第9話:狂気の連鎖、新たな裏切り者
筒井順慶との戦を終え、久秀が多聞山城に戻ってから、数日が過ぎていた。
城内は、依然として異様な緊張感に包まれていた。久秀の狂気は、もはや家臣たちにとって日常の風景となり、その視線は恐怖と畏敬の間を揺れ動いている。彼らは、いつ裏切り者と断じられ、刀の錆となるかわからない。そんな恐怖が、城内の空気を重く湿らせていた。その重い空気は、まるで裏切りという名の香炉から漂う、甘く、そして腐敗した匂いのように、久秀の鼻腔をくすぐった。
久秀は、天守閣の窓から外を眺めながら、独り言ちた。その声は静かだったが、彼の背後に控えていた松永内記は、その声にわずかに肩を震わせた。久秀の思考は、信長の次の手に向けられていた。油断はできない。奴は、俺の狂気を試している。この狂気が、どこまで信長という魔王に通用するか。あるいは、この狂気を使い潰すための、新たな罠を仕掛けてくるか。
その時、廊下から、軽やかな足音が聞こえてきた。その音は、これまでの家臣たちの重く引きずるような足音とは違っていた。それは、まるで氷の上を滑るような、滑らかで、ほとんど音を立てない足音だった。
(この足音だ……。藤吉郎の、あのぬめった足音とは違う。この音は、もっと冷たい。感情の音がない……。まるで、氷でできた男の足音だ。この男は、俺よりも、もっとたちが悪い。感情を、完全に殺している……。ああ、そうだ。こいつは、山南敬助だ。いつも、ニコニコと笑いながら、俺の感情の揺れを冷静に観察していた、あの男だ)
久秀の前に現れたのは、見慣れない男だった。その男は、すらりと背が高く、穏やかな顔立ちをしていた。口元には、薄っすらと笑みを浮かべている。だが、その笑みは、久秀の目には、感情を殺し、ただ論理だけで動く、冷たい機械のようなものに見えた。男が身につけている装束は、派手なものは一切なく、ただ黒一色。その黒は、光を吸い込み、男の存在を、まるで闇そのもののように見せていた。
男が久秀の前に進み出ると、周囲の空気が一変した。熱く湿っていた天守閣の空気が、一瞬にして冷たくなったような錯覚を覚える。男の身体からは、何の香りも漂ってこなかった。汗の匂いも、香水の匂いも、血の匂いさえも。だが、それが久秀には、無臭であるがゆえに、かえって不気味に感じられた。それは、まるで感情のない裏切り者、そのものの匂いだった。
「お初にお目にかかりまする、久秀様。織田信長様より、お祝いの品をお持ちいたしました。信長様は、久秀様の武勇に、心より感服されておりまする」
男は、藤吉郎と同じ言葉を口にした。だが、その声は、鼻にかかる甘ったるい声とは違い、滑らかで、感情がまったく感じられない、平坦な声だった。その声が、久秀の耳には「裏喰い」と聞こえた。
久秀は、男の言葉を無視し、その顔をじっと見つめた。男の目には、久秀の狂気に対する恐怖も、畏敬もなかった。ただ、すべてを冷静に分析しようとする、論理の光が宿っていた。
(こいつは、俺を殺しに来たのではない。俺という化け物を、観察しに来たのだ。信長という、もう一人の化け物のために……)
久秀の思考は、男の存在をトリガーに、暴走し始める。
男の顔が、近藤勇の偽善的な笑顔に重なる。あの笑顔は、感情を殺し、ただ目的のために笑っていた。違う、違う。これは、土方歳三だ。あの冷たい眼差しは、すべてを論理で割り切り、俺という存在を、ただの障害物として見下していた。いや、違う。これは山南敬助だ。いつも穏やかに笑いながら、俺の狂気がどこまで進むかを、ただ静かに見つめていた。ああ、そうだ。この男は、全員だ。裏切り者たちの、感情のない集合体だ。
「……名を、問うている」
久秀の声は、冷たい鉄のようだった。男は、その声にわずかに眉をひそめたが、すぐに恭しい表情に戻る。
「これは失礼いたしました。わたくし、明智日向守光秀と申します」
明智光秀。その名を聞いた途端、久秀の身体に、雷が落ちたような衝撃が走った。
「……光秀。なるほど、貴様か。信長を裏切り、本能寺で殺す男……。信長を裏切る男は、やはり、裏切り者の匂いがする」
久秀はそう呟くと、光秀の顔をまっすぐに見つめ、にやりと口角を上げた。その顔は、間違いなく芹沢鴨の、豪放で、獰猛な笑みだった。光秀は、その笑みに、これまで見たこともないほどの狂気を感じ、思わず息をのんだ。
周囲に控えていた家臣たちが、久秀の異様な振る舞いに、お互いの顔を見合わせた。彼らは、久秀と光秀の間に流れる、張り詰めた空気に、息をひそめていた。
(一体、久秀様はどうなされたのだ?)(あの男は、信長様の使者ではないのか?)(久秀様が、まるで狂ったように……)
彼らの視線が、まるで裏切りを画策する会議のように、久秀の周りを渦巻く。その視線が、久秀の背中に、無数の針となって突き刺さるような錯覚を覚える。
「……信長に、こう伝えよ。貴様が俺を裏切るまで、俺は貴様を裏切らない、とな」
久秀はそう告げると、光秀に背を向け、悠然と歩き去った。光秀は、その場に一人立ち尽くし、久秀の背中を見つめていた。彼の顔には、笑みが消え、代わりに、これまで誰にも見せたことのない、困惑と、ほんのわずかな恐怖が宿っていた。
「……貴様は、信長様を裏切るとは、お前、信長をどう思っているのだ?」
光秀はそう呟いた。その声は、久秀にはもう届かない。だが、その言葉は、光秀の心に、これまでになかった疑念の種を蒔いた。久秀の狂気は、今、静かに、そして確実に、明智光秀という男の心に伝染し始めていた。




