第7話:再びの狂乱、裏切りの追撃
多聞山城を出陣した久秀は、馬には乗らず、先頭に立って歩いた。真夜中の夜風が頬を撫でる。その風は湿気を帯び、まるで生ぬるい泥の匂いを運んでくるようだった。遠くで、名前も知らない虫の鳴き声がチリチリと聞こえる。それは、久秀の耳には、裏切りを画策する者たちのひそやかな囁き声に聞こえた。久秀の背後には、恐怖で顔を青ざめさせた家臣たちが、静かに続く。彼らの身につけた甲冑が、風に揺れて、時折、ギィ……ミシリ……と不気味なきしみ音を響かせる。彼らの間には、ひそやかな囁き声さえなかった。その沈黙は、久秀には、裏切りを隠し通そうとする、嘘の沈黙に聞こえた。
(ああ、そうだ。この男たちは、俺が油断して、死ぬのを待っている。近藤も、土方も、山南も……。そして、この男たちも、同じだ。全員、俺が死ねば、喜ぶのだ。……ならば、俺は、お前たちを、死ぬまで油断させない)
久秀の思考は、狂ったように暴走する。足元の泥濘が、まるで裏切り者が待ち構える沼のように感じられた。一歩踏み出すたびに、ズボリ、ズボリと、生きた吸盤のように久秀の足を捉える。違う、違う。これは泥ではない。これは、近藤勇が俺を裏切るために仕掛けた、逃れられない罠だ。足を引かれる度に、俺の首筋に、土方歳三の冷たい刀が突き立てられる感触が蘇る。違う、違う。これは山南敬助だ。いつも笑顔で俺のそばに寄り添い、俺が泥沼に足を取られるのを待っていたのだ。
夜闇に包まれた戦場に到着した久秀は、静かに刀を抜いた。甲冑に身を固めた敵兵たちが、彼を囲むように静かに配置につく。その兵士たちの顔は、松明の赤く揺れる光に照らされ、一人、また一人と、久秀の目には、裏切り者の顔に変わっていく。槍を震わせる兵士からは、恐怖に震える歯の音がガチガチと聞こえ、その音は久秀の耳には、裏切り者の嘲笑に聞こえた。
「ああ、お前たちか。近藤、土方、山南……。そして、お前たち、この城の家臣どもよ」
久秀は、そう独り言ちた。その一言が、静寂に包まれた戦場に響き渡る。その言葉を聞いた瞬間、久秀の足が、泥濘んだ地面を踏みしめた。足元の泥が、まるで生きた吸盤のように、久秀の足に吸い付く。だが、久秀は、その抵抗を無視し、再び敵陣へと駆け出した。その瞬間、彼の背後から、味方の家臣たちが、一斉に恐怖の息を漏らした。その安堵の吐息が、久秀には嘲笑に聞こえた。
久秀は、長刀をまるで紙吹雪のように、軽々と振るい続けた。
ガキィンッ! 槍が砕ける甲高い音。ミシリ、ミシリと、骨が軋む不気味な音。そして、ドサッと、肉の塊が地面に落ちる鈍い音。それらの音が、三層に重なり合い、彼の耳にはまるで心地よい音楽のように聞こえた。長刀の刃先から、どす黒い血が滴り落ちる。ピチャ……ピチャ……と、鮮血が地面に滴る音が、やけに鮮明に聞こえた。
城壁の上から、その光景を見ていた筒井順慶は、呆然と立ち尽くしていた。
「あれが……松永久秀だと? 儂が知る久秀ではない。あれは、鬼だ……」
彼の脳裏には、久秀の言葉が響いていた。「裏切り者とは、こうして牙を剥くものだ」。
順慶は、恐怖に震えながら、城の兵士たちに命じた。
「鉄砲隊を、用意せよ! あの化け物を、討ち取れ!」
その命令が下された瞬間、夜闇に包まれた戦場に、鉄砲の轟音が響き渡る。だが、その轟音は、久秀には、信長が俺を裏切るために、土方歳三に命じて放たせた、裏切りの銃声に聞こえた。
(信長……。貴様は、俺を裏切るために、こんな音まで用意したのか。ああ、そうだ。あの夜も、こうして雨が降っていた。京都の町を、血で染めた、あの夜だ。近藤と土方は、笑っていた。俺が死ねば、喜ぶのだろう。そうだ。あの男たちは、俺の死を望んでいた。この男たちも、同じだ。全員、俺が死ねば、喜ぶのだ。……だが、俺は、お前には負けん)
久秀は、鉄砲の弾が飛んでくるのを、まるで楽しんでいるかのように、身をかわし続けた。銃弾が風を切る音が、ヒュン……ヒュンと耳をかすめる。それは、久秀には、裏切り者の囁き声に聞こえた。そして、銃弾が甲冑を弾く音が、チィン、チィンと鳴り響く。それは、久秀には、裏切り者が俺の命を弄ぶ、裏切りの鈴の音に聞こえた。
久秀は、敵の兵士の懐に飛び込み、長刀を振るった。
その一閃が、敵の兵士の身体を、まるで藁人形のように宙を舞わせる。彼の周りに、血の華が咲き乱れる。ピチャ、ピチャと、鮮血が地面に滴る音が、やけに鮮明に聞こえた。その血の匂いは、久秀の鼻腔に、濃い鉄錆の匂いと、硝煙の匂いを運んできた。その匂いが、まるで裏切り者の屍の匂いのように感じられた。
やがて、久秀の周囲には、誰も立っていなかった。
長刀の刃先から、どす黒い血が滴り落ちる。
彼は、その刀身をじっと見つめ、静かに呟いた。
「……裏切りは、まだ終わらない。近藤、土方……そして、この世界のすべての裏切り者たちよ。俺は、お前たちを皆殺しにするまで、この刀を振るい続ける」
久秀は、勝利に酔いしれることもなく、ただ静かに、次の裏切り者を探し求めていた。夜が明け始めた空が、鉛色から不穏な赤色へとその色を変えていく。それは、久秀には、まるで血に染まった天井のように見えた。彼の背後から、怯えた家臣たちが、久秀の背中を、裏切りの種を宿した瞳で見つめていた。




