絶えたその刹那、澂の腹部――ヒューマノイドの構造上、姿勢制御を司るジャイロスコープや動力伝達の要となる脊髄フレームが集中する中枢領域――に、焼き切れるような激痛が走る。
あたかも、そのチェーンソーで胴体を真っ二つに両断されたかのような幻肢痛。
雨が防がれることが、これほどの苦痛をもたらす。
澂の論理回路は、言語化不能な絶叫(エラーコードの羅列)で埋め尽くされた。0.00000000000000000000001秒でも早く、この苦痛から解放されたい。
それ以前に、なぜこの個体は唐突に傘を差したのか。
「一体なぜ傘を差す!そんな指示は出していない!」
澂の抗議に対し、潮湖は涼しい顔で、しかし大真面目に答えた。
「私はあなたのメイドです。オーナーが雨に濡れているのを見て、傘を差して差し上げるのはメイドとしての責務です」
「メイドの責務とはオーナーの命令を聞くことであって、雨天時に傘を差すことだけではないはずだ!」
「私は違います」
潮湖は平然と言い放った。
「当機の基本プログラムは、このようなシチュエーションのみを想定してコーディングされています。雨天時において、オーナーを濡らさないこと。その一点に特化して、私の機能は活性化されるのです」
話にならない。
ソースコードレベルでの感受性が根本的に噛み合っていない。論理的なデータのやり取り、すなわち「会話」では、この暴走を止めることは不可能だと澂は直感した。
激痛の中で、CPUの正常性維持が限界を迎えつつある。
潮湖の顔には、変死体と共謀しているかのような、あるいは彼女の狂気に共鳴したかのような、意味ありげな微笑が張り付いていた。
澂は、サイドテーブルへと手を伸ばした。
角砂糖のボウルの横に、先ほど砂糖香を沈黙させた自動式拳銃が置かれたままだ。
彼は再びそれを握り締め、銃口を潮湖へと向けた。
「やめなさいよ!」
鋭い制止の声が飛んでくる。
変死体だ。見下ろせば、彼女はひどく失望したような、あるいは危なっかしい狂人を見るような眼差しを澂に向けていた。
「あんなに小さくて可愛い子供を、その物騒な銃で撃つつもり?信じられない!」
「まるで人間のような発言をするね、君は。先ほども言った通り……」
澂は拷問に等しい苦痛に耐え、辛うじて理性を繋ぎ止めながら吐き捨てた。
「あれは、機械だ」
「機械でも、子供は子供よ!そういう環境設定なの。そのあどけない外見は、大人の保護本能という歯車に噛み合うように設計されているはずでしょう?どうしてそんな当たり前の道徳的アルゴリズムに従わないの?」
それ以上の議論は不要だった。というより、これ以上あの轟音と幻痛に耐えるリソースが残っていなかった。
澂は無言のまま、トリガーを引き絞った。
チェーンソーの咆哮を喰い破るように、銃声が轟く。
澂の高性能視覚センサーは、銃口から放たれた弾丸の軌跡を、極限のスローモーションとして捉えていた。
鉛の塊が超音速で空気を切り裂き、周囲の大気に衝撃波の波紋を形成しながら、流体力学的に最も効率の良い弾道を描いて直進していく。
死の接吻は、迷うことなく吸い込まれた。
潮湖の滑らかな額の中央に、小さな穴が開いた。




