第4話:猿の顔と、裏切りの匂い
筒井順慶との戦を終え、久秀が多聞山城に戻った時、城内は異様な熱気に包まれていた。
家臣たちは、久秀を見るなり、腰を低くし、震える声でその武勇を讃えた。彼らの顔には、恐怖と畏敬の念が混じり合っていた。久秀は、その視線を冷ややかに感じ取っていた。
(ああ、そうだ。こいつらは、俺を恐れている。近藤や土方が俺を恐れたように。だが、その恐怖は、いつか裏切りに変わる。俺が油断した時、こいつらは、一斉に俺に牙を剥く。……あの時の、背中に走った冷たい感触が、まだ残っている)
久秀は、誰にも聞こえないように呟いた。
その耳に、庭石を踏む、軽やかな足音が聞こえた。
砂利を踏む音は、本来「ジャリ」と乾いた響きを立てるはずなのに、その歩みは「ジャリ…リリ…」と妙に粘ついた、湿り気を帯びた音に聞こえた。
(この足音だ……屯所で酒を注ぎに来た新見錦の、あのぬめった足音と同じだ。表では笑い、裏では刃を磨いていた……。いや、山南敬助か。あの、いつもニコニコしながら、俺の知らないところで、裏切りを画策していた、あの男だ)
久秀の前に現れたのは、見慣れない男だった。
その男は、猿のようにひょろりと背が高く、どこか愛嬌のある顔をしていた。
だが、その愛嬌のある笑顔の下に、底知れぬ狡猾さを隠していることを、久秀は瞬時に見抜いた。
男は、久秀の前にひざまずき、恭しい言葉を口にする。その声は、鼻にかかるような、妙に甘ったるい調子だった。
「お初にお目にかかりまする、久秀様。織田信長様より、お祝いの品をお持ちいたしました。信長様は、筒井順慶を打ち破られた久秀様の武勇に、心より感服されておりまする」
男はそう言いながら、頭を下げた。
久秀は、男の言葉を無視し、その顔をじっと見つめた。
男の笑顔に、差し込む光が当たった。歯が黄ばんでおり、一本だけ妙に尖っている。
それが、久秀には「裏切りの牙」に見えた。
久秀の思考は、男の言葉をトリガーに、暴走し始める。
男が「祝い」と口にしたはずの声が、久秀の耳には「裏喰い」と響いた。
(ああ、やはりそうだ。こいつは、俺を祝いに来たのではない。俺を裏切って喰らいに来たのだ)
香炉から漂う甘い香りと、男の身体から漂う汗の匂い、そして久秀自身の身体に染みついた血と鉄の匂いが混ざり合い、彼の嗅覚を極限まで研ぎ澄ませる。
(この男は、俺を試している。……そうだ。近藤勇は、いつもそうだった。表面上は俺に敬意を払いながら、その実、俺の真意を探ろうとしていた。この男は、近藤勇だ。いや、もっとたちが悪い。近藤はまだ、裏切りを隠し通そうとしていた。だが、この男は、裏切りを遊び道具にしている)
久秀は、男の顔を見ながら、その男の存在を「謀略衝動」と名付けた。
彼の暴力衝動とは対極にある、言葉と笑顔で人を操る、最も危険な存在。
その時、男の背後に、誰もいないはずの巨大な影が立ち上がる。
それは、織田信長の幻影。魔王の眼光が一瞬だけ差し込み、久秀の心臓を冷たく締めつけた。
「……名を問うている」
久秀の声音は、冷たい鉄のようだった。
男は、その声にわずかに肩をすくめ、再びにやりと笑った。その笑い声は、どこか湿り気を帯びていた。
「これは失礼いたしました。わたくし、木下藤吉郎と申します」
木下藤吉郎。その名を聞いた途端、久秀の身体に、雷が落ちたような衝撃が走った。
「……藤吉郎。後の豊臣秀吉か。なるほど……。天下を獲る男は、やはり、裏切り者の匂いがする」
久秀はそう呟くと、藤吉郎の顔をまっすぐに見つめ、にやりと口角を上げた。
その顔は、間違いなく芹沢鴨の、豪放で、獰猛な笑みだった。
藤吉郎は、その笑みに、これまで見たこともないほどの狂気を感じ、思わず息をのんだ。
周囲に控えていた家臣たちが、久秀の異様な振る舞いに、お互いの顔を見合わせた。
(一体、久秀様はどうなされたのだ?)(あの男は、信長様の使者ではないのか?)(久秀様が、まるで狂ったように……)
彼らの視線が、まるで裏切りを画策する会議のように、久秀の周りを渦巻く。
「……信長に、こう伝えよ。俺は、油断しない。そして、裏切り者は、死すべし、とな」
久秀はそう告げると、藤吉郎に背を向け、悠然と歩き去った。
藤吉郎は、その場に一人立ち尽くし、久秀の背中を見つめていた。
彼の顔には、笑みが消え、代わりに、これまで誰にも見せたことのない、冷たい光が宿っていた。
「……面白い。儂と同じ、怪物だ」
彼は、そう呟いた。




