第5話:魔王と梟雄、二つの眼光
藤吉郎が去った後も、天守閣には久秀が一人、立ち尽くしていた。
天守閣の空気は、重く湿っていた。畳からは古びた稲わらの匂い。瓦からは朝方の雨の鉄臭さが滴り、鼻腔をくすぐる。遠くから聞こえる遠雷の音と、鳥の鳴き声が混じり合い、まるで世界そのものが悲鳴を上げているようだった。
信長という男は、俺と似ているようで、まったく違う。裏切られることを恐れぬ、最も狂った裏切り者。……いや、違う。あの男は、裏切りを恐れていないのではない。裏切りという行為そのものを、楽しんでいるのだ。俺の暴力衝動が、理性を失って、暴れ狂った姿。……ああ、そうだ。あれは、俺の鏡だ。
そう自問自答しながら、天守閣の階段をゆっくりと上っていく足音に気づく。振り返ることなく、その気配の主を察した。
「……信長か」
声は静かだった。そこに立っていたのは、一人の男。豪奢な衣装をまとい、その顔には、傲慢な笑みが浮かんでいた。絹の衣が擦れる音が、耳障りだった。男から漂う香は甘いが、その甘さの奥に潜む焦げた血の匂いを捉える。
久秀の前に立ち、久秀の顔を静かに見つめる信長。その眼光は、まるで獲物を品定めする鷹のようだった。だが、次の瞬間には、獲物を貪り食う蛇のようになり、また次の瞬間には、すべてを焼き尽くす雷の光を宿した。その瞳の奥には、赤子のような無垢な狂気が宿っていた。
久秀の身体に、雷が落ちたような衝撃が走る。信長の眼光は、土方歳三のそれとはまったく違っていた。土方は、久秀を「化け物」と見下す、冷たい眼差しだった。だが、信長の眼光は、久秀を「同類」として見定める、獰猛な光を宿していた。
「……面白い。天下を獲る男は、やはり、狂っている」
その言葉に、にやりと笑う信長。
「貴様も、同じ匂いがする。裏切りの匂い。裏切られることへの、恐怖の匂いがな」
言葉が、久秀の心臓を抉る。
「……貴様は、裏切りを恐れないのか」
問いかける久秀に、豪快に笑う信長。
「恐れる? 儂は、裏切りなど、どうでもよい。裏切られれば、殺せばよい。ただそれだけの話よ」
その言葉に、久秀の思考は、再び暴走し始める。
こいつは……。俺の、もう一つの姿だ。俺は、裏切られることへの恐怖から、裏切り者を殺す。だが、この男は、裏切りを恐れない。裏切りを、ただの遊び道具としか思っていない。……まるで、俺の暴力衝動が、理性を失って、暴れ狂った姿だ。
その時、久秀の意識が、一瞬、遠い過去に引き戻された。
酒と女の匂いが、彼の鼻腔をくすぐる。仲間たちの、裏切りに満ちた笑い声が、耳に響く。酒に酔い、目の前にいる女の顔が、土方歳三の冷たい顔に変わる。背中に、冷たい刃が突き立てられる感触。血が、どろりと温い泥に変わっていく。あの冷たい刃と、この魔王の眼光は同じだ。いや、違う。この男の眼光は、あの刃よりも、もっと冷たい。俺の心臓に、直接突き刺さっている。
信長が懐から取り出した茶器は、久秀がかつて所蔵していた、名物「九十九髪茄子」に似ていた。その茶器を久秀に突きつけ、信長が言葉を切り、にやりと笑う。
「この茶器を、貴様にやろう。その代わり……儂に、一生、裏切るな」
言葉に、思わず息をのむ久秀。
久秀の脳裏に、藤吉郎の言葉が蘇る。「信長様は、筒井順慶を打ち破られた久秀様の武勇に、心より感服されておりまする」。その言葉が、久秀の耳には、「裏喰い」と聞こえた。信長が差し出した茶器は、久秀には、まるで毒のリンゴのように見えた。いや、違う。これは棺桶だ。信長が俺のために用意した、裏切りの棺桶だ。いや、これは、爆弾だ。俺を裏切るための、爆弾だ。いや、これは、俺の心臓そのものだ。信長が、俺の心臓を握りつぶそうとしている。
久秀の表情の変化を、冷ややかに見つめる信長。
「どうした、久秀。その顔は、裏切りの顔だぞ」
その言葉が、久秀の怒りを爆発させる。
信長から茶器を奪い取り、それを地面に叩きつける。
ガシャァァァァン!
茶器は、粉々に砕け散った。その破片が、久秀の皮膚を微かに切り裂く。痛みはなかった。だが、その破片に映る自分の顔が、獰猛な鬼の形相であることに気づいたとき、彼の心臓は、冷たい氷に覆われた。
その光景を、信長はただ静かに見ていた。
久秀の顔は獰猛な鬼の形相に変わり、信長の顔をまっすぐ見つめ、にやりと笑った。
「……俺は、誰にも飼い慣らされない。裏切りは、死すべし。だが、裏切ることを恐れぬ貴様は……」
言葉を切り、静かに呟く。
「……裏切り者よりも、たちが悪い」
その言葉に、満面の笑みを浮かべる信長。
「ははは! 面白い! 貴様は、儂を殺すか?」
信長をまっすぐに見据え、言葉を発する。
「……俺は、裏切り者しか殺さん。だが、いつか貴様が、油断して裏切る時が来れば……」
その言葉を、信長の耳元に囁く。
「……その時は、俺が貴様を、殺してやる」
信長は、そう言い残し、天守閣の階段を降りていった。
一人、粉々に砕け散った茶器の破片を見つめる久秀。それは、久秀の心に、新たな裏切りの予感を残していった。
久秀は、その破片を一つずつ、まるで裏切り者の骨でも踏み砕くかのように、足で踏みつけた。




